【現代思想とジャーナリスト精神】

価値判断の基軸は自らが判断し思考し実践することの主体であるか否かであると考えております。

【色平哲郎氏のご紹介】「南京大虐殺」に詳細資料 独外交官の報告発見 旧東公文書館「身の毛もよだつ」

2021-10-21 12:58:20 | 転載
過酷な出稼ぎに反発 比・タイ「死んで帰国も」 上田で懇談会 SOS外国人

信濃毎日新聞 1991年10月26日

タイやフィリピンで日本から帰国した女性に対するソシアルケースワーカーとして働いている女性ら3人が25日上田市を訪れ、日本人と結婚した市内のフィリピン人女性4人と懇談した。福島県でのフィリピン人女性ダンサー死亡事件などに論議が集中。ケースワーカーたちは「日本から死んで帰ってくる女性はほかにもいる。過酷な出稼ぎを通じ日本への反発が強まっている」と報告した。


上田カトリック教会で開いた懇談会は、長野市や上田市の主婦らの市民グループ「アジアの花ヨメを考える会・ながの」が呼び掛けた。フィリピン人のケースワーカー、ルビー・ジャーデニルさん(31)と国立フィリピン大学大学院生で現地でディスクジョッキーを担当している穴田久美子さん(31)=北海道出身、タイ人のケースワーカー、パンニー・アスワポンチョトさん(38)が出席した。

ルビーさんは自分の活動経験から「日本から女性が帰国する理由の第一は精神的な不安など、、、死亡しての帰国」と報告。穴田さんらによると、出稼ぎのフィリピン人女性が事故や病気で死亡しても、日本ではあまり問題にされていないようだという。

福島県のダンサー死亡事件では、現地の新聞などを手に議論。ルビーさんは「フィリピン国内では、経済大国の日本に黙っていたが、もう我慢できないという気持ちが強くなっている」と指摘。「娘を日本に送った家族の不安を知ってほしい」と呼び掛けた。

穴田さんが、ダンサーの家族から提供してもらった遺体の写真を前に、女性たちはショックを受けた表情で「フィリピンだけでなくアジア全体の問題」と話していた。日本での結婚生活では、文化や習慣の違いによるすれ違い、差別の悩を訴える人が目立った。「あいさつしても返事をしてもらえないことが多い」という女性もいた。

参加者は、日本に住む外国人女性たちのネットワークづくりを強調。パンニーさんは「タイの女性は英語を話せない人が多く孤立している。危険に陥ることも多い」と指摘。
「身を守るため、法律や制度についての情報交換が必要」と交流を呼び掛けた。

「考える会」は27日、同教会で外国人女性と家族たちの交流会を開き、ネットワークづくりを支援していく。


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「南京大虐殺」に詳細資料 独外交官の報告発見 旧東公文書館「身の毛もよだつ」

【ボン17日=共同】昭和12年(1937年)12月13日に旧日本軍が中国・南京に入城した際に起きたいわゆる「南京大虐殺事件」に関するドイツ外交官の現地からの
詳細な報告文書が旧東ドイツ国立中央公文書館(現在、ドイツ連邦公文書館ポツダム支所)に保存されていることが分かり、このほどそのコピーを入手した。

文書は当時、南京にいたドイツ人やその他の外国人が直接見聞した事実に基づいて、旧日本軍の行動を「グロイエルターテン(Greueltaten、残虐行為)(38年1月15日報告)と表現、日本兵が市内で多数の無抵抗の市民を殺りくし、女性に対する暴行や「略奪の限りを尽くしていた」などと伝えている。

当時のドイツは日本と防共協定(36年)を結んでいた。しかし、現地のドイツ外交官は、中国での旧日本軍の行動は反発を買い、「ドイツの政策目標である共産主義の拡大防止に明白に対立する」(37年12月24日付)と厳しく批判していたことも明らかになった。

共同通信が入手した文書は同中央公文書館に保存される「在中国ドイツ大使館文書」のうち「日中紛争、1937年12月から1938年12月まで」のタイトルでまとめられた部分。タイプ用紙にして約190枚。

南京大虐殺関連の報告には主として、ドイツ大使館南京分館のローゼン政務書記官の署名がつけられ、東京裁判でも証言した米国聖公会のマギー牧師が撮影した記録映画の
各シーンごとの詳細な記録も含まれている。

