先日の障がい者カフェの記事を読んで、
カンボジアに住む知り合いの女性から、以下のようなメッセージをいただいた。
障がい者カフェは辞めた方が良いと思います。
昔ボランティアで行っていたことがありますが、
あくまで福祉施設になってしまって、障がい者としてしか相手を観なくなります。
補助などを貰っても良いとは思いますが、
福祉や障がい者などを表に出すことは止め、味やサービスを徹底して利益追求した方が良いと思います。
障害があるなら何かで補えば、障害ではありません。
障がい者を障がい者として観ていたら、ずっと偏見です。
人間苦手なこと、できないことは絶対あります。
ある意味この世の中に障がい者ではない人はいません。
しごくもっともなことでである。
特に最後はグサッときた。
前にも書いたが、まぎれもなくボクも障がい者である。
ただ、障がい者手帳は持っていない。
診察を受けても障がい者とはみなされないかもしれない。
いわゆる隠れ障がい者である。
だが、ボクの周りにはそうした人が何にもいる。
社会不適合者と言い換えてもいいかもしれない。
こうした人の特徴は人とのコミュニケーションがうまく取れないことが多い。
集中力に欠けるから、仕事をしても長続きしない。
社会不適合者をネットで調べてみると、
、
「会社に合わない」「理不尽な対応に疑問を感じる」「社会のシステムになじめない」「就職 に疑問を感じる」など、
社会のルールやシステムに疑問を感じる人、なじめ ない人を社会不適合者といいます。
こういう人は社会に出てもなかなかうまくいかないような人だ。
多くの人が歩む一般社会というレールの上ではレールを外れた者を社会不適合者や 負け組と呼ぶ、ともある。...
あるいは、社会不適合者とは、一般社会の要求に応えて生活することが困難な者のことである。
日本社会においては、空気を読んで、他者とコミュニケーションを取る必要があり、
空気 が読めない人間は、社会不適合者であることが多い。
人は皆心のどこかに傷を持ち、悩みを抱え、問題を抱く。
完璧な人間なんて存在しない。
欠点があるのが人間なのだ。
そこに完ぺきを求めようとするところにそもそも矛盾がある。
完璧主義、生真面目な人が鬱になりやすいゆえんだ。
細かいことを気にしすぎる、
過去のことをいつまでも悔やむ、
起きてもいない先のことを不安に思って悩む。
この3拍子もそろっている。
さらに、いい子になろうと周囲の目を気にする割には、行動が自己中に偏ってしまう。
そこにイライラやストレスが生じ自分を傷つけてしまう。
パラノイア(思い込み)が強く、応用が利かないことも特徴だ。
つまり変化に対して適応能力に欠けるから”不適合”になってしまうのだ。
これらはいわば一種の発達障害にあたあるのではないだろうか。
こうした障がい者手帳を持たない障がい者予備軍が巷にはあふれている。
ボクも例外ではなくその一人である。
だから、自分を含めて何とかしたいという気持ちが働くのだ。
障がい者であることを隠さず、それでも堂々と生きてやる、といった気概が必要なのではないか。
障がい者には特権がある。
公共交通機関が割引料金で利用できる。
介助者も同じだ。
これはボクにも経験があるからよくわかる。
それに、障がい者年金というのがもらえるらしい。
それで、酒を飲んだりタバコを吸ったりギャンブルにいそしんでいる者もいる。
正直羨ましさえ感じる時がある。
毎日あくせく仕事をし、資金繰りに頭を悩ませるより、
いっそ生活保護に身を置きたい時だってある。
ただそうなると海外へは行けなくなる。
それがボクを思い留まらせている。
そして、ボクのいい加減な性格が鬱になることをかろうじて防いでいるのかもしれない。
ボクが外国人や障がい者と今くやっていけるのは、偏見を持たないからだ。
彼らはどこかうしろめたさを持っている。
居づらさを感じている。
インターナショナルカフェも、障がい者カフェもそれを逆手に取った考えから来ている。
だからボクは、障がい者であることを憚らず前面に出してもいいのではないかと考えている。
『障がい者による、障がい者のための、障がい者のカフェ』
障がい者が胸を張って働ける場。
障がい者イコール社会不適合者ではない。
パラリンピックのように、障がい者が多くの人に勇気を与え、
堂々と社会に貢献できる姿を増やしていきたい。
【追記】
カンボジアには地雷で足や腕を亡くした人がたくさんいる。
彼らは、楽器を演奏して生計を立てている。
立派なミュージシャンだ。
看板にちゃんと書いてある
彼らはこういう。
我々はお金をめぐんでもらう必要はない。
ちゃんと仕事をしてお金を稼いでいるのだ、と。
