幸せに生きる(笑顔のレシピ) & ロゴセラピー 

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学校で次亜塩素酸水「噴霧しないで」、文科省が注意喚起 ”知識を持って欲しい!”

2020-06-05 12:13:12 | 新型コロナウイルス
https://news.goo.ne.jp/topstories/life/goo/3da6f74cba135e2b9e8c9b879f743ce8.html?fr=RSS (読売新聞) 2020/06/05
 新型コロナウイルスの消毒を目的とした次亜塩素酸水の噴霧について、文部科学省は4日、児童生徒がいる空間では行わないよう、全国の教育委員会などに注意喚起した。新型コロナウイルスに対する有効性が十分確認されていないうえ、世界保健機関(WHO)が「消毒剤を人体に噴霧することは推奨しない」としているためだ。

 次亜塩素酸水は品薄のアルコール消毒液の代替品として、一部の学校で感染者が出た際などに噴霧器で散布されている。

感想
次亜塩素酸は塩素により殺菌作用が強力な酸化作用で分解などします。
新型コロナウイスに効果がなくても効果は期待されます。
ノロウイルスの感染者の吐瀉物の処理などには次亜塩素酸やナトリウム液を使います。

それだけ強い殺菌、酸化作用を有しています。
塩素ガスだと思えば分かりやすいです。
お風呂場の頑固な汚れにも使いますが、注意事項として十分な換気をしながら使うことになっています。

人がいるところで噴霧するなど考えられません。
学校で噴霧していたら、子どもたちの健康に害が生じます。
新型コロナウイルスによる影響より大きいでしょう。
空気中に次亜塩素酸水に小さな飛沫が肺の奥まで入るとその影響は肺の機能まで損傷させてしまうリスクがあります。

学校の先生だったらそのあたりのことは知っておくべきことですし、ネットで調べればわかることです。

2週間ほど前、A屋にお弁当をテイクアウトに行きました。
そのお店では次亜塩素酸水の噴霧を行っていました。
お客様が通常の1/3程いらっしゃいました。
リスクがあります。
なによりスタッフのリスクが大きいです。
つい黙っておれなくて、次亜塩素酸水噴霧のリスクを伝えました。

韓国で加湿器の防カビ用の薬剤が大きな健康被害を起こしました。
加湿器殺菌剤事件(ウイキペディア)
2016年末までに政府機関に寄せられた被害者数は死者1006人、負傷者4306人

犠牲者はすぐには出ずにしばらく経過してからです。
でもその時には遅かったのです。
亡くなっていない人も肺の機能低下で多くの人が苦しんでいます。

次亜塩素酸水噴霧よりも、換気が一番効果があります。
感染力の強かったSARSでも患者さんの部屋の窓を開けているとスタッフに感染しなかったそうです。
窓を開けっぱなしにすることです。
暑い時はクーラーつけながらでも換気することだと思います。

「急に具合が悪くなる」宮野真生子&磯野真穂著 ”有縁を度すべし”

2020-06-05 01:48:22 | 本の紹介
哲学者 宮野真生子さんと人類学者 磯野真穂さんの10回の往復書簡です。
二人の往復書簡は2019年4月27日~2019年7月9日。
宮野さんは8年前に乳がんになりそれが身体中に転移し、2019年7月22日に亡くなられました。享年42歳。
宮野さんが最後を意識され、そしてその気持ち、その過程を話したいと磯野さんに呼びかけて往復書簡が始まりました。

・もともと、この本で磯野さんと語り合ってみようと往復書簡を提案したときに考えていたのは、もちろん自分が身体にガンを飼っているということをいかに捉えるのかという問題もありましたが、もっと広く、そうした病を抱えて生きることの不確定性やリスクの問題を、磯野さんと専門的に深めてみようという学問的な野心がありました。
ところが、この原稿を書いている最中に「ほんとうに急に具合が悪くなる」ことが起こってしまった。そこからこの書簡は色合いを変えていきます。

・主治医に「急に悪くなるかもしれない」と言われたのは2018年の秋でした。・・・主治医が「念のためですけどね、ホスピスを早めに探しておいてほしいんですよ」と言ったとき、「具合が悪くなる」の先になにがあるのかをようやく悟りました。

