過酷な出稼ぎに反発 比・タイ「死んで帰国も」 上田で懇談会 SOS外国人
信濃毎日新聞 1991年10月26日
タイやフィリピンで日本から帰国した女性に対するソシアルケースワーカーとして働いている女性ら3人が25日上田市を訪れ、日本人と結婚した市内のフィリピン人女性4人と懇談した。福島県でのフィリピン人女性ダンサー死亡事件などに論議が集中。ケースワーカーたちは「日本から死んで帰ってくる女性はほかにもいる。過酷な出稼ぎを通じ日本への反発が強まっている」と報告した。
上田カトリック教会で開いた懇談会は、長野市や上田市の主婦らの市民グループ「アジアの花ヨメを考える会・ながの」が呼び掛けた。フィリピン人のケースワーカー、ルビー・ジャーデニルさん(31)と国立フィリピン大学大学院生で現地でディスクジョッキーを担当している穴田久美子さん(31)=北海道出身、タイ人のケースワーカー、パンニー・アスワポンチョトさん(38)が出席した。
ルビーさんは自分の活動経験から「日本から女性が帰国する理由の第一は精神的な不安など、、、死亡しての帰国」と報告。穴田さんらによると、出稼ぎのフィリピン人女性が事故や病気で死亡しても、日本ではあまり問題にされていないようだという。
福島県のダンサー死亡事件では、現地の新聞などを手に議論。ルビーさんは「フィリピン国内では、経済大国の日本に黙っていたが、もう我慢できないという気持ちが強くなっている」と指摘。「娘を日本に送った家族の不安を知ってほしい」と呼び掛けた。
穴田さんが、ダンサーの家族から提供してもらった遺体の写真を前に、女性たちはショックを受けた表情で「フィリピンだけでなくアジア全体の問題」と話していた。日本での結婚生活では、文化や習慣の違いによるすれ違い、差別の悩を訴える人が目立った。「あいさつしても返事をしてもらえないことが多い」という女性もいた。
参加者は、日本に住む外国人女性たちのネットワークづくりを強調。パンニーさんは「タイの女性は英語を話せない人が多く孤立している。危険に陥ることも多い」と指摘。
「身を守るため、法律や制度についての情報交換が必要」と交流を呼び掛けた。
「考える会」は27日、同教会で外国人女性と家族たちの交流会を開き、ネットワークづくりを支援していく。
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「南京大虐殺」に詳細資料 独外交官の報告発見 旧東公文書館「身の毛もよだつ」
【ボン17日=共同】昭和12年(1937年)12月13日に旧日本軍が中国・南京に入城した際に起きたいわゆる「南京大虐殺事件」に関するドイツ外交官の現地からの
詳細な報告文書が旧東ドイツ国立中央公文書館(現在、ドイツ連邦公文書館ポツダム支所)に保存されていることが分かり、このほどそのコピーを入手した。
文書は当時、南京にいたドイツ人やその他の外国人が直接見聞した事実に基づいて、旧日本軍の行動を「グロイエルターテン(Greueltaten、残虐行為)(38年1月15日報告)と表現、日本兵が市内で多数の無抵抗の市民を殺りくし、女性に対する暴行や「略奪の限りを尽くしていた」などと伝えている。
当時のドイツは日本と防共協定(36年)を結んでいた。しかし、現地のドイツ外交官は、中国での旧日本軍の行動は反発を買い、「ドイツの政策目標である共産主義の拡大防止に明白に対立する」(37年12月24日付)と厳しく批判していたことも明らかになった。
共同通信が入手した文書は同中央公文書館に保存される「在中国ドイツ大使館文書」のうち「日中紛争、1937年12月から1938年12月まで」のタイトルでまとめられた部分。タイプ用紙にして約190枚。
南京大虐殺関連の報告には主として、ドイツ大使館南京分館のローゼン政務書記官の署名がつけられ、東京裁判でも証言した米国聖公会のマギー牧師が撮影した記録映画の
各シーンごとの詳細な記録も含まれている。
神父から提供を受け、本省に送ったフィルム(現在、行方不明)に添付した報告の中で、同書記官は「身の毛もよだつドキュメント。(ヒトラー)総統もぜひ見てほしい」と述べている。
南京大虐殺の犠牲者の総数について具体的な言及はないが、ローゼン書記官は「郊外の下関港には大量虐殺に由来する約3万の死体が流れ着いた」(38年3月4日付)と報告している。
「港には3万の処刑死体が漂着」
【ボン17日=共同】旧東ドイツ国立中央公文書館で発見された「在中国ドイツ大使館文書」の要旨は次の通り。
(特記しない限り、ドイツ大使館南京分館ローゼン書記官からベルリンのドイツ大使館あて)
・南京情勢に関するロイター通信スミス記者の講演(38年1月1日付、漢口発ドイツ情報局あて)
37年12月9日 初めて遠くから大砲の音。
12日 中国軍1個師団が市内に入ったが、統制もとれないまま北へ逃亡しているようだ。夕方、市内南部から全面撤退開始。約千人の残留部隊も真夜中までに完全にせん滅された。北門前には1メートルほどの高さになった兵士と民間人の死体がある。私の推計では千人ほどか。