神父から提供を受け、本省に送ったフィルム(現在、行方不明)に添付した報告の中で、同書記官は「身の毛もよだつドキュメント。(ヒトラー)総統もぜひ見てほしい」と述べている。

南京大虐殺の犠牲者の総数について具体的な言及はないが、ローゼン書記官は「郊外の下関港には大量虐殺に由来する約3万の死体が流れ着いた」(38年3月4日付)と報告している。


「港には3万の処刑死体が漂着」

【ボン17日=共同】旧東ドイツ国立中央公文書館で発見された「在中国ドイツ大使館文書」の要旨は次の通り。
(特記しない限り、ドイツ大使館南京分館ローゼン書記官からベルリンのドイツ大使館あて)

・南京情勢に関するロイター通信スミス記者の講演(38年1月1日付、漢口発ドイツ情報局あて)

37年12月9日 初めて遠くから大砲の音。

12日 中国軍1個師団が市内に入ったが、統制もとれないまま北へ逃亡しているようだ。夕方、市内南部から全面撤退開始。約千人の残留部隊も真夜中までに完全にせん滅された。北門前には1メートルほどの高さになった兵士と民間人の死体がある。私の推計では千人ほどか。

13日 前夜、南門での戦闘で約千人の中国人が死亡したもよう。未明になり、中国兵と民間人が略奪を始めた。

14日 昼ごろから日本兵は部隊所属章を外して略奪を始めた。

15日 略奪が続き、多くの中国人女性、少女が自宅から連れ去られた。日本軍が広場で中国人数千人を縛り上げ、射殺するため小人数のグループに分けた。中国人はひざまかされ、後頭部に銃弾を1発撃ち込まれる。こうして殺された人を100人ほど目撃した。

・日本軍の残虐行為と南京情勢(1月15日付)

一、南京市内は日本軍の略奪で廃虚と化した。けだもののような暴行の例は数百件も反論の余地なく挙げることができる。

一、ドイツ大使館の事務課でさえ、給仕が銃を突き付けられて、女性を差し出せと脅迫された。大使の私邸までも、女性を渡せと侵入してきた。

・南京の変化(1月20日付)

一、安全区国際委員会は3日間の停戦などを日中両国に提案したが、蒋介石に拒否された。日本軍の近藤海軍少将は、英海軍のホールト提督に対し、南京の下流の中洲には
3万人の中国兵がいて「掃討」しなければならないと認めた。これは機関銃の一斉射撃や、燃料をかけて焼き殺すことを意味する。

・日本軍の残虐行為の映像記録(2月10日付)

一、米国聖公会のジョン・マギー牧師は日本軍の行為を撮影、これは日本軍の残虐行為を雄弁に物語っている。同封した英文の解説は、映画同様、身の毛もよだつドキュメントであり、総統にもぜひ見てほしい。

・38年2、3月の南京の状況(3月4日付)

一、2月および3月初めに南京とその周辺の状況は一応安定した。残虐行為は数の上では減少したが、質の面では相変わらずだ。

一、紅卍字会が大量の死体の埋葬を少しずつ進めている。郊外の下関港には大量処刑された約3万体の死体が流れ着いており、紅卍字会は毎日500から600体を共同墓地に埋葬している。

【朝日新聞 1990年12月18日掲載】


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過酷な出稼ぎに反発 比・タイ「死んで帰国も」 上田で懇談会 SOS外国人

信濃毎日新聞 1991年10月26日

タイやフィリピンで日本から帰国した女性に対するソシアルケースワーカーとして働いている女性ら3人が25日上田市を訪れ、日本人と結婚した市内のフィリピン人女性4人と懇談した。福島県でのフィリピン人女性ダンサー死亡事件などに論議が集中。ケースワーカーたちは「日本から死んで帰ってくる女性はほかにもいる。過酷な出稼ぎを通じ日本への反発が強まっている」と報告した。


上田カトリック教会で開いた懇談会は、長野市や上田市の主婦らの市民グループ「アジアの花ヨメを考える会・ながの」が呼び掛けた。フィリピン人のケースワーカー、ルビー・ジャーデニルさん(31)と国立フィリピン大学大学院生で現地でディスクジョッキーを担当している穴田久美子さん(31)=北海道出身、タイ人のケースワーカー、パンニー・アスワポンチョトさん(38)が出席した。

