・哲学者になった僕の友人に、「なぜ哲学を専攻したのか」と尋ねたところ、彼は「世界のすべてを考える学問という点に惹かれた」と答えました。
・原初から人間が抱いていた2つの問い
1) 世界はどうしてできたのか、また世界は何でできているのか?
2) 人間はどこからきてどこへ行くのか、何のために生きているのか?
・なぜ神は自分を救ってくれないのか、一神教を信じる人間は、現世に生きる苦しみをどのように考えればよいのか。『沈黙』はこの問題に真正面から取り組んでいます。逆に一神教が持つ矛盾(全能の神がなぜ現世の苦しみを解決できないのか)が、人間の思考を深くすると側面があるのかもしれません。
・ゾロアスター教が考えたこと
1) 善悪二元論と最後の審判
2) 守護霊と洗礼
3) 火を祀ること
・ソクラテス
「もしロバが僕を蹴ったのだとしたら、僕はロバを相手に訴訟を起こすだろうか」
彼は自分の言動に対する嫌がらせ妨害に少しも動じることなく、禅問答を繰り返すような日々を続けていました。
・哲学者アルフレッド・ノース・ホワイトヘッド
「西洋のすべての哲学は、プラトン哲学への脚注にすぎない」
この言葉は、プラトンが書き残した文献の中には数多くの哲学的なテーマがほとんどすえて存在していることを表現しています。
・「万学の祖」と呼ばれたアリストテレス
・孟子の易姓革命論とルソーの社会契約説の類似性
ルソーの社会契約説における一般意志の存在と、孟子における天命という考え方は、社会生活の秩序を守る行動の基準として、多くの類似性を感じさせます。どちらも「人民主権がすべて」なのですが、民衆の自由気ままな意志を防ぐためには、公共の正義のような道徳的視点が必要であると、孟子もルソーも考えていたのではないか。
・『荀子』
「青はこれを藍より取れども藍よりも青く」
転じて、信頼できる優れた先生から体系的にきちんと学べば、師を超えるほどの優れた人物になれることもできると意味です。
・旧約聖書タナハにも多くの捏造があります。
その捏造のネタの多くは、バビロンに囚われているときに伝聞した古代メソポタミアの伝承から採られました。アダムが土くれからつくられた話はジュメールの神話、ノアの方舟はメソポタミアの大洪水、エデンの園のエデンは、目素ぽラミアの地名です。そして最後の審判という直線の時間の概念は、ゾロアスター教から拝借しました。さらに、モーゼは葦の葉で編んだ小舟でナイル川に流されますが、この話は太古の昔にメソポタミアを初めて統一したアッカドのサルゴン大王が川に流された話をそのまま拝借しています。
古い部分ほど伝承とは関係なく一番新しく創作されているという。その典型となるタナハですが、その創作動機はユダヤの民のアイデンティティをなくしたらあかんという切実な思いでした。
・1945年にエジプトで大量に発見された「ナグ・ハマディ文書」の中から、ほとんど完全な形を保つ『トマスによる福音書』が発見されたのです。
・もう一つ、キリスト教団が借用したことがあります。イエスの顔つきを大神ゼウスから借りてきたのです。あの髭を生やした立派な表情のイエスです。
・アウグスティヌスの『告白』で言及された自由意志のこと
「人間は生まれながらにして自由意志を持っていた。しかし人間は誕生した直後に、エデンの園で神の言葉に従わず禁断の『知恵の実』を食べてしまった。原罪を犯したのである。それゆえ人間は、まずその原罪を償わなければ自由意志を取り戻すことはできない。そのためには神の恩寵を得なければならない。キリスト教を信じ、神の恵みを受けて初めて、人間は自分の自由意志を得ることが可能になるのだ」
・専従者(司祭や層)がいないイスラム教には「六信五行」という信仰の形がある。
六信:神・天使・啓典・預言者・来世・定命
五行:信仰告白・礼拝・喜捨・断食・巡礼
・現代でも世界中のムスリムは、アラビア語でクルアーンを詠唱していることです。
神の言葉は唯一無二なので、クルアーンを翻訳することは、信仰上許されません。
・彼らは紙という絶好の書写材料を得て、仏典の漢訳と並ぶギリシャ、ローマの古典の一大翻訳運動を開始したのです。
このスケールの大きな翻訳運動は、中国で行われた、大乗経典をインドのサンスクリット語か漢訳した翻訳活動と並んで、甚るの2大翻訳運動と呼ばれています。
・パリの南西部にあるシャルト大聖堂の附属学校の教師だったベルナールは、次のような言葉を残しました(原文はラテン語)。
「Standing on the shoulder of giants.」
人間は巨人の肩の上に乗っているから遠くのものを見ることができる。という意味です。自分たちの存在は小さいけれど、先人たちの偉大な学問の業績といる人の肩に乗っているのだ。だからこそそれにプラスオンして何かしらの学問の業績を残せるのだと言いたかったのでしょう。
・ペストの猛威にさらされた人たちは、どのような死生観を抱いたでしょうか。
1) メメント・モリ「死を想え」という言葉に代表される考え方です。こんなにも儚い人生なのだから、きちんと敬虔に生きようと考える生き方です。神にすがる生き方ともいえます。
2) いつペストの犠牲になるかわからないし、ペストに感染したら神様も助けてはくれないのだから、こ人生を楽しく生きようぜという考え方です。神の手から自分の人生を解放していく生き方です。
・ベーコンはその著書『ノヴム・オルガヌム-新機関』の中で、人間が持つ4つのイドラについて言及しています。
1) 種族のイドラ 人間が本来、自然の性向として持っている偏見。対象を自分の都合のいい方向に考えたがる性向です。
2) 洞窟のイドラ 個人の経験に左右されて、ものの見方がゆがむケースです。狭い洞窟から外界をのぞき見するようにしか、ものが見られないことです。