・マルティン・ハイデガーという哲学者が『存在と時間』で、日常生活に追われている人間にとって「死」とは何かを問うて、こんなふうに言っています。
「死はたしかにやってくる。しかし今ではないのだ」
「急に具合が悪くなる」と医師に告げられるまでの私にとって、死はまさにそれでした。

・代替医療をめぐる問題は、エビデンス第一主義ではなく、希望と信頼の位相で話すべきであると私は考えています。(磯野)

・病気というのは、私ひとりの身体にふりかかるものでありながら、私一人にとどまってくれません。

・心身の不調を抱え、それを治したいと願ったときに問題になる三つのセクター。クライマンが提示する、民間センター・専門職センター・民俗センターという区分は今まさに治療のなかでオロオロしている私の状況を整理してくれる的確な分類です。

・「いまの<私>にどんな可能性があるんでしょう。先生何かありませんか?」
彼は自由治療でできそうなこと、そのための医療機関を「大学の人間がいうのはあんまり推奨されてないんだけどね!」と宮崎訛りで教えてくれました。

・一人で正しく選択するのだというプレッシャーをまず解除することで患者も医療者も楽になるのではないかと思うのです。

・九鬼周造の主著である「偶然性の問題」を読んだ時、「なにこの本、変!」と思ったことだけは覚えています。

・妖術についてもっとも有名な解説は、イギリスの文化人類学者であるE・E・エヴァンズ=プリチャード(EP)が書いた「アザンデ人の世界」という本の中に出てくるのですが、EPはこの中で、アザンデ人が、ありとあらゆる不運を妖術のせいにすることに言及します。(磯野)

・不運は他にもありえた可能性を横一列に並べて指差すことで作られます。一方で、不幸は、起こった出来事を過去と未来の中に位置づけ、そこに意味を与えた結果の産物です。(磯野)

・私はしばしば病気を持つ人にかける「定型文」が宮野さんとの間で使えないことに気づくようになりました。代表的なのは次の言葉です。(磯野)
 早く良くなるといいね
 お大事に
 無理しないで休みな
 大丈夫?

・もちろん、怖いです。呼吸困難の苦しみや痛みのなかで、最期の瞬間ってこんなふうに動けなくなってゆくんだろうか、とか足がすくむような思いに囚われることもあります。この怖さを避けることはできない。だって、身体の状態として抜きがたく私のなかにあるんだもの。いわば、身体のなかに飼っている死が(みんな飼っているわけですが)暴れ始めて、「急に具合が悪くなる」というプロセスがついに動き出したなという感じです。

・「約束」と「信頼」という観点から論じた哲学者に和辻哲郎がいます。
その和辻は、私たちが生きていくうえで最も重要な倫理的な基礎は「信頼」にあると言います。彼によれば、信頼とは何か特別な人との関係に宿るものではなく、日常的な、私たちの社会を支える基本にあります。たとえば、電車に乗ることをとっても信頼がなければ不可能です。

・新来とは、「わからないはずの未来に対してあらかじめ決定的な態度をとること」

・約束とは、そうした死の可能性や無責任さを含んだうえで、本来取れるはずのない「決定的態度」を「それでも」取ろうとすることであり、こうした無謀な冒険、賭けを目の前の相手にたして、「今」表明することに意味があるのあろうと。あなたがいるからこそ、いつ死ぬかわからない私は、約束という賭けをおこない、そのわからない実現に向けて冒険をしてゆく。あなたがいるからこそ決めたのだという、「今」の決断こそ「約束」の要点なのだろうと。だとしたら、信頼とは未来に向けてのものである以上に、今の目の前のあなたへの信であると言えそうです。だから和辻は、人間の真実は「人と人との間に」おいて「絶えず新しく起こるもの」といったのでしょう。

・いま、私は大量のモルヒネを摂取して生活しています。大量のモルヒネは抗いようのない眠気と、不確かな身体感覚をもたらします。つねに世界とのあいだに、一枚膜が挟まれているような、薄皮の感覚が私の身体を覆っています。そんななか、痛みはふしぎな役割を果たします。たしかに痛みは私の身体を「モノ」にし、一点に集中させます。しかし、痛むことで私は自分の身体を思い出し、自分を強く感じます。