カンボジアに住む知り合いの女性から、以下のようなメッセージをいただいた。
障がい者カフェは辞めた方が良いと思います。
昔ボランティアで行っていたことがありますが、
あくまで福祉施設になってしまって、障がい者としてしか相手を観なくなります。
補助などを貰っても良いとは思いますが、
福祉や障がい者などを表に出すことは止め、味やサービスを徹底して利益追求した方が良いと思います。
障害があるなら何かで補えば、障害ではありません。
障がい者を障がい者として観ていたら、ずっと偏見です。
人間苦手なこと、できないことは絶対あります。
ある意味この世の中に障がい者ではない人はいません。
しごくもっともなことでである。
特に最後はグサッときた。
前にも書いたが、まぎれもなくボクも障がい者である。
ただ、障がい者手帳は持っていない。
診察を受けても障がい者とはみなされないかもしれない。
いわゆる隠れ障がい者である。
だが、ボクの周りにはそうした人が何にもいる。
社会不適合者と言い換えてもいいかもしれない。
こうした人の特徴は人とのコミュニケーションがうまく取れないことが多い。
集中力に欠けるから、仕事をしても長続きしない。
社会不適合者をネットで調べてみると、
、
「会社に合わない」「理不尽な対応に疑問を感じる」「社会のシステムになじめない」「就職 に疑問を感じる」など、
社会のルールやシステムに疑問を感じる人、なじめ ない人を社会不適合者といいます。
こういう人は社会に出てもなかなかうまくいかないような人だ。
多くの人が歩む一般社会というレールの上ではレールを外れた者を社会不適合者や 負け組と呼ぶ、ともある。...
あるいは、社会不適合者とは、一般社会の要求に応えて生活することが困難な者のことである。
日本社会においては、空気を読んで、他者とコミュニケーションを取る必要があり、
空気 が読めない人間は、社会不適合者であることが多い。
人は皆心のどこかに傷を持ち、悩みを抱え、問題を抱く。
完璧な人間なんて存在しない。
欠点があるのが人間なのだ。
そこに完ぺきを求めようとするところにそもそも矛盾がある。
完璧主義、生真面目な人が鬱になりやすいゆえんだ。
細かいことを気にしすぎる、
過去のことをいつまでも悔やむ、
起きてもいない先のことを不安に思って悩む。
この3拍子もそろっている。
さらに、いい子になろうと周囲の目を気にする割には、行動が自己中に偏ってしまう。
そこにイライラやストレスが生じ自分を傷つけてしまう。
パラノイア(思い込み)が強く、応用が利かないことも特徴だ。
つまり変化に対して適応能力に欠けるから”不適合”になってしまうのだ。
これらはいわば一種の発達障害にあたあるのではないだろうか。
こうした障がい者手帳を持たない障がい者予備軍が巷にはあふれている。
ボクも例外ではなくその一人である。
だから、自分を含めて何とかしたいという気持ちが働くのだ。
障がい者であることを隠さず、それでも堂々と生きてやる、といった気概が必要なのではないか。
障がい者には特権がある。
公共交通機関が割引料金で利用できる。
介助者も同じだ。
これはボクにも経験があるからよくわかる。
それに、障がい者年金というのがもらえるらしい。
それで、酒を飲んだりタバコを吸ったりギャンブルにいそしんでいる者もいる。
正直羨ましさえ感じる時がある。
毎日あくせく仕事をし、資金繰りに頭を悩ませるより、
いっそ生活保護に身を置きたい時だってある。
ただそうなると海外へは行けなくなる。
それがボクを思い留まらせている。
そして、ボクのいい加減な性格が鬱になることをかろうじて防いでいるのかもしれない。
ボクが外国人や障がい者と今くやっていけるのは、偏見を持たないからだ。
彼らはどこかうしろめたさを持っている。
居づらさを感じている。
インターナショナルカフェも、障がい者カフェもそれを逆手に取った考えから来ている。
だからボクは、障がい者であることを憚らず前面に出してもいいのではないかと考えている。
『障がい者による、障がい者のための、障がい者のカフェ』
障がい者が胸を張って働ける場。
障がい者イコール社会不適合者ではない。
パラリンピックのように、障がい者が多くの人に勇気を与え、
堂々と社会に貢献できる姿を増やしていきたい。
【追記】
カンボジアには地雷で足や腕を亡くした人がたくさんいる。
彼らは、楽器を演奏して生計を立てている。
立派なミュージシャンだ。
看板にちゃんと書いてある
彼らはこういう。
我々はお金をめぐんでもらう必要はない。
ちゃんと仕事をしてお金を稼いでいるのだ、と。