13日 前夜、南門での戦闘で約千人の中国人が死亡したもよう。未明になり、中国兵と民間人が略奪を始めた。
14日 昼ごろから日本兵は部隊所属章を外して略奪を始めた。
15日 略奪が続き、多くの中国人女性、少女が自宅から連れ去られた。日本軍が広場で中国人数千人を縛り上げ、射殺するため小人数のグループに分けた。中国人はひざまかされ、後頭部に銃弾を1発撃ち込まれる。こうして殺された人を100人ほど目撃した。
・日本軍の残虐行為と南京情勢(1月15日付)
一、南京市内は日本軍の略奪で廃虚と化した。けだもののような暴行の例は数百件も反論の余地なく挙げることができる。
一、ドイツ大使館の事務課でさえ、給仕が銃を突き付けられて、女性を差し出せと脅迫された。大使の私邸までも、女性を渡せと侵入してきた。
・南京の変化(1月20日付)
一、安全区国際委員会は3日間の停戦などを日中両国に提案したが、蒋介石に拒否された。日本軍の近藤海軍少将は、英海軍のホールト提督に対し、南京の下流の中洲には
3万人の中国兵がいて「掃討」しなければならないと認めた。これは機関銃の一斉射撃や、燃料をかけて焼き殺すことを意味する。
・日本軍の残虐行為の映像記録(2月10日付)
一、米国聖公会のジョン・マギー牧師は日本軍の行為を撮影、これは日本軍の残虐行為を雄弁に物語っている。同封した英文の解説は、映画同様、身の毛もよだつドキュメントであり、総統にもぜひ見てほしい。
・38年2、3月の南京の状況(3月4日付)
一、2月および3月初めに南京とその周辺の状況は一応安定した。残虐行為は数の上では減少したが、質の面では相変わらずだ。
一、紅卍字会が大量の死体の埋葬を少しずつ進めている。郊外の下関港には大量処刑された約3万体の死体が流れ着いており、紅卍字会は毎日500から600体を共同墓地に埋葬している。
【朝日新聞 1990年12月18日掲載】
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過酷な出稼ぎに反発 比・タイ「死んで帰国も」 上田で懇談会 SOS外国人
信濃毎日新聞 1991年10月26日
タイやフィリピンで日本から帰国した女性に対するソシアルケースワーカーとして働いている女性ら3人が25日上田市を訪れ、日本人と結婚した市内のフィリピン人女性4人と懇談した。福島県でのフィリピン人女性ダンサー死亡事件などに論議が集中。ケースワーカーたちは「日本から死んで帰ってくる女性はほかにもいる。過酷な出稼ぎを通じ日本への反発が強まっている」と報告した。
上田カトリック教会で開いた懇談会は、長野市や上田市の主婦らの市民グループ「アジアの花ヨメを考える会・ながの」が呼び掛けた。フィリピン人のケースワーカー、ルビー・ジャーデニルさん(31)と国立フィリピン大学大学院生で現地でディスクジョッキーを担当している穴田久美子さん(31)=北海道出身、タイ人のケースワーカー、パンニー・アスワポンチョトさん(38)が出席した。
ルビーさんは自分の活動経験から「日本から女性が帰国する理由の第一は精神的な不安など。次いで死亡しての帰国」と報告。穴田さんらによると、出稼ぎのフィリピン人女性が事故や病気で死亡しても、日本ではあまり問題にされていないようだという。
福島県のダンサー死亡事件では、現地の新聞などを手に議論。
ルビーさんは「フィリピン国内では、経済大国の日本に黙っていたが、もう我慢できないという気持ちが強くなっている」と指摘。「娘を日本に送った家族の不安を知ってほしい」と呼び掛けた。
穴田さんが、ダンサーの家族から提供してもらった遺体の写真を前に、女性たちはショックを受けた表情で「フィリピンだけでなくアジア全体の問題」と話していた。
日本での結婚生活では、文化や習慣の違いによるすれ違い、差別の悩みを訴える人が目立った。「あいさつしても返事をしてもらえないことが多い」という女性もいた。
参加者は、日本に住む外国人女性たちのネットワークづくりを強調。パンニーさんは「タイの女性は英語を話せない人が多く孤立している。危険に陥ることも多い」と指摘。
「身を守るため、法律や制度についての情報交換が必要」と交流を呼び掛けた。
「考える会」は27日、同教会で外国人女性と家族たちの交流会を開き、ネットワークづくりを支援していく。
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執筆記者から昨夜、以下に返信
「懐かしい記事、わざわざ報告いただきありがとうございます!」
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GHQ 日本国民向け「再教育」映画 佐久総合病院 題材に
徳島市でフィルム発見 「農村民主化」に注目 信濃毎日新聞 2000年8月17日
写真キャプション=佐久総合病院を題材にしたGHQ関連映画をビデオで見る若月俊一名誉総長
戦後、日本の民主化を進めた連合国軍総司令部(GHQ)が、佐久総合病院(南佐久郡臼田町)の農村民主化運動に注目し、日本国民向けの「再教育」映画の題材としていたことが
