広岡義之著(神戸親和女子大教授、日本基督教団神戸平安協会会員;出版当時)
フランクルのロゴセラピー全体を学ぶには良い書物だと思いました。
・自分が人生に目的を見出すと言うより、人生が自分に問いかけて来てそれに対してYesと答え(受け容れ)、そこでできることを行う。
・価値には「創造価値」、「体験価値」、「態度価値」がある。寝たきりになっても、「態度価値」を表すことができる。
・自己超越は対象が自分の幸せに向くのではなく、他者の幸せに目が向くことである。眼は自分を見ることはできない。視線は常に外部に向いているように。
・“良心“ それ自身が”超越“の声である。超越者からの「呼びかけ」が人間に鳴り響きわたり、それが”良心“になる。
・「逆説思考」が自分の不安を取り除くことがある。汗を大量に出す人に、さあ、汗が緊張したら1Lでるなら、10L出してみようではないかと自分に言ってみる。10Lだしたらギネスものだとか、ユーモアの観点が必要になる。そうするとふしぎなことに汗が普段でていると思っていた1Lも出てこない。
・人間とは何ものかとため、誰かのため、神のために自分を忘却する地点に達して初めて真の自分を発見する。
著者がクリスチャンであることから、キリスト教でのイエスの行動をロゴセラピー的な観点から考察している箇所は興味深く読みました。その例を紹介します。
「もう人生から逃避するのはやめなさい」
レスリーは(「イエスとロゴセラピー -キリスト教精神療法入門-」は、時として「態度的価値」を動員するために力強い人格を直接介入する必要があると述べています。ペテスダの病人に対するイエスの励ましは、簡潔にただ「起きて、あなたの床を取り上げて、そしてあるきなさい。」「もう罪を犯してはならない。何かもっと悪いことが、あなたの身に起こるかもしれないから」というものでした。これをレスリーは、「人生から逃避するのは、やめなさい」と意訳して理解しています。実際に、どのようにこの病人が癒されたのかは現在の科学知識では説明できません。しかし何かがこの病人におこったにせよ、困窮の只中で長年苦しんでいたひとりの人間が、イエスの面前で奇跡的救われたことはまちがいないのです。
「あなたは多くの事に心を配って思い煩っている」とイエスに指摘された姉マルタ
姉マルタは一般の女性に求められている「来客への食事等の準備」という象徴的な形で表現されているのに対して、妹マリアはイエスの足元にすわって「じっとイエスの語られる内容に聞き入る」とう象徴的な形で対照的に表現されています。マルタはイエスにマリアの態度に異議を申し立てました。イエスは「あなたは多くの事に心を配って思い煩っているとマルタの在り方をやさしくではありますが非難するような返答をしたのです。そこにはマリアの行為を批判するのではなく、「もっと自分自身を見つめなさい」というイエスのメッセージが込められているのです。マリアのとった行為は、当時の女性の役割を拒否した在り方かもしれません。しかしマリアは単に女性である前にひとりの人間であることを主張したかったのでしょう。マルタの行為は「創造価値」という一般的な価値ですが、マリアの行為は「体験価値」として重視されるべきだというのです。
「間違った人生観を正すことにエネルギーを注ぎ続けたイエス」
新約聖書を読むと、イエスは主として個々人の間違った人生観を正すことにエネルギーを注いでいたことが分かります。ザアカイ人やヤコブの井戸のサマリヤの女、またペデスダの病人や姉マルタと妹マリアたちもその対象でした。イエスはいつでも彼らに人生を別の視点から見るように促しました。
「人生に何らかの意味があるならば、それは神から生じている」
イエスの教えの特徴は、神との関係を重視したことです。イエスは繰り返し人間の生に対する神の要求を私たちに示します。人生は神なしでも理解できますが、それでは真の理解にはならないとイエスは主張するのです。元来、ロゴセラピーは宗教的な治療ではないのですが、宗教にも門戸を開いている治療方法と言えるのでしょう。
新約聖書の信仰は、苦悩のなかから大きな救いが生じると考えており、こうした視点はフランクルのロゴセラピーと軌を一にしていると言えるでしょう。