ルビーさんは自分の活動経験から「日本から女性が帰国する理由の第一は精神的な不安など。次いで死亡しての帰国」と報告。穴田さんらによると、出稼ぎのフィリピン人女性が事故や病気で死亡しても、日本ではあまり問題にされていないようだという。

福島県のダンサー死亡事件では、現地の新聞などを手に議論。
ルビーさんは「フィリピン国内では、経済大国の日本に黙っていたが、もう我慢できないという気持ちが強くなっている」と指摘。「娘を日本に送った家族の不安を知ってほしい」と呼び掛けた。

穴田さんが、ダンサーの家族から提供してもらった遺体の写真を前に、女性たちはショックを受けた表情で「フィリピンだけでなくアジア全体の問題」と話していた。

日本での結婚生活では、文化や習慣の違いによるすれ違い、差別の悩みを訴える人が目立った。「あいさつしても返事をしてもらえないことが多い」という女性もいた。

参加者は、日本に住む外国人女性たちのネットワークづくりを強調。パンニーさんは「タイの女性は英語を話せない人が多く孤立している。危険に陥ることも多い」と指摘。
「身を守るため、法律や制度についての情報交換が必要」と交流を呼び掛けた。

「考える会」は27日、同教会で外国人女性と家族たちの交流会を開き、ネットワークづくりを支援していく。


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執筆記者から昨夜、以下に返信

「懐かしい記事、わざわざ報告いただきありがとうございます!」

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GHQ 日本国民向け「再教育」映画 佐久総合病院 題材に

徳島市でフィルム発見 「農村民主化」に注目 信濃毎日新聞 2000年8月17日

写真キャプション=佐久総合病院を題材にしたGHQ関連映画をビデオで見る若月俊一名誉総長


戦後、日本の民主化を進めた連合国軍総司令部(GHQ)が、佐久総合病院(南佐久郡臼田町)の農村民主化運動に注目し、日本国民向けの「再教育」映画の題材としていたことが
16日までに分かった。映画フィルムは他の再教育フィルムと一緒に徳島県で見つかった。歴史専門家は「当時の県内の農村風景を伝えるだけでなく、民主化運動の一端と、GHQとのかかわりを示す貴重な映像資料」と注目している。


佐久総合病院は戦後、講話や演劇を通じて衛生思想の普及に務めたり、病気の早期発見に力を入れようと出張診療を始めるなど、農村の民主化に取り組んだ。

今回見つかったフィルムや関係資料によると、同病院の活動は「腰のまがる話」という題で、「封建的因習にとらわれた農村婦人の解放を描いたもの」という説明が付いており、1949(昭和24)年の完成となっている。

前半は「農村の女性はなぜ腰が曲がってしまうのか」という会話で、女性は厳しい農作業やお辞儀ばかりしているから、などと理由が語られる。後半は病気の子供をお祈りで治そうとするシーンや、子供を抱え同病院へ駆け込んだ母親に対し、医師が科学的治療の大切さを諭すシーンなどが映っている。

16ミリのモノクロで、上映時間は20分。八ヶ岳や当時の病院の正門も映っており、南佐久郡内のロケ地でエキストラを多数使った可能性もあるという。

昭和20年代前半は、GHQの民主化路線に沿った映画が国内の映画会社などによって多数作られた。全国に一時広く配布され、学校などで巡回上映された。

今回のフィルムは徳島市の県立文書館で見つかった。内容を調べた地元の放送局によると、確認したGHQ関連映画は約200本。ほとんど海外から持ち込まれたもので、長野県関連のテーマは同病院だけという。

「腰のまがる話」のフィルムをビデオで見た当時の院長で現名誉総長の若月俊一さん(90)は「映画制作のいきさつや様子はよく覚えていない」とした上で、「GHQとは農村を民主化する考えは同じだと思って接していた。来院した関係者と意気投合したこともある。当時病院で行っていた非科学的な治療法の排除など運動をよく調べていたのではないか」と振り返る。