16日までに分かった。映画フィルムは他の再教育フィルムと一緒に徳島県で見つかった。歴史専門家は「当時の県内の農村風景を伝えるだけでなく、民主化運動の一端と、GHQとのかかわりを示す貴重な映像資料」と注目している。
佐久総合病院は戦後、講話や演劇を通じて衛生思想の普及に務めたり、病気の早期発見に力を入れようと出張診療を始めるなど、農村の民主化に取り組んだ。
今回見つかったフィルムや関係資料によると、同病院の活動は「腰のまがる話」という題で、「封建的因習にとらわれた農村婦人の解放を描いたもの」という説明が付いており、1949(昭和24)年の完成となっている。
前半は「農村の女性はなぜ腰が曲がってしまうのか」という会話で、女性は厳しい農作業やお辞儀ばかりしているから、などと理由が語られる。後半は病気の子供をお祈りで治そうとするシーンや、子供を抱え同病院へ駆け込んだ母親に対し、医師が科学的治療の大切さを諭すシーンなどが映っている。
16ミリのモノクロで、上映時間は20分。八ヶ岳や当時の病院の正門も映っており、南佐久郡内のロケ地でエキストラを多数使った可能性もあるという。
昭和20年代前半は、GHQの民主化路線に沿った映画が国内の映画会社などによって多数作られた。全国に一時広く配布され、学校などで巡回上映された。
今回のフィルムは徳島市の県立文書館で見つかった。内容を調べた地元の放送局によると、確認したGHQ関連映画は約200本。ほとんど海外から持ち込まれたもので、長野県関連のテーマは同病院だけという。
「腰のまがる話」のフィルムをビデオで見た当時の院長で現名誉総長の若月俊一さん(90)は「映画制作のいきさつや様子はよく覚えていない」とした上で、「GHQとは農村を民主化する考えは同じだと思って接していた。来院した関係者と意気投合したこともある。当時病院で行っていた非科学的な治療法の排除など運動をよく調べていたのではないか」と振り返る。
新津新生・県立歴史館専門主事は「GHQの意向で県内の農村民主化運動が映画化までされていたとすれば画期的なこと。フィルムの発見も貴重だ。当時の県内農村の様子が映像で残っているだけでも珍しい」と話している。
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自分で何とかする―。いわゆる「エリート」として第一線で働いてきた自負。「最終的には生活保護(公助)という仕組みがある」と、時の宰相が唱えた際に併せて強調した「自助」の大切さ。それが、生活保護という選択から遠ざけた。
政治家や行政にこの感覚は伝わりにくいかもしれないが、生活保護の申請時に行政が家族に援助できないかどうか確認することへの抵抗感は相当に強い。先の年末年始、東京の支援団体が申請を拒む困窮者128人に理由を尋ねると、34%がこれを挙げた。安全網は十分に機能していない。
「政治は一番弱いところに届いていない」
医療のセーフティーネットもほころびを見せる。病院代を払えない人の受け皿となっている制度に「無料低額診療事業」がある。医療団体のまとめによると、昨年度、医療機関に駆け込んだ人数はその前の年度よりも増加した。ニーズはある。
だがこれは全ての医療機関が導入しているわけではないという点で欠陥がある。もう一つの大きな問題は、原則、薬代は自己負担ということだ。
https://bit.ly/3nuhFkn
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「村で病気とたたかう」1971 から10ヵ所、抜き書き
24ページ
村の中では、今度の戦争における日本の犯罪的役割ということの反省はなかった。負けたのだから仕方がないと、ひたすら「与えられた」民主主義をまもり、あとからあとから出てくるGHQの方針に従って、それを利用し、うまく生きてゆけばいいとする、農村の保守的、利己的な性格がにじみ出ているように思えた。近代に対する目ざめはなかった。このようななかで、農地改革が施行され、農民組合や労働組合の結成が行なわれたのである。私は、これらが形の上で行われても、実際にそのもとに近代的な民主主義的精神の理解がなかったということが、これからあとのいろいろな社会情勢のなりゆきに、しこりを残した、
ーー例えばふたたびファシズムの危険にさらされるもとになったのではないかと考えている。
96
このような社会的分析が日本外科学会でなされたのは恐らくはじめてのことであろう。
107
皮肉なことに、「大東亜戦争」を指導した東条首相と小泉厚相が、もっとも熱心に農村医療と衛生を説いた。しかし、これは農民を愛してではなく、農民を戦争に駆りたてるためであった。
149
(宮沢賢治)先生が劇をやれとおっしゃったのは、ナマのリクツをふりまわすな、ということではなかったか。
157
人間の場合は、自分で書きこむ健康手帳がぜひ必要だということになった。
169
おら方は佐久病院があるんでトクしてる。
180
