幸せに生きる(笑顔のレシピ) & ロゴセラピー 

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「うつ病九段 プロ棋士が将棋を失くした一年間」先崎学著 ”自信を持てると困難も切り拓いて”

2021-10-03 01:47:47 | 本の紹介
うつ病の朝の辛さは筆舌に尽くしがたい。
あなたが考えてる最高にどんよりした気分の十倍と思っていいだろう。
まず、ベットから起きあがるのに最短で十分はかかる。
ひどい時には三十分。その間、体全体が重く、だるく、頭の中は真っ暗である。
仕方がないのでソファーに横になるが、もう眠ることはできない。
ただじっと横になっているだけである。
頭の中には、人間が考える最も暗いこと、そう、死のイメージが駆け巡る。
私の場合、高い所から飛び降りるとか、電車に飛びこむなどのイメージが浮かんだ。
つまるところ、うつ病とは死にたがる病気であるという。
まさにその通りであった。

・電車がくる時刻の寸前にホームに出ればいいのである。そうすれば飛び込みようががい。アナウンスがあって三十秒後に私はエスカレーターでホームへ上がった。ちょうど電車がくるところだった。

・健康な人間は生きるために最善を選ぶが、うつ病の人間は時として、死ぬために瞬間的に最善を選ぶ。

・もっとも嬉しいのは、みんな待ってますという一言だった。うつの人の見舞に行くときはこの一言で充分である。うつの人間は自分なんて誰にも愛されていないのだと思うので、みんなあなたが好きなんだというようなことをいわれるのが、たまらなく嬉しいのである。あとはできれば小さな声ではなし、暗い人間を元気づけようと明るいことをはなさないようにすれば完璧である。

・(精神科医の兄から)「うつにとって散歩は薬のようなものなんだ」
・「それで・・・治るんですか」
「もちろんです。ここは慶応病院です」
おおおよそ医者の発言とは思えない。科学性のかけらもない二つのことばである。だが、私はこれを聞いて全身の力がへにゃと抜けたのだった。それは、入院してはじめて感じた安心感といってもよかった。私は一生、ここは慶応病院ですよ、といって笑った時の顔を忘れないだろう。

・「医者や薬は助けてくれるだけなんだ。自分自身がうつを治すんだ。風の音や花の香り、色、そういった大自然こそうつを治す力で、足で一歩一歩それらのエネルギーを取り込むんだ」(精神科医の兄から)

・私がそんな状況で考えたのは、どうせ死ぬんだから、今あわてて死ぬことはないという発想だった。・・・。
要は自分なりの思考法をみつけることである。もちろん簡単ではない。自分を救うことは他人を救うことと同じくらい難しい。ましてやうつの人間においては。

・うつ病が最悪の時期の人間は、他人に感謝できない。他の人は知らないが、すくなくとも私はそうだった。すこしよくなってはじめて他人の気持ちを忖度するという感覚が芽生えてくる。

・たしかに私も、うつ病が脳の病気であるというのを今回はじめて知ったし、それを本当に実感したのは、七手詰め(の詰将棋)が詰まなかった時だった。

・私が元気になったのはふたりに励まされたわけでもないし、印象深い会話をしたからでもなく、ではなぜかというとただ単に「楽しかった」のである。

・書き出してすぐに思ったのは、原稿用紙にコツコツ字を書いていると不安を感じなくなるということだ。本当に治るのか、社会復帰はできるのか、果ては今後の人生がどうなるか、そういう不安が書く作用によって軽減するのである。

・将棋は、弱者、マイノリティーのためにあるゲームだと信じて生きてきた。国籍、性別、肉体的なことから一切公平なゲーム、それが将棋だ。私は、その将棋のプロであることに誇りを持って生きて来た。
うつ病になったのをまわりに隠さず、病院にも皆に来てもらったのは、こうした私の思想的バックボーンがあったからだ。そしてこの本を書く有力な動機にもなった。・・・。
皆が堂々と生きることである。まともに生きればよい。まともに生きている人間を馬鹿にする奴はまともではない。馬鹿である。