新津新生・県立歴史館専門主事は「GHQの意向で県内の農村民主化運動が映画化までされていたとすれば画期的なこと。フィルムの発見も貴重だ。当時の県内農村の様子が映像で残っているだけでも珍しい」と話している。


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自分で何とかする―。いわゆる「エリート」として第一線で働いてきた自負。「最終的には生活保護(公助)という仕組みがある」と、時の宰相が唱えた際に併せて強調した「自助」の大切さ。それが、生活保護という選択から遠ざけた。
政治家や行政にこの感覚は伝わりにくいかもしれないが、生活保護の申請時に行政が家族に援助できないかどうか確認することへの抵抗感は相当に強い。先の年末年始、東京の支援団体が申請を拒む困窮者128人に理由を尋ねると、34%がこれを挙げた。安全網は十分に機能していない。
「政治は一番弱いところに届いていない」
医療のセーフティーネットもほころびを見せる。病院代を払えない人の受け皿となっている制度に「無料低額診療事業」がある。医療団体のまとめによると、昨年度、医療機関に駆け込んだ人数はその前の年度よりも増加した。ニーズはある。
だがこれは全ての医療機関が導入しているわけではないという点で欠陥がある。もう一つの大きな問題は、原則、薬代は自己負担ということだ。

https://bit.ly/3nuhFkn


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「村で病気とたたかう」1971 から10ヵ所、抜き書き

24ページ
村の中では、今度の戦争における日本の犯罪的役割ということの反省はなかった。負けたのだから仕方がないと、ひたすら「与えられた」民主主義をまもり、あとからあとから出てくるGHQの方針に従って、それを利用し、うまく生きてゆけばいいとする、農村の保守的、利己的な性格がにじみ出ているように思えた。近代に対する目ざめはなかった。このようななかで、農地改革が施行され、農民組合や労働組合の結成が行なわれたのである。私は、これらが形の上で行われても、実際にそのもとに近代的な民主主義的精神の理解がなかったということが、これからあとのいろいろな社会情勢のなりゆきに、しこりを残した、
ーー例えばふたたびファシズムの危険にさらされるもとになったのではないかと考えている。


96
このような社会的分析が日本外科学会でなされたのは恐らくはじめてのことであろう。

107
皮肉なことに、「大東亜戦争」を指導した東条首相と小泉厚相が、もっとも熱心に農村医療と衛生を説いた。しかし、これは農民を愛してではなく、農民を戦争に駆りたてるためであった。

149
(宮沢賢治)先生が劇をやれとおっしゃったのは、ナマのリクツをふりまわすな、ということではなかったか。

157
人間の場合は、自分で書きこむ健康手帳がぜひ必要だということになった。

169
おら方は佐久病院があるんでトクしてる。

180
無医村的環境に苦しんでいるK村の方がむしろ進んだ考えをもっているのである、、、オラの方の村は佐久病院があってうまくやってるからいいんだ。

182
ある種の極端な人たちは、きびしく批判する。それは村民をあまやかし、眠らせ、今日の体制の下請けをやりながら、その矛盾を隠蔽し、いろいろなことがうまくいくかのような幻想を大衆に与える、もっとも悪質な役割を果たしているのだと。

219
この方策はすでに、あの「大東亜戦争」最中にも一度、東条首相や小泉厚生大臣によってとられたことがある。

229
私どもの農協厚生連病院は、かつての「組合病院」であり、今から半世紀近くも前、昭和の初年、今日の農協の前身である産業組合の諸先輩による農村医療組合運動の中から自主的に設立されたものである。当時の無医村的環境と、高い医療費(当時はまだ国民健康保険ができていなかった)に苦しんでいた農民の窮状を打破すべく、農民自身が立上がってできたものである。かくて「組合病院」が全国的にでき、またそのような運動の中から今日の国民健康保険制度自身も誕生したという歴史的事実を忘れてはなるまい。
このように、農民の生活に結びついた重要な問題は、国がとりあげないからといって放っておくわけにはいかない。いや、農民の問題は農民自身が農民の組織の力によって解決しようとすることこそ、基本的姿勢というべきではあるまいか。