無医村的環境に苦しんでいるK村の方がむしろ進んだ考えをもっているのである、、、オラの方の村は佐久病院があってうまくやってるからいいんだ。
182
ある種の極端な人たちは、きびしく批判する。それは村民をあまやかし、眠らせ、今日の体制の下請けをやりながら、その矛盾を隠蔽し、いろいろなことがうまくいくかのような幻想を大衆に与える、もっとも悪質な役割を果たしているのだと。
219
この方策はすでに、あの「大東亜戦争」最中にも一度、東条首相や小泉厚生大臣によってとられたことがある。
229
私どもの農協厚生連病院は、かつての「組合病院」であり、今から半世紀近くも前、昭和の初年、今日の農協の前身である産業組合の諸先輩による農村医療組合運動の中から自主的に設立されたものである。当時の無医村的環境と、高い医療費(当時はまだ国民健康保険ができていなかった)に苦しんでいた農民の窮状を打破すべく、農民自身が立上がってできたものである。かくて「組合病院」が全国的にでき、またそのような運動の中から今日の国民健康保険制度自身も誕生したという歴史的事実を忘れてはなるまい。
このように、農民の生活に結びついた重要な問題は、国がとりあげないからといって放っておくわけにはいかない。いや、農民の問題は農民自身が農民の組織の力によって解決しようとすることこそ、基本的姿勢というべきではあるまいか。
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ーー電気の導入で12時間2交代の深夜労働、交代番が病欠すると、36時間ぶっとおしの労働などで激しく消耗した紡績女工の実情を動態的に把握したのが石原修の「女工と結核」(1912)であった。それによると、毎年20万人ほどの女子労働者が周旋屋などによって紡績工場に送りこまれるが前述のような労働条件の下で罹患、死亡、転職などで消耗してしまい12万ほどが消息不明となり、8万ほどが帰村するが、帰村の途中で息を引き取るのが「ああ野麦峠」である。映画では、やっと生まれ故郷を眺めることのできる峠の「お助け小屋」までたどり着いたところで大竹しのぶが息を引き取る悲劇的なシーンとして描かれている。その8万程の帰村者のうち、1万数千人は何かしらの病気持ちで3千から4千は結核に罹患しており、結核のなかった農村での感染源となっているという実態調査である。
石原はこの仕事で農商務省の職を追われ、後に大阪府立医大(後の阪大医学部)の衛生学教授となるが、1933年、滝川事件の年に文官分限令によって阪大も追われることになるーー
野村拓「健康とは、病気とは、そして社会政策とは」 大阪保険医雑誌 21年10月号
ーー寄宿ということは一つの拘禁制を含んでいる、意思の束縛を含んでいる、意思の束縛を受けやすいという事柄を含んでいるかと思われます、、、
女工の出入りは頻繁でございますから、1つの寝具は1ヵ年に6人から7人のお客様をいただくことになります。
そうして相手方の変わるたびごとに日光消毒でもするかといえば、決してそういうことはしませぬ。それでございますから、6、7人の中に不幸にも伝染病、ことに結核のあったときには、後に寝るお客様に皆伝染することになろうと思います、、、
まず全国で20万人くらいは毎年工場に出稼ぎをするように思います。まあ20万人として勘定しますれば、そのうち12万人は出たきり帰ってこない。そうして残りの8万人だけは、まず郷里に帰ってくるということになっております、、、
ついに3ヶ月ないし6ヶ月のあいだに第一に来た工場を去ります。あきらめて国に帰ったものは幸福でありますが、せっかく苦心して郷里を出たのに目的を達しなくては郷里に帰るということは気はずかしい、、、
それからしてだんだん2、3ヵ所の工場を歩いているうちに身体も続かなくなる、工場の仕事は嫌になる。ついには女工の気のきいたものは酌婦になるし、気の利かぬものは貧民窟の私娼になってしまうというようなことがはなはだ多いのでございます。
また彼ら女工の国に帰る者の状況を申しますると、国に帰りますもの6人または7人のうち1人はかならず疾病にして重い病気で帰ってくる。まず8万の中で1万3千余人はありましょう。疾病たるのゆえをもって国に帰ります。1万3千人の中の4分の1、3千人といふものは皆結核にかかっております、、、そうしてこれらの人々の故郷に帰りまして、自分の一家はもちろん近隣に向って結核をふりまいております、、、
ある田舎の方面で、男女14、5歳になると京阪方面に職工に出かける、皆2年もたたずに帰ってくる、いずれも病気で帰ってくるのであるが、どういう病気かと問いただしてみると結核である。衛生の何事を知らぬ田舎のことであるから、ついに四方八方に伝染させたのである、、、
千人中10・4人という者は、工場生活のために国へ帰ってから死んだ者と見てよかろうと思います。それですから、工場在籍中の死亡率8人をこれに加えたもの、すなわち18人は女工の死亡率の最低限と思われます、、、
工業は見様によっては白昼人を殺しているという事実があらわれている。しかるにその責任を問う者もない、さほど世間の人が重大とも何とも思っておりませぬ。実に異様の感がおこりますー
