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山口真由 東大「全優」で卒業も仕事ができず泥沼の日々 ”能力は学校の成績だけではない”

2022-06-22 10:56:00 | 生き方/考え方
https://news.yahoo.co.jp/articles/7f34bf7447e7863c5c432ad6d9693a1d63bb4eca?page=1 6/22(水) 10:33 日経xwoman
連載「20代でやめたこと、始めたこと 30代でやめたこと、始めたこと」では、活躍する先輩世代の女性に20代、30代をどう過ごしたか、何に壁を感じ、どう乗り越えたか、やめてよかったと思っていること、始めてよかったと感じていることなどを、根掘り...

連載「20代でやめたこと、始めたこと 30代でやめたこと、始めたこと」では、活躍する先輩世代の女性に20代、30代をどう過ごしたか、何に壁を感じ、どう乗り越えたか、やめてよかったと思っていること、始めてよかったと感じていることなどを、根掘り葉掘り伺います。第2回は東京大学法学部を全単位「優」で卒業後、財務省の官僚を経て、弁護士になり、2015年には米ハーバード・ロースクールに留学し、ニューヨーク州弁護士に登録……という輝かしい経歴を持つ山口真由さんが語る意外なストーリーです。

●キラキラに見える人生 実際は泥沼だった

 「東京大学法学部を『オール優』で卒業し、財務省の官僚へ」「米ハーバード・ロースクールに留学後、ニューヨーク弁護士に登録」……と聞くと、公私ともに完璧で、絶好調続きの人、というイメージを持たれるかもしれません。でも、実際の私は、ずっともがきまくって何とか今まで生きてきたという感じなんです。

 20代にやめたことは、何といっても入省2年目に財務省を辞めたこと。そして、始めたことは「自分探し」でした。

 私の半生を思い返してみると、大学卒業まではこの上なくシンプルで「勉強ができた」の一言に尽きます。そんな私が財務省に入り、残酷な真実を突き付けられました。それは「自分がそれほど優秀な人間ではなかった」ということ。

 そう。仕事ができなかったんです、私。

 と同時に、それを絶対に認めることができなかった、という……。

 入省時は意気揚々でしたよ。東大での成績は「ゼンユウ(全部『優』)」で卒業しましたし。財務省での配属部署も2階の主税局。2階にオフィスを構える主税局や主計局、文書課、秘書課などが、省内では王道で花形と言われていました。「はい、満点の女、来ましたけど!」ってドヤ顔していました(笑)。

 でも、徐々に自分の実力のなさを感じる経験が続くようになりました。例えば、同期の一人に、コクイチ(国家公務員Ⅰ種試験)の順位が3桁だった男性がいました。私は21番だったので「私のほうが優秀」という自負があり、彼に対して一方的にライバル心を持っていました。でも、気づいたんです。彼が時々、私の仕事のミスをさりげなくフォローしてくれていることに。

 私、ミスだらけだったんですよ。

 任される仕事の範囲がまだ小さかったのでそんなに大きなミスこそありませんでしたが。一番大きいミスは、忘れもしない「鍵事件」でした。

忘れもしない「鍵事件」
 財務省のオフィスには機密文書がたくさんあったため、職員は毎日、職務室に鍵を開けて入り、最後に帰る人は鍵を閉めなくてはいけませんでした。朝は必ず入省1年目の職員が鍵を開ける決まりでした。

 入省して半年ぐらいたった頃でしょうか。その日は私が朝一番に鍵を開けて、保管場所に返した……はずだったのですが、その後、鍵が無くなってしまったのです。それなのに、私は大事な鍵を無くしておきながら、反省せず、罪の意識も感じず、「私という人間の価値を考えれば、鍵1本くらい、どうってことない」と思っていました。財務省官房長に呼び出されて怒られても、「はい、はい」と聞き流して、「鍵を無くしたぐらいで、私という人間の価値が傷つくことでもない」と平気な顔でした。

 でも、その後3日間ぐらい、近くの席のベテラン職員たちがよく席を空けることに気づいたんです。「どうしたのかな」と不思議に思っていたところ、彼らが1週間分の財務省のゴミをひっくり返して鍵を探していることを知りました。そのとたん、ものすごく申し訳なくなって、ショックで涙が出てきました。職務室には重要なデータなども保管されているので、鍵を紛失したらそれこそ一大事。「私、悪いことをしてしまったんだ」と、やっと理解したんです。そして、初めて「すみませんでした!」と頭を下げました。

●もしかして私、仕事ができない?