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ーー電気の導入で12時間2交代の深夜労働、交代番が病欠すると、36時間ぶっとおしの労働などで激しく消耗した紡績女工の実情を動態的に把握したのが石原修の「女工と結核」(1912)であった。それによると、毎年20万人ほどの女子労働者が周旋屋などによって紡績工場に送りこまれるが前述のような労働条件の下で罹患、死亡、転職などで消耗してしまい12万ほどが消息不明となり、8万ほどが帰村するが、帰村の途中で息を引き取るのが「ああ野麦峠」である。映画では、やっと生まれ故郷を眺めることのできる峠の「お助け小屋」までたどり着いたところで大竹しのぶが息を引き取る悲劇的なシーンとして描かれている。その8万程の帰村者のうち、1万数千人は何かしらの病気持ちで3千から4千は結核に罹患しており、結核のなかった農村での感染源となっているという実態調査である。
石原はこの仕事で農商務省の職を追われ、後に大阪府立医大(後の阪大医学部)の衛生学教授となるが、1933年、滝川事件の年に文官分限令によって阪大も追われることになるーー

野村拓「健康とは、病気とは、そして社会政策とは」 大阪保険医雑誌 21年10月号



ーー寄宿ということは一つの拘禁制を含んでいる、意思の束縛を含んでいる、意思の束縛を受けやすいという事柄を含んでいるかと思われます、、、

女工の出入りは頻繁でございますから、1つの寝具は1ヵ年に6人から7人のお客様をいただくことになります。
そうして相手方の変わるたびごとに日光消毒でもするかといえば、決してそういうことはしませぬ。それでございますから、6、7人の中に不幸にも伝染病、ことに結核のあったときには、後に寝るお客様に皆伝染することになろうと思います、、、

まず全国で20万人くらいは毎年工場に出稼ぎをするように思います。まあ20万人として勘定しますれば、そのうち12万人は出たきり帰ってこない。そうして残りの8万人だけは、まず郷里に帰ってくるということになっております、、、

ついに3ヶ月ないし6ヶ月のあいだに第一に来た工場を去ります。あきらめて国に帰ったものは幸福でありますが、せっかく苦心して郷里を出たのに目的を達しなくては郷里に帰るということは気はずかしい、、、

それからしてだんだん2、3ヵ所の工場を歩いているうちに身体も続かなくなる、工場の仕事は嫌になる。ついには女工の気のきいたものは酌婦になるし、気の利かぬものは貧民窟の私娼になってしまうというようなことがはなはだ多いのでございます。

また彼ら女工の国に帰る者の状況を申しますると、国に帰りますもの6人または7人のうち1人はかならず疾病にして重い病気で帰ってくる。まず8万の中で1万3千余人はありましょう。疾病たるのゆえをもって国に帰ります。1万3千人の中の4分の1、3千人といふものは皆結核にかかっております、、、そうしてこれらの人々の故郷に帰りまして、自分の一家はもちろん近隣に向って結核をふりまいております、、、

ある田舎の方面で、男女14、5歳になると京阪方面に職工に出かける、皆2年もたたずに帰ってくる、いずれも病気で帰ってくるのであるが、どういう病気かと問いただしてみると結核である。衛生の何事を知らぬ田舎のことであるから、ついに四方八方に伝染させたのである、、、

千人中10・4人という者は、工場生活のために国へ帰ってから死んだ者と見てよかろうと思います。それですから、工場在籍中の死亡率8人をこれに加えたもの、すなわち18人は女工の死亡率の最低限と思われます、、、

工業は見様によっては白昼人を殺しているという事実があらわれている。しかるにその責任を問う者もない、さほど世間の人が重大とも何とも思っておりませぬ。実に異様の感がおこりますー

油断は大敗のもと❶【広原盛明のつれづれ日記】転載❷「枝野幸男と山本太郎」拙稿

2021-10-21 11:11:02 | 社会・政治思想・歴史
構成
第一部【広原盛明のつれづれ日記】
第二部【枝野幸男と山本太郎】
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【広原盛明のつれづれ日記】
2021-10-16
立憲民主党と共産党が奇妙な取り引き(?)、京都は〝魑魅魍魎〟の世界なのか、岸田内閣と野党共闘(その2)
国会が10月14日に解散され、衆院選告示が19日と間近に迫った。自民党は11日、小選挙区と比例区の1次公認295人を発表し、残る5選挙区でも候補者調整の目途をほぼつけたとされる。野党共闘の方は立憲民主党と共産党の選挙協力態勢が固まり、競合していた選挙区で立憲民主党は3小選挙区、共産党は22小選挙区で候補予定者を取り下げた。この結果、全国289の小選挙区のうち、立憲、共産、国民、社民、れいわの5党の候補者が一本化される選挙区は200以上になる見通しとなった(朝日10月14日)。