信濃毎日新聞 1991年10月26日
タイやフィリピンで日本から帰国した女性に対するソシアルケースワーカーとして働いている女性ら3人が25日上田市を訪れ、日本人と結婚した市内のフィリピン人女性4人と懇談した。福島県でのフィリピン人女性ダンサー死亡事件などに論議が集中。ケースワーカーたちは「日本から死んで帰ってくる女性はほかにもいる。過酷な出稼ぎを通じ日本への反発が強まっている」と報告した。
上田カトリック教会で開いた懇談会は、長野市や上田市の主婦らの市民グループ「アジアの花ヨメを考える会・ながの」が呼び掛けた。フィリピン人のケースワーカー、ルビー・ジャーデニルさん(31)と国立フィリピン大学大学院生で現地でディスクジョッキーを担当している穴田久美子さん(31)=北海道出身、タイ人のケースワーカー、パンニー・アスワポンチョトさん(38)が出席した。
ルビーさんは自分の活動経験から「日本から女性が帰国する理由の第一は精神的な不安など、、、死亡しての帰国」と報告。穴田さんらによると、出稼ぎのフィリピン人女性が事故や病気で死亡しても、日本ではあまり問題にされていないようだという。
福島県のダンサー死亡事件では、現地の新聞などを手に議論。ルビーさんは「フィリピン国内では、経済大国の日本に黙っていたが、もう我慢できないという気持ちが強くなっている」と指摘。「娘を日本に送った家族の不安を知ってほしい」と呼び掛けた。
穴田さんが、ダンサーの家族から提供してもらった遺体の写真を前に、女性たちはショックを受けた表情で「フィリピンだけでなくアジア全体の問題」と話していた。日本での結婚生活では、文化や習慣の違いによるすれ違い、差別の悩を訴える人が目立った。「あいさつしても返事をしてもらえないことが多い」という女性もいた。
参加者は、日本に住む外国人女性たちのネットワークづくりを強調。パンニーさんは「タイの女性は英語を話せない人が多く孤立している。危険に陥ることも多い」と指摘。
「身を守るため、法律や制度についての情報交換が必要」と交流を呼び掛けた。
「考える会」は27日、同教会で外国人女性と家族たちの交流会を開き、ネットワークづくりを支援していく。
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「南京大虐殺」に詳細資料 独外交官の報告発見 旧東公文書館「身の毛もよだつ」
【ボン17日=共同】昭和12年(1937年)12月13日に旧日本軍が中国・南京に入城した際に起きたいわゆる「南京大虐殺事件」に関するドイツ外交官の現地からの
詳細な報告文書が旧東ドイツ国立中央公文書館(現在、ドイツ連邦公文書館ポツダム支所)に保存されていることが分かり、このほどそのコピーを入手した。
文書は当時、南京にいたドイツ人やその他の外国人が直接見聞した事実に基づいて、旧日本軍の行動を「グロイエルターテン(Greueltaten、残虐行為)(38年1月15日報告)と表現、日本兵が市内で多数の無抵抗の市民を殺りくし、女性に対する暴行や「略奪の限りを尽くしていた」などと伝えている。
当時のドイツは日本と防共協定(36年)を結んでいた。しかし、現地のドイツ外交官は、中国での旧日本軍の行動は反発を買い、「ドイツの政策目標である共産主義の拡大防止に明白に対立する」(37年12月24日付)と厳しく批判していたことも明らかになった。
共同通信が入手した文書は同中央公文書館に保存される「在中国ドイツ大使館文書」のうち「日中紛争、1937年12月から1938年12月まで」のタイトルでまとめられた部分。タイプ用紙にして約190枚。
南京大虐殺関連の報告には主として、ドイツ大使館南京分館のローゼン政務書記官の署名がつけられ、東京裁判でも証言した米国聖公会のマギー牧師が撮影した記録映画の
各シーンごとの詳細な記録も含まれている。
神父から提供を受け、本省に送ったフィルム(現在、行方不明)に添付した報告の中で、同書記官は「身の毛もよだつドキュメント。(ヒトラー)総統もぜひ見てほしい」と述べている。
南京大虐殺の犠牲者の総数について具体的な言及はないが、ローゼン書記官は「郊外の下関港には大量虐殺に由来する約3万の死体が流れ着いた」(38年3月4日付)と報告している。
「港には3万の処刑死体が漂着」
【ボン17日=共同】旧東ドイツ国立中央公文書館で発見された「在中国ドイツ大使館文書」の要旨は次の通り。
(特記しない限り、ドイツ大使館南京分館ローゼン書記官からベルリンのドイツ大使館あて)
・南京情勢に関するロイター通信スミス記者の講演(38年1月1日付、漢口発ドイツ情報局あて)
37年12月9日 初めて遠くから大砲の音。
12日 中国軍1個師団が市内に入ったが、統制もとれないまま北へ逃亡しているようだ。夕方、市内南部から全面撤退開始。約千人の残留部隊も真夜中までに完全にせん滅された。北門前には1メートルほどの高さになった兵士と民間人の死体がある。私の推計では千人ほどか。
