【現代思想とジャーナリスト精神】

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「生きて見つからないだろうか」 元巡視艇船長が語った「あの日」

2023-03-11 22:46:05 | 転載と私見
毎日新聞 2023/3/11 14:46(最終更新 3/11 14:46)

震災当時、巡視艇「ささかぜ」の船長として救助などにあたった巡視船「ざおう」の主任航海士・小野寺宏文さん=宮城県塩釜市で2023年2月28日午後3時、米田堅持撮影

 2011年3月11日に発生した東日本大震災から12年。当時、気仙沼海上保安署(宮城県気仙沼市)の巡視艇「ささかぜ」(26トン)の船長だった小野寺宏文さん(59)は、母のます子さん(当時73歳)と長男の悠希さん(当時16歳)を失いながらも、救助や捜索活動にあたった。悠希さんは翌年に発見されたが、ます子さんはまだ見つかっていない。「生きて見つからないだろか」。小野寺さんは今もそう思う時があるという。「ささかぜ」が3月21日で解役され、新たな船と交代するのを前に「あの日」を振り返った。【米田堅持】

半島が見えない大波

 小野寺さんが事務所で事務書類の作成をしていた時、緊急地震速報が鳴り、大きな縦揺れが襲った。「津波が来る」。小野寺さんは即座に、もう一人の船長とともに出港を決めた。「ささかぜ」は、いつでも出港できるように船長などが複数割り当てられた「クルー船」と呼ばれるシステムで運用されている。毎朝、エンジンをかけて温めておく準備も功を奏した。


 小野寺さんともう一人の船長、機関長、若手の航海士補の4人で小型艇をえい航しながら出港した。もう一人の船長が操船をし、小野寺さんはビデオで記録を取りつつ、養殖いかだで作業する人たちに避難を呼びかけながら沖を目指した。


気仙沼海上保安署の巡視艇「ささかぜ」が震災当時にえい航した小型艇=宮城県気仙沼市で2023年3月1日午前10時15分、米田堅持撮影
 前方の浅瀬が泡立ち、半島が見えないくらいの大きな津波が来たことは分かったが「ささかぜ」には直撃せず難を逃れた。「人が流されている」と無線が入るが、すでに引き返せる状況ではなかった。日が暮れて波が落ち着いたころ、小野寺さんはえい航していた小型艇に乗り換え、がれきを避けながら懐中電灯を手に「おーい誰かいないか」と声をかけながら港内に入った。しかし市街地や船、養殖施設など、いろいろなものが燃え、火と煙に阻まれ港の奥に進むことはできず、沖合の「ささかぜ」に戻った。


「母と息子が流された」

 姉から小野寺さんの携帯電話に「母と悠希さんが流された」とメッセージが届いた。

 「え、うちまで……」

 当時、小野寺さんの自宅のあった地域は気仙沼市内でも津波による浸水想定区域には入っておらず、近隣の避難所も流されたと聞き、言葉にできない衝撃を受けた。

 自宅から2キロほど離れた漁港で「ささかぜ」から下りると、木に船がぶら下がり、道の真ん中に家があり、まともに歩けなかった。いつもの何倍もの時間をかけて戻った自宅は、ほとんど何も残っていなかった。

気仙沼海上保安署の巡視艇「ささかぜ」=宮城県気仙沼市で2023年3月1日午前10時22分、米田堅持撮影
 「捜さなきゃ」

 10日ほど仕事を休んで、ます子さんと悠希さんの姿を求めて海岸線、避難所、遺体安置所などを歩いた。遺体安置所では「いるかもしれない。いないでほしい」と複雑な気持ちを抱えながら確認を続けたが、遺体は見つからないまま、仕事に復帰し、「ささかぜ」に乗った。

 「自分と同じような思いをしている人もいる」

 その思いを胸に救急搬送や行方不明者の捜索にあたった。

 夏になって、親戚から「区切りつけないと」と言われ、遺体のないまま母と長男の葬儀を行った。

 「どこかで生きているんじゃないか」

 「マスコミに写真を提供して報じてもらったら、『ここにいるよ』って言ってもらえるんじゃないか」

 「まだ生きているのではないか」という思いもあって、休みのたびに沿岸を捜し続けた。

 年が明けて間もなく、警察から悠希さんの遺体が見つかったと連絡が入った。

 「歯型とDNA鑑定で身元が判明したと聞き、間違いないんだな」と受け止めた。

 その当時を知る海上保安官は、「自分の家に泊まりに来た小野寺さんが、夜中に何度も目を覚まし、テレビの震災特番を見ながらたばこをふかす姿を今もはっきり覚えている」と振り返る。背中から見ることが多かったが、何も声をかけることはできなかったという。

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