 その辺りから、「私って、もしかして邪魔?」「仕事ができないの?」と感じるようになって。しかしその一方で、「そんなはずはない! 私はキラッキラで財務省に入ってきたんだから」と、その事実をなかなか認められない自分もいました。学生時代を通して私の核には「自分は優秀である」という強烈な思いがあって、それが邪魔して、素直に周りに教えを乞うことができなかった。「こんな優秀な自分を認めないなんて、組織のほうが間違っているんじゃない?」という不満を抱く始末でした。

 あのときはとにかく自分を大きく見せたかったし、自分が優秀な人間であるというイメージを壊したくなかった。だからその後も、できるだけ早く仕事で頭角を現して、自分にとっての「王道」――、つまり「自分が理想とする、物ごとが進むべき正当な道」に回復したいともがいていました。

 でも、残念ながら、その線は薄いことが分かり始め、それが確信に変わる前にゲームセットをして、別の道を模索しなくてはと考えました。入省2年目の秋のことです。

決定的に負けが決まる前に、リセットボタンを押すのが得意技
 思い返せば、1年目は上司が怖い人で、「この上司に押さえつけられているから、私は実力を出せていないんだ」と思っていた節がありました。

 でも、2年目は周りがみんないい人ばかり。私の「実力」発揮を阻む「壁」は何もなかった。それなのに、私は前任者よりも前々任者よりも、任される仕事の範囲が明らかに小さかった。

 最初は、いろいろな壁を自分で見つけようとしました。「私は目立ちすぎるから評価されないんだ」とか。同期20人のうち、女性は私を入れて2人しかいないから「ジェンダーの壁があるんだ」とか。でも、客観的に見て、「評価されない原因は自分にあった」と今では素直に思います。

 余談ですが、私は小学校のときから、パソコンでマージャンゲームをやるのが好きでした。七対子(チートイツ)と立直(リーチ)しか分からないので、すぐ負ける。でも、負けが決定的になる前に、自分でゲームをリセットするのが得意技でした。だから、負けない。「負けそう!」って思ったら、やめるんです。傷つきたくなかったから。こんなふうに「決定的に折れる」という経験をそれまでの人生ではほとんどしてこなかったので、何かに負けることを異常に恐れていたのです。

 日本の教育は能力主義。それまでは自分は完全に能力で東大をトップで卒業して、みんなを山の頂から見下ろしているつもりでした。でも、職場で通用する能力という面では、頂上にいたわけでは全くなかったんです。それに気づいたとき、言い訳のしようがなかった。「今回は巡り合わせが悪かった」といった理由ではなく、「私には仕事に必要な能力がなかった」という決定的な敗北を認めることに耐えられませんでした。

 「らくご(落後)者」になるのはつらい。だから、惜しまれながら辞める、という体(てい)で辞めました。入省して2年目ですから、さすがに引き留められました。財務省からすれば、投資期間中で、まだ全然、回収できていないフェーズでしたでしょうから。

 というわけで、私は24歳で財務省を辞めて、自分の人生を探し始めた。つまり、私の価値が評価される場所を求め始めたのです。

リサーチは超得意。でも、考えるのが超不得意
 それでもまだ、私の中には「王道を捨てたくない」という気持ちがありました。そして、自分の中での「王道 パート2」である「弁護士の道」を歩み始めました。司法試験には大学3年生のときに合格していたので、企業法務の大事務所の扉を叩き、面接官と3回食事に行って、「どうぞ(入社してください)」という感じであっさりと次の就職が決まりました。司法試験そのものが狭き門ということもあり、就職活動はあまり苦労しませんでした。

 でも、残念ながら、弁護士事務所でも、仕事で評価されることはありませんでした。

 途中までは、とてもうまくいっていたんです。リサーチは超得意なので、「これならできる!」と自信も持てました。でも、3年目ぐらいになり、手足を動かして調査する能力よりも、頭脳を使って考える能力を求められるようになって様子が一変しました。

 大手事務所はプロジェクトごとに30人規模などのチームで働きます。企業調査を行う際に、最若手は資料の中で難易度の低い基本パートを執筆します。経験を積むに従って難しいパートを担当するようになります。さらに、後輩が書いた文章をチェックし、手を入れてから上に上げるという役割も担うようになります。

 でも、私は後輩の書いた文章をチェックするのが大嫌いでした。後輩育成に一切興味を持てなかったんです。なので、後輩の文章はそのまま上に上げていました。そうしたら当然ながら「山口さん、一回自分で考えてから上に上げて」と言われてしまいました。

 実を言うと、私は「考える」こと全般が嫌いだったんです。それまでの勉強でも深く考えたことなど一度もありませんでした。私にとって勉強とは、深く考えてはいけないこと。情報量と処理能力の勝負でしかなかった。弁護士への勉強ですら「通説と判例を覚えて出す」の繰り返しだと考えていました。通説や判例に疑問を持つ人を見ると、「そんなふうにいちいち疑問を持っていたら、司法試験に落ちてしまうよ」と内心、思っていたぐらいです。