13日 前夜、南門での戦闘で約千人の中国人が死亡したもよう。未明になり、中国兵と民間人が略奪を始めた。
14日 昼ごろから日本兵は部隊所属章を外して略奪を始めた。
15日 略奪が続き、多くの中国人女性、少女が自宅から連れ去られた。日本軍が広場で中国人数千人を縛り上げ、射殺するため小人数のグループに分けた。中国人はひざまかされ、後頭部に銃弾を1発撃ち込まれる。こうして殺された人を100人ほど目撃した。
・日本軍の残虐行為と南京情勢(1月15日付)
一、南京市内は日本軍の略奪で廃虚と化した。けだもののような暴行の例は数百件も反論の余地なく挙げることができる。
一、ドイツ大使館の事務課でさえ、給仕が銃を突き付けられて、女性を差し出せと脅迫された。大使の私邸までも、女性を渡せと侵入してきた。
・南京の変化(1月20日付)
一、安全区国際委員会は3日間の停戦などを日中両国に提案したが、蒋介石に拒否された。日本軍の近藤海軍少将は、英海軍のホールト提督に対し、南京の下流の中洲には
3万人の中国兵がいて「掃討」しなければならないと認めた。これは機関銃の一斉射撃や、燃料をかけて焼き殺すことを意味する。
・日本軍の残虐行為の映像記録(2月10日付)
一、米国聖公会のジョン・マギー牧師は日本軍の行為を撮影、これは日本軍の残虐行為を雄弁に物語っている。同封した英文の解説は、映画同様、身の毛もよだつドキュメントであり、総統にもぜひ見てほしい。
・38年2、3月の南京の状況(3月4日付)
一、2月および3月初めに南京とその周辺の状況は一応安定した。残虐行為は数の上では減少したが、質の面では相変わらずだ。
一、紅卍字会が大量の死体の埋葬を少しずつ進めている。郊外の下関港には大量処刑された約3万体の死体が流れ着いており、紅卍字会は毎日500から600体を共同墓地に埋葬している。
【朝日新聞 1990年12月18日掲載】
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過酷な出稼ぎに反発 比・タイ「死んで帰国も」 上田で懇談会 SOS外国人
信濃毎日新聞 1991年10月26日
タイやフィリピンで日本から帰国した女性に対するソシアルケースワーカーとして働いている女性ら3人が25日上田市を訪れ、日本人と結婚した市内のフィリピン人女性4人と懇談した。福島県でのフィリピン人女性ダンサー死亡事件などに論議が集中。ケースワーカーたちは「日本から死んで帰ってくる女性はほかにもいる。過酷な出稼ぎを通じ日本への反発が強まっている」と報告した。
上田カトリック教会で開いた懇談会は、長野市や上田市の主婦らの市民グループ「アジアの花ヨメを考える会・ながの」が呼び掛けた。フィリピン人のケースワーカー、ルビー・ジャーデニルさん(31)と国立フィリピン大学大学院生で現地でディスクジョッキーを担当している穴田久美子さん(31)=北海道出身、タイ人のケースワーカー、パンニー・アスワポンチョトさん(38)が出席した。
ルビーさんは自分の活動経験から「日本から女性が帰国する理由の第一は精神的な不安など。次いで死亡しての帰国」と報告。穴田さんらによると、出稼ぎのフィリピン人女性が事故や病気で死亡しても、日本ではあまり問題にされていないようだという。
福島県のダンサー死亡事件では、現地の新聞などを手に議論。
ルビーさんは「フィリピン国内では、経済大国の日本に黙っていたが、もう我慢できないという気持ちが強くなっている」と指摘。「娘を日本に送った家族の不安を知ってほしい」と呼び掛けた。
穴田さんが、ダンサーの家族から提供してもらった遺体の写真を前に、女性たちはショックを受けた表情で「フィリピンだけでなくアジア全体の問題」と話していた。
日本での結婚生活では、文化や習慣の違いによるすれ違い、差別の悩みを訴える人が目立った。「あいさつしても返事をしてもらえないことが多い」という女性もいた。
参加者は、日本に住む外国人女性たちのネットワークづくりを強調。パンニーさんは「タイの女性は英語を話せない人が多く孤立している。危険に陥ることも多い」と指摘。
「身を守るため、法律や制度についての情報交換が必要」と交流を呼び掛けた。
「考える会」は27日、同教会で外国人女性と家族たちの交流会を開き、ネットワークづくりを支援していく。
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執筆記者から昨夜、以下に返信
「懐かしい記事、わざわざ報告いただきありがとうございます!」
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GHQ 日本国民向け「再教育」映画 佐久総合病院 題材に
徳島市でフィルム発見 「農村民主化」に注目 信濃毎日新聞 2000年8月17日
写真キャプション=佐久総合病院を題材にしたGHQ関連映画をビデオで見る若月俊一名誉総長
戦後、日本の民主化を進めた連合国軍総司令部(GHQ)が、佐久総合病院(南佐久郡臼田町)の農村民主化運動に注目し、日本国民向けの「再教育」映画の題材としていたことが