フランクルのロゴセラピー全体を学ぶには良い書物だと思いました。
・自分が人生に目的を見出すと言うより、人生が自分に問いかけて来てそれに対してYesと答え(受け容れ)、そこでできることを行う。
・価値には「創造価値」、「体験価値」、「態度価値」がある。寝たきりになっても、「態度価値」を表すことができる。
・自己超越は対象が自分の幸せに向くのではなく、他者の幸せに目が向くことである。眼は自分を見ることはできない。視線は常に外部に向いているように。
・“良心“ それ自身が”超越“の声である。超越者からの「呼びかけ」が人間に鳴り響きわたり、それが”良心“になる。
・「逆説思考」が自分の不安を取り除くことがある。汗を大量に出す人に、さあ、汗が緊張したら1Lでるなら、10L出してみようではないかと自分に言ってみる。10Lだしたらギネスものだとか、ユーモアの観点が必要になる。そうするとふしぎなことに汗が普段でていると思っていた1Lも出てこない。
・人間とは何ものかとため、誰かのため、神のために自分を忘却する地点に達して初めて真の自分を発見する。
著者がクリスチャンであることから、キリスト教でのイエスの行動をロゴセラピー的な観点から考察している箇所は興味深く読みました。その例を紹介します。
「もう人生から逃避するのはやめなさい」
レスリーは(「イエスとロゴセラピー -キリスト教精神療法入門-」は、時として「態度的価値」を動員するために力強い人格を直接介入する必要があると述べています。ペテスダの病人に対するイエスの励ましは、簡潔にただ「起きて、あなたの床を取り上げて、そしてあるきなさい。」「もう罪を犯してはならない。何かもっと悪いことが、あなたの身に起こるかもしれないから」というものでした。これをレスリーは、「人生から逃避するのは、やめなさい」と意訳して理解しています。実際に、どのようにこの病人が癒されたのかは現在の科学知識では説明できません。しかし何かがこの病人におこったにせよ、困窮の只中で長年苦しんでいたひとりの人間が、イエスの面前で奇跡的救われたことはまちがいないのです。
「あなたは多くの事に心を配って思い煩っている」とイエスに指摘された姉マルタ
姉マルタは一般の女性に求められている「来客への食事等の準備」という象徴的な形で表現されているのに対して、妹マリアはイエスの足元にすわって「じっとイエスの語られる内容に聞き入る」とう象徴的な形で対照的に表現されています。マルタはイエスにマリアの態度に異議を申し立てました。イエスは「あなたは多くの事に心を配って思い煩っているとマルタの在り方をやさしくではありますが非難するような返答をしたのです。そこにはマリアの行為を批判するのではなく、「もっと自分自身を見つめなさい」というイエスのメッセージが込められているのです。マリアのとった行為は、当時の女性の役割を拒否した在り方かもしれません。しかしマリアは単に女性である前にひとりの人間であることを主張したかったのでしょう。マルタの行為は「創造価値」という一般的な価値ですが、マリアの行為は「体験価値」として重視されるべきだというのです。
「間違った人生観を正すことにエネルギーを注ぎ続けたイエス」
新約聖書を読むと、イエスは主として個々人の間違った人生観を正すことにエネルギーを注いでいたことが分かります。ザアカイ人やヤコブの井戸のサマリヤの女、またペデスダの病人や姉マルタと妹マリアたちもその対象でした。イエスはいつでも彼らに人生を別の視点から見るように促しました。
「人生に何らかの意味があるならば、それは神から生じている」
イエスの教えの特徴は、神との関係を重視したことです。イエスは繰り返し人間の生に対する神の要求を私たちに示します。人生は神なしでも理解できますが、それでは真の理解にはならないとイエスは主張するのです。元来、ロゴセラピーは宗教的な治療ではないのですが、宗教にも門戸を開いている治療方法と言えるのでしょう。
新約聖書の信仰は、苦悩のなかから大きな救いが生じると考えており、こうした視点はフランクルのロゴセラピーと軌を一にしていると言えるでしょう。