・そもそも、「生きる」ってなんでしょうね。

・三木清という戦時下に獄死した哲学者が、私が生きるとは本当はなにかということについて、次のように述べています。
「人間が利己的あるか否かは、その受取勘定をどれほど遠い未来に延ばし得るかという問題である。この時間的な問題はしかし単なる打算の問題でなくて、期待の、想像力の問題である。」
死に運命付けられ、消滅するだけの点であっても、世界に産み落とされた以上、その受取勘定を、自分を超えた先の未来に託すことができる。

・アメリカの文化人類学者であるクリフォード・ギアツが残した、「人は自らが紡ぎ出した意味の網の目の中で生きる動物である」という大変有名な言葉があります。(性格を期すと邦訳は、「紡ぎ出した」「生きる」ではなく、前者は「はりめぐらした」(spin)、後者においては「かかっている」(suspended)となっているのですが)(磯野)

・磯野真穂という存在が全身で紡ぎ出す「共に踏み跡を刻んで生きる」なかで生まれる言葉が私をこの世界に引き戻してくれました。

・私が「その中で出会う人々と誠実に向き合い、共に踏み跡を刻んで生きる」ことをしてきた先に与えられたちょっとしたご褒美だと思うのです。

・「人はどんな時に人生に意味を求め、運命を見出すのか。でも運命と引き受けたからといって漫然と生きるのではなく、その中でどう決断して生きようとするのか。そしてその運命の中に、いつやってくるかわからないとという意味での、出会いと死、そして喪失の偶然が存在した時、その中を人がどんな風に生きるのか」(宮野)
これに対して
「もし運命というものがあるのなら、それは生きる過程で降りかかるよくわからない現象を引き受け、・・・ともに踏み跡を刻んで生きることを覚悟する勇気であるような気がしています。・・・(それが)遠い未来につながるラインの中に刻まれた時、その意味付けは、web of significance
と呼ぶにふさわしいものになるのではないでしょうか。(磯野)

・九鬼は『偶然性の問題』の結論で、偶然を生きるとは「出会う」ことであり、その出会いは、「至るところに間主体性を開示することによって根源的社会を構成する」と語っています。

・私は、出会った他者を通じて、事故を生み出すのです。自分というと、出来上がった存在を覆い浮かべますが、そうやって、選びとり、見出される、産まれてくる自分は一人で可能になったものじゃない。出会いと自己と他者は、完成した自分をもっていない。

・そう、「私たち」。
磯野真穂と宮野真生子が、偶然に出会い、タイミングだと感じ、互いがそれをつかみ取ったとき、ありえないことが次々と反転して生じ始めた。やっぱりこれは起こらないとこも可能だった、偶然事だけど、それは自然に生まれたわけではないのです。私たちが、そこにある偶然のタイミングを見極め、そこに乗り、時間の発生をつかみ取ったからこそ、生まれたことなのです。この時間の発生機をつかみ取ること、そこにたどり着き、引きだしてくることこそ、薄っぺらい流れてゆく時間の手前にある、時間の厚みの正体だと私は考えます。

・偶然を生み出すことが出来たのは、自然発生だけでなく、そこに私たちがいたからです。それぞれに引き出す勇気をもち、偶然を必然として引き受ける覚悟を持って出会えたからです。

感想
https://book.asahi.com/article/12802716好書好日
「急に具合が悪くなる」磯野真穂さんインタビュー 早世の哲学者・宮野真生子さんと全力投球で交わした末期の日々の言葉


”死”は約束されています。
その死を考えることによって人生を豊かに出来る。
上智大学名誉教授のアルフォンス・デーケン氏の考えで日本に「死生学」を導入されました。

生きる意味、生きること、偶然と偶然を生かすことなど考えることが多かったです。
禅宗の言葉に「有縁を度すべし」との言葉があります。
縁は偶然です。
その縁をどういかすかがまさに生き方なのでしょう。

出会った人と足跡を刻むことで人生がより豊かになるように思いました。
時間は限られています。
その貴重な時間を誰と刻むかも大きいように思いました。