16日までに分かった。映画フィルムは他の再教育フィルムと一緒に徳島県で見つかった。歴史専門家は「当時の県内の農村風景を伝えるだけでなく、民主化運動の一端と、GHQとのかかわりを示す貴重な映像資料」と注目している。
佐久総合病院は戦後、講話や演劇を通じて衛生思想の普及に務めたり、病気の早期発見に力を入れようと出張診療を始めるなど、農村の民主化に取り組んだ。
今回見つかったフィルムや関係資料によると、同病院の活動は「腰のまがる話」という題で、「封建的因習にとらわれた農村婦人の解放を描いたもの」という説明が付いており、1949(昭和24)年の完成となっている。
前半は「農村の女性はなぜ腰が曲がってしまうのか」という会話で、女性は厳しい農作業やお辞儀ばかりしているから、などと理由が語られる。後半は病気の子供をお祈りで治そうとするシーンや、子供を抱え同病院へ駆け込んだ母親に対し、医師が科学的治療の大切さを諭すシーンなどが映っている。
16ミリのモノクロで、上映時間は20分。八ヶ岳や当時の病院の正門も映っており、南佐久郡内のロケ地でエキストラを多数使った可能性もあるという。
昭和20年代前半は、GHQの民主化路線に沿った映画が国内の映画会社などによって多数作られた。全国に一時広く配布され、学校などで巡回上映された。
今回のフィルムは徳島市の県立文書館で見つかった。内容を調べた地元の放送局によると、確認したGHQ関連映画は約200本。ほとんど海外から持ち込まれたもので、長野県関連のテーマは同病院だけという。
「腰のまがる話」のフィルムをビデオで見た当時の院長で現名誉総長の若月俊一さん(90)は「映画制作のいきさつや様子はよく覚えていない」とした上で、「GHQとは農村を民主化する考えは同じだと思って接していた。来院した関係者と意気投合したこともある。当時病院で行っていた非科学的な治療法の排除など運動をよく調べていたのではないか」と振り返る。
新津新生・県立歴史館専門主事は「GHQの意向で県内の農村民主化運動が映画化までされていたとすれば画期的なこと。フィルムの発見も貴重だ。当時の県内農村の様子が映像で残っているだけでも珍しい」と話している。
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自分で何とかする―。いわゆる「エリート」として第一線で働いてきた自負。「最終的には生活保護(公助)という仕組みがある」と、時の宰相が唱えた際に併せて強調した「自助」の大切さ。それが、生活保護という選択から遠ざけた。
政治家や行政にこの感覚は伝わりにくいかもしれないが、生活保護の申請時に行政が家族に援助できないかどうか確認することへの抵抗感は相当に強い。先の年末年始、東京の支援団体が申請を拒む困窮者128人に理由を尋ねると、34%がこれを挙げた。安全網は十分に機能していない。
「政治は一番弱いところに届いていない」
医療のセーフティーネットもほころびを見せる。病院代を払えない人の受け皿となっている制度に「無料低額診療事業」がある。医療団体のまとめによると、昨年度、医療機関に駆け込んだ人数はその前の年度よりも増加した。ニーズはある。
だがこれは全ての医療機関が導入しているわけではないという点で欠陥がある。もう一つの大きな問題は、原則、薬代は自己負担ということだ。
https://bit.ly/3nuhFkn
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「村で病気とたたかう」1971 から10ヵ所、抜き書き
24ページ
村の中では、今度の戦争における日本の犯罪的役割ということの反省はなかった。負けたのだから仕方がないと、ひたすら「与えられた」民主主義をまもり、あとからあとから出てくるGHQの方針に従って、それを利用し、うまく生きてゆけばいいとする、農村の保守的、利己的な性格がにじみ出ているように思えた。近代に対する目ざめはなかった。このようななかで、農地改革が施行され、農民組合や労働組合の結成が行なわれたのである。私は、これらが形の上で行われても、実際にそのもとに近代的な民主主義的精神の理解がなかったということが、これからあとのいろいろな社会情勢のなりゆきに、しこりを残した、
ーー例えばふたたびファシズムの危険にさらされるもとになったのではないかと考えている。
96
このような社会的分析が日本外科学会でなされたのは恐らくはじめてのことであろう。
107
皮肉なことに、「大東亜戦争」を指導した東条首相と小泉厚相が、もっとも熱心に農村医療と衛生を説いた。しかし、これは農民を愛してではなく、農民を戦争に駆りたてるためであった。
149
(宮沢賢治)先生が劇をやれとおっしゃったのは、ナマのリクツをふりまわすな、ということではなかったか。
157
人間の場合は、自分で書きこむ健康手帳がぜひ必要だということになった。
169
おら方は佐久病院があるんでトクしてる。
180
無医村的環境に苦しんでいるK村の方がむしろ進んだ考えをもっているのである、、、オラの方の村は佐久病院があってうまくやってるからいいんだ。