3) 市場のイドラ 伝聞によるイドラともいいます。市場の人込みで耳にした噂話から、事件の真相を誤って理解してしまうようなケースです。
4) 劇場のイドラ 別名は権威のイドラです。劇場の舞台で有名なタレントが話したことや、立派な寺院で権威ある宗教家が説教したことを、何の疑いもなく信じてしまうようなケースを指します。
・デカルト『方法序説』 自分の意識を高める認識の方法
1) まず明証 それが真理であることが疑いえない、明らかな証拠を、まずは見つけること
2) 次いで分析 集めた証拠をきちんと細部まで分析する。ディテールまで検分する
3) そして総合 細部まで検分しただけで終わりにするな。それを総合して全体的な検証を
4) 最後に吟味 最後に吟味せよ。漏れはないか。見落としや見誤りはないか
・ルソー(15歳) ヴィランス夫人(29歳)との出会い/二人の愛の生活は、2年ほど続きます(25歳の時から関係は冷たくなっている。そして28歳で離れている。ういぃペディアより)。
彼は初めて母の愛を知り、同時に恋人との生活の歓びも知ったのでした。ルソーは、明るい陽光を浴びるように、夢中になって生きました。短い、けれども不思議な時間でした。彼は夫人に導かれ、貪欲に読書し、勉強に励みました。ジョン・ロックやデカルトなども読破します。夫人が大好きな言葉も学びました。
夫人と分かれ独立して生きるようになってから、彼はいくつかの音楽作品を作曲しています。その中の一つ、オペラの「村の占い師」はパリの王宮でも公演されています。その中の歌曲が奇しくも、題名と歌詞を変えて、『むすんでひらいて』として日本の文部唱歌になっていました。
・『死に至る病』でキルケゴールが示した”実存の段階“
1)「美的実存」
美しい恋人、おいしい食べもの、感動的な芸術、そのようなものを求めて生きることです。しかし朝昼晩とキャビアを食べていたら飽きるように、「美的実存」という生き方は長続きしません。
2)「倫理的実存」
わかりやすくいえば、たとえばボランティア活動に生きることです。人のために生きることを、いつも大切にすることです。けれど、このような充実感は偽善的な行為と紙一重でもあります。おまえが自己満足しているだけじゃないか、そう指摘されることもあるでしょう。人のために生きることも、必ずしも主体手kな実存を得ることにはつながらない。
3)「宗教的実存」
そうなると最終的に人が主体的に実存を得るために、行き着く先は神なのだとキルケゴールは考えました。盲目的な信仰の対象であった神を一度は否定した後に、人は理性を越えた神の存在を信じ、改めて自分の心を神のものに投じる。そのことで人は、主体的な実存を得られる。宗教的な実存としての自分になれる。キルケゴールは結論づけました。
・「現象的還元」を達成するためには
「エポケー」が必要であるとフッサールは考えた
すべてを疑ってあなたはペットボトルを見る。そして触れてみる、すると確かにペットボトルがあるなとわかる。これを知的直観とフッサールは呼びます。さらにあなたはペットボトルがプラスチックでつくられていて、水が入っていいるという知識を持っています。これを本質直観と呼んでいます。エポケーすることで、知的直観と本質直観によって、あなたはペットボトルがあるなど、わかってきます。この経過をフッサールは次のように理論化して、実存の各針路論証します。
まず、ペットボトルを見ているあなた自身の存在。自我の存在が確認できます。「我思う、ゆえに我あり」に近い発想です。その次に、その自我を持っているあなた自身の体が実存していることが、確信出来ます。自我という機能を有する大脳は、あなた自身の体に内在しているのですから。次に自分の体によって他人の体に触ってみたら、手もあり足もあり他人も人間であることが確信できます。
他人も人間であると確信できたら、他人の身体にも大脳があり、自我があることも確信できる。それを「他我」と呼ぶ。フッサールは、この他我の存在を確信することを、「闇主観性」という難解な用語で表現しています。
・サルトル
「実存は本質に先立つ」
人間は「自由な実存として存在している」とサルトルは考えました。
しかし、自由であるということは、人間は自らの意志によって、人間の本質をつくり出さねばならない、ということでもあります。どんな人生をおくるのか、どんな未来像を描くかを、自分で考えて実行していかねばならない「自由」を、持たされることでもあるのです。さらに人間が社会との関連の中で生きていく以上、自らの意志で自由に行動した責任は、自分だけでなく社会に対しても背負わなければなりません。
人間が自分の意志で自己の本質をつくることは自由です。しかし神なき世界である以上、その自由は逃れることが不可能な自由でもあるのです。サルトルは、実存と自由の関係について次のような言葉を残しました。
「人間は自由の刑に処せられている」
・人間が何千年という長い時間の中で、よりよく生きるために、また死の恐怖から逃れるために、必死に考えてきたことの結晶が哲学と宗教の歴史でもあります。もしかすると、どこかに明日への扉を開く重大なヒントが隠されているのかもしれません。
少なくとも僕はそう信じて、この本を書きました。
感想;
これだけの内容の本を書くにはすごいことです。
参考文献が180も掲載されていました。
これまでの偉人が得たものを学ぶことで、私たちはよりよい考えや生き方ができるように思いました。
「Standing on the shoulder of giants.」
ヴィクトール・フランクルも、ロゴセラピーは、フロイト、ユング、アドラーの巨人の肩に乗っているので先を見ることができると言っています。
「還暦からの底力 歴史・人・旅に学ぶ生き方」出口治明著 ”好きなことをするために”