ところが...である。京都では立憲民主党幹部からの共産党との共闘を否定する発言が相次いでいる。立憲民主党京都府連は10月9日、役員会と常任幹事会を開き、公認候補を擁立していない京都の1区、2区、4区についての対応を協議した。その結果、共産党の穀田国対委員長が立候補を予定している1区では(あくまでも)独自候補の擁立を追求し、その一方国民民主党が前原氏を擁立する2区と、無所属の北神氏が立候補予定の4区については、両氏がいずれも連合の推薦候補であることから独自候補を立てないという方針を表明した。党政調会長の要職にありかつ京都府連会長も務める泉氏は、終了後の記者会見において共産党から協議の申し入れのあった共闘については、「京都は自民、共産両党とは議席を争った地。これまでも非自民・非共産の立場で支持されてきた」と説明し、「『野党統一候補』という考えは取らないし、共産との選挙協力はない」と改めて強調した(毎日10月10日)。



また、京都新聞は10月12日、福山立憲民主党幹事長および田中京都府連幹事長の衆院選に関するインタビュー記事を掲載し、両氏が共産党との選挙協力を明確に否定したことを紹介している。

【福山幹事長】

 ―共産党とは「限定的な閣外協力」で合意したが、京都では共闘しない。福山幹事長、泉健太政調会長の地元で共闘しないことを有権者にどう説明するか。

「私も共産党と20年以上、選挙を含めて争っている。一方、全国的には自公を倒すために共産を含めて他の野党と選挙区調整をして戦う機運がすごく高まっている。今回は『市民連合』が仲介した常識的な政策を実現する限定的な閣外からの協力であり、日米安保や天皇制、自衛隊の存在では以前から変わらない距離で共産党と向き合う」

―京都1区は独自候補の擁立をまだ検討するのか。

「ぎりぎりまで府連の努力を見守りたい。1区は(自民党の)伊吹さんが議席を守ってきた。候補者を立てるのならしっかりとした候補者をという思いも泉府連会長にはあるようだ」

―京都で、共産党とは1、3、6区で「すみ分け」しているようにも見える。

「京都で話し合いの場があるわけでもなく我々は関知していない。すみ分けしているつもりは全くない」

【田中府連幹事長】

 「京都3区と5区、6区の3人はいずれも現職(比例復活含む)であり、必勝を期す。現在空白の1区は候補者を見つけられるよう最後まで努力したい。2、4区は独自候補の擁立は見送るが、近畿ブロックでの当選者を増やすため、街宣活動を強化して比例票を伸ばす」

 「連携を重視するのは、党本部が選挙協力で覚書を結んだ国民民主党だ。2区は国民現職、4区には無所属元職とかって共に活動した仲間がいる。信頼関係を維持したい。共産党とは地方選挙で対立してきた過去の経緯から京都府内では選挙協力できない」



 驚くのは、福山幹事長と泉政調会長がいずれも共産党と選挙協力を結んだ立憲民主党の幹部(当事者)でありながら、京都ではこれまで共産党と選挙戦を戦ってきたという理由にならない理由で「共闘しない」「選挙協力しない」と言い切っていることである。こんな(屁)理屈が全国に適用することになると、野党各党はこれまで互いに選挙戦を激しく戦ってきたのだから、野党共闘や選挙協力などは永久にできないことになる。要するに、福山幹事長も泉政調会長も田中府連幹事長も、政党としての政策協議などはそっちのけで、「共産党とは死んでも一緒にやらない」と言っているだけのことなのである。



 ところが、さらに驚くべきことが起こった。共産党京都府委員会は10月14日記者会見を開き、渡辺委員長が立憲民主党府連に対し1区で穀田国対委員長を野党の統一候補にすることを前提に、立憲前職がいる3区と6区は自主投票とし、共産党が候補者擁立を見送る方針を明らかにしたのである。共産党は過去の衆院選では全6選挙区に候補者を擁立してきたにもかかわらず、今回候補者擁立を見送る理由として渡辺委員長が挙げたのは、「中央では共通政策・政権合意・選挙協力という3つの合意が成立した意味は大きい。政権交代のために全力を尽くす」、「その代わり3区、6区については、比例での大幅得票増を狙う」との説明だった(毎日・京都10月15日)。