182
ある種の極端な人たちは、きびしく批判する。それは村民をあまやかし、眠らせ、今日の体制の下請けをやりながら、その矛盾を隠蔽し、いろいろなことがうまくいくかのような幻想を大衆に与える、もっとも悪質な役割を果たしているのだと。
219
この方策はすでに、あの「大東亜戦争」最中にも一度、東条首相や小泉厚生大臣によってとられたことがある。
229
私どもの農協厚生連病院は、かつての「組合病院」であり、今から半世紀近くも前、昭和の初年、今日の農協の前身である産業組合の諸先輩による農村医療組合運動の中から自主的に設立されたものである。当時の無医村的環境と、高い医療費(当時はまだ国民健康保険ができていなかった)に苦しんでいた農民の窮状を打破すべく、農民自身が立上がってできたものである。かくて「組合病院」が全国的にでき、またそのような運動の中から今日の国民健康保険制度自身も誕生したという歴史的事実を忘れてはなるまい。
このように、農民の生活に結びついた重要な問題は、国がとりあげないからといって放っておくわけにはいかない。いや、農民の問題は農民自身が農民の組織の力によって解決しようとすることこそ、基本的姿勢というべきではあるまいか。
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ーー電気の導入で12時間2交代の深夜労働、交代番が病欠すると、36時間ぶっとおしの労働などで激しく消耗した紡績女工の実情を動態的に把握したのが石原修の「女工と結核」(1912)であった。それによると、毎年20万人ほどの女子労働者が周旋屋などによって紡績工場に送りこまれるが前述のような労働条件の下で罹患、死亡、転職などで消耗してしまい12万ほどが消息不明となり、8万ほどが帰村するが、帰村の途中で息を引き取るのが「ああ野麦峠」である。映画では、やっと生まれ故郷を眺めることのできる峠の「お助け小屋」までたどり着いたところで大竹しのぶが息を引き取る悲劇的なシーンとして描かれている。その8万程の帰村者のうち、1万数千人は何かしらの病気持ちで3千から4千は結核に罹患しており、結核のなかった農村での感染源となっているという実態調査である。
石原はこの仕事で農商務省の職を追われ、後に大阪府立医大(後の阪大医学部)の衛生学教授となるが、1933年、滝川事件の年に文官分限令によって阪大も追われることになるーー
野村拓「健康とは、病気とは、そして社会政策とは」 大阪保険医雑誌 21年10月号
ーー寄宿ということは一つの拘禁制を含んでいる、意思の束縛を含んでいる、意思の束縛を受けやすいという事柄を含んでいるかと思われます、、、
女工の出入りは頻繁でございますから、1つの寝具は1ヵ年に6人から7人のお客様をいただくことになります。
そうして相手方の変わるたびごとに日光消毒でもするかといえば、決してそういうことはしませぬ。それでございますから、6、7人の中に不幸にも伝染病、ことに結核のあったときには、後に寝るお客様に皆伝染することになろうと思います、、、
まず全国で20万人くらいは毎年工場に出稼ぎをするように思います。まあ20万人として勘定しますれば、そのうち12万人は出たきり帰ってこない。そうして残りの8万人だけは、まず郷里に帰ってくるということになっております、、、
ついに3ヶ月ないし6ヶ月のあいだに第一に来た工場を去ります。あきらめて国に帰ったものは幸福でありますが、せっかく苦心して郷里を出たのに目的を達しなくては郷里に帰るということは気はずかしい、、、
それからしてだんだん2、3ヵ所の工場を歩いているうちに身体も続かなくなる、工場の仕事は嫌になる。ついには女工の気のきいたものは酌婦になるし、気の利かぬものは貧民窟の私娼になってしまうというようなことがはなはだ多いのでございます。
また彼ら女工の国に帰る者の状況を申しますると、国に帰りますもの6人または7人のうち1人はかならず疾病にして重い病気で帰ってくる。まず8万の中で1万3千余人はありましょう。疾病たるのゆえをもって国に帰ります。1万3千人の中の4分の1、3千人といふものは皆結核にかかっております、、、そうしてこれらの人々の故郷に帰りまして、自分の一家はもちろん近隣に向って結核をふりまいております、、、
ある田舎の方面で、男女14、5歳になると京阪方面に職工に出かける、皆2年もたたずに帰ってくる、いずれも病気で帰ってくるのであるが、どういう病気かと問いただしてみると結核である。衛生の何事を知らぬ田舎のことであるから、ついに四方八方に伝染させたのである、、、
千人中10・4人という者は、工場生活のために国へ帰ってから死んだ者と見てよかろうと思います。それですから、工場在籍中の死亡率8人をこれに加えたもの、すなわち18人は女工の死亡率の最低限と思われます、、、
工業は見様によっては白昼人を殺しているという事実があらわれている。しかるにその責任を問う者もない、さほど世間の人が重大とも何とも思っておりませぬ。実に異様の感がおこりますー