・半年もたつと教科書を盗まれたり、生徒手帳にバカと書かれて廊下の壁に貼られたりした。椅子に大きくあざけりのことばが書かれていたこともあった。・・・。
教師にイジメについて訴えても、そんなことはよくあることだとまったく取り合ってもらえず「学校に来ないとロクな人間になれんぞ」と声高にいわれた。私はこいつのいうことを聞いたらロクな人間になれないと確信した。
学校生活に比べると将棋界は楽園だった。先輩たちは温かかったし、ひとつの伝統ある世界の一員として扱ってくれた。なにより仲間と将棋を指す時間は宝物だった。とはいえ毎日将棋だけにかかわるわけにはいかない。私はむさぼるように本を読んだ。学業をしていない分、圧倒的に知識がないのは明らかだったからだ。ひたすら本を読んで、だから今この原稿を書いている。

・そこでなんとしてでもどもりを直そうと思い、アナウンサーの卵が通う学校へ通ってどもりを直して。会話が下手だったので、知り合いの落語家の人にわざわざお金を払ってしゃべり方のコツを教わった。本を読んで知識を得、現場で勉強して常識を得、どもりを直して中学時代の辛い経験を克服しようとしてきた。しかし、心の支えはなんといっても将棋だった。あの落書きをされた日、将棋を指す仲間がいなかったら自分はどうなっていただろう。記録係をできずに学校へ行くよりなかったら・・・。
棋士になって様々な人に会って臆せずはなせたのも、すべて自分は将棋が強いんだという自信があるからだった。そう、私は腕一本で人生を切り拓いてきた。そして今回もうつ病を、ひたすら将棋をさすことで切り抜けた。

感想
会社勤務時代は、会社の将棋部と囲碁部に入っていました。
その関係で将棋と囲碁の記事には関心を持って見ていました。

小さい時から将棋をして、市内の将棋大会にも毎年参加していました。
高校生の時には将棋仲間と一緒に、「将棋同好会」を各教室を回って理解を得て作りました。
特に中学高校の時は、将棋の本を買って1日で読むこともありました。
新聞の将棋欄を毎日見ていました。
日本将棋連盟の月刊誌「将棋世界」も毎月購読していました。
その関係で、先崎学さんも知っていました。
当時若手のホープで実力も兼ね備えていました。

うつ病には突然なったそうです。
昨日まで元気に、仲間と食事をしたり、お酒も飲んだりされていたそうです。

先崎学九段がうつ病になられたのは知っていましたが、本を出されていることを知らなかったので、今回読みました。
読んだ感想は、「うつ病って大変だな。その大変さはなった人でないと本当の苦しさはわからないんだな」でした。

ちなみに奥さんは囲碁棋士の保坂繭三段です。
囲碁は高校の時に少しやっていて、会社に入ってから学びました。
それで保坂繭三段も知っていました。
先崎学九段は囲碁はアマチュア五段なので、その関係で知り合われたのでしょう。
それにしても、なんで保坂繭さんが先崎さんと結婚されたんだ!と思うようなカップルだったのですが。
先崎さんはそれだけ勇気と行動力を持たれていたのでしょう。
うつ闘病中もその行動力が随所に現れていました。
先崎九段はうつ病にならないタイプのように思っていました。
誰でもうつ病になる可能性があるのでしょう。

先崎九段と保坂繭三段については趙治勲名誉名人が書かれています。
https://textview.jp/post/hobby/27635
「最後は囲碁界と将棋界の組み合わせです。穂坂繭(三段)さんと将棋棋士の先崎学(九段)さん。思い出しただけで震えてきます。悔しいです。穂坂さんは碁界のアイドルでした。小林光一(名誉棋聖)さんの弟子で秘蔵っ子と評判でした。それを先崎に持っていかれた。無念だったでしょう(笑)。羽生(善治三冠)さんなら分かる。谷川(浩司九段)さんでも文句なし。なのにどうして先崎なんだと…。

碁界では怨念のようなものが渦巻きました。先崎でOKならオレもチャレンジするのだったと涙する棋士もいたとか(笑)。繭ちゃんは超高嶺(たかね)の花みたいなイメージがあったからね。

彼とは何度かお酒を飲んだこともあってその度に言おうとしたんだけど、なかなかね。先崎さん、今度飲むときは覚悟して来てね(笑)。」