 6区の山井氏はともかく、3区の泉氏がおよそ野党共闘の対象たり得ない人物であることは、今回の立憲府連会長としての行動をみれば即座にわかることだ。それがあろうことか共産党が候補者擁立を見送るというのだから、呆れてものが言えない。京都新聞はこの事態を「実質的には京都3区と6区で立憲民主党の前職を応援することになる」と書いている(10月15日)。



かくいう私は京都3区の有権者である。2016年衆院補選でも共産党は全国での野党共闘を推進するためと称して京都3区で候補者を擁立せず、泉氏を「革新統一候補」として応援するという間違いを犯した。「二度あることは三度ある」というが、今回の方針はこれまでとは比較にならないほど(悪)影響が大きい。前回の衆院補選では、こんな有権者を馬鹿にした選挙には行かないとばかり、私の周辺では大量の棄権者が続出した。私自身も選挙権を持って以来、初めて棄権したのがこの選挙だった。



京都3区の有権者は猛烈に怒っている。泉氏に投票するぐらいなら死んだ方がましだと本気で思っている有権者が数多くいるのである。共産党は有権者を馬鹿にしてはいけない。渡辺委員長が候補者擁立を取り下げる代わりに比例の大幅得票増を狙うと言ったらしいが、こんな計算がどうしてできるのか不思議でならない。第一野党共闘の支持者が投票に行かないのだから、共産党の比例票が増えるわけがないのである。



こんなことは考えたくないが、立憲民主党が京都1区に擁立できる候補者が見つからないのを見越して、共産党が3区と6区の候補者を降ろしたのだとしたら、これは「密約」以外の何物でもないことになる。これでは、京都はまるで〝魑魅魍魎〟の世界ではないか。市民と野党共闘の政策を踏みにじり、理由にもならない理由で共産党との選挙協力を拒否してきた福山幹事長や泉政調会長を応援することは、野党共闘の大義を否定することになる。共産党は遠からずして京都3区の有権者の厳しい審判を受けることになるだろう。(つづく)

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『枝野幸男と山本太郎』

【序】
 立憲民主党とれいわ新選組を比較、立民党は全国で多数の票を集めるだろう。だが、必要なのは投票率に多くの民意を結集することだ。投票率が低ければ自公政治は延長される。山本太郎は国民の貧しき人々の暮らしに寄せる目線の高さは同じ。元民主党官房長官枝野幸男氏の首相としてふさわしい脱皮に期待する。

【破】
 都知事選で立民は山本太郎氏に事前に働きかけた。立民にれいわは、❶消費税を下げる❷れいわ新選組の名称を残すことを要請。交渉の結果は❶消費税はさげない❷れいわの名は使わない。これで山本太郎氏は立民との交渉をあきらめた。
 市民連合の要請で4野党共産立民社民れいわは緊急政策で合意。山本氏は東京小選挙区から立候補を表明。枝野氏と立民で「不快」表明。比例区に回った。いま4野党とは、れいわが消え国民の名前と変わった。国民は自民に接近中。立憲民主党政権樹立をめざす政権では共産は閣外。
 山本太郎は俳優出身の政治家素人だった。小沢一郎氏のもとで薫陶をうけしだいに成長してきた。前回参院選では大阪や神奈川の応援に東奔西走。辰巳コータローの選挙カーに同乗しマイク応援を。枝野氏より政治的稚拙だが、枝野氏よりも人情に篤い。枝野氏は、押しが強いが山本太郎氏に比べて、庶民にはどうか?

【急】
 いかに枝野氏が在野政党にどんな対応をしても、自公政権に堂々と闘い、国民を奈落の底から救出する事業に一貫して取り組めば結論は変わる。要は魑魅魍魎の永田町で憲法精神の擁護者であるか否かだ。そこが貫徹できるなら枝野幸男氏を見直す。政治の世界は暗闇だ。2人の健闘を!