 私の勉強法は、圧倒的な情報量でカバーする「勉強界の体育会系」。だから、弁護士事務所で「自分で考えろ」と初めて言われて衝撃を受けたし、求められるパフォーマンスを出すことなどできませんでした。他人の文章をチェックする能力が全くなく、苦手なスキルを一から磨く精神的な余裕もありませんでした。

 だから、大量のリサーチをスピーディーに行うことで抜きんでるしかないと考えて、より多くの仕事を取るという手段を取りました。難易度の低い仕事も、その後の自分のキャリアアップにつながるような大事な仕事も、見境なく、すべて引き受けました。そうやって多くの仕事を手掛けた結果、処理スピードは落ちていき、評価も下がるという悪循環に。毎晩、夜中まで残業し、自転車で家に帰宅する途中、つらくてつらくて涙が出てきました。警察に不審に思われて、何度も職質(職務質問)されました。

 そのときまでずっと、私は「他人による評価」に自己評価を連動させていました。だから、勉強の成績がよかったときは「私は優れた人間だ」と思っていましたが、職場での評価と共に、自己肯定感も下がった。その一方、「自分が落後者であるはずがない」と信じたい自分もいて、低下する自己肯定感と、大きすぎる自己愛のはざまで揺れに揺れました。

弁護士事務所に勤務しながら、バラエティ番組に出演
 そして、この頃に、新たな仕事として、クイズ番組などのバラエティ番組に出始めたのです。自分の中では王道から遠のき、どんどん脇道にそれていくイメージでした。

 テレビ出演のきっかけは、東大の学生新聞「東大新聞」で取材されたこと。その記事を見た雑誌が取材をしてくれた縁で、テレビ出演の依頼が来るようになりました。

 このテレビなどのメディアこそが、初めて自分が仕事で評価される場所でした。職場の広報部には、その都度、出演許可をもらいました。それでも、バラエティ番組への出演は、企業法務の保守的な職場とは完全に相反する振る舞いだと思われて、周りから白い目で見られ始め、明らかにプロジェクトのアサインが減り、干されてしまったのです。

 周りは全員、目的意識を持って忙しく立ち働いていて、仕事で行く場所も決まっている。私だけがすべきことが何もなく、行く当てもない。しかしそんな私にも秘書がいるので、秘書の勤務時間内は自席で何かやっているふりをしていました。パソコンに向かって実のところ仕事ではなく英語を勉強していたり、スパムメールまでしっかり読むほど念入りにメールチェックをして時間をつぶしたり。秘書が退社すると図書館に行って、夜まで好きな本を読んで現実逃避する日々でした。

●「いのちの電話」が通話中で、ふと我に返った

 その弁護士事務所は決まった額の給与が支払われるのではなく、報酬制で、稼働時間6分ごとに人件費が支払われる仕組みでした。そしてとうとう、ある月の半ばに秘書から言われました。「先生、お忙しすぎて、稼働時間の入力がゼロのままです。入力しておいてくださいね」と。

 「やばい! 私、今月、稼働がゼロってばれちゃう!」と思って恥ずかしすぎて、「溶けて消えたい」と思った。そしてとっさに(電話相談の)「いのちの電話」のダイヤルを押したんです。でも、通話中でつながりませんでした。

 そのとき、ふと我に返り、「自分の置かれている状況が滑稽(こっけい)だな」って、思いました。「こんなに精神的に追い詰められているのに、さらに、この状況にしがみつく必要なんてある?」って。初めて自分という存在を切り離して上から見ることができて、笑えてきました。そして「辞めよう」と思いました。31歳のときです。
取材・文/小田舞子(日経xwoman doors) 写真/稲垣純也

感想
「東大首席弁護士が挫折を繰り返して見つけた 努力が99%報われる25のヒント」山口真由著 ”コンプレックスを克服する唯一の方法が「努力」だった”

生きるとは大変だなと思いました。
勉強ができても、実社会では様々な能力が求められます。

発達障害の人の中に、とても勉強ができる人がいます。
ひらめきもあり、同じことに取り組むのが得意な人がいます。
それが生かされる仕事に就けば、輝かしい成果を上げることもできます。
エジソンやアインシュタイン、ニュートンのように。

ところがコミュニケーションというか、人間関係で苦しむ人も多いです。
会社のコミュニケーションは、台本書いてそれを演じるだけなのですが、それがとても苦手な人がいます。
会社の仕事の多くはコミュニケーション能力がベースに求められます。
そこで上手くやらないと、それが仕事に影響します。

自分の能力をどう生かすかが難しいです。

それと失敗をどうこれからに生かすかも大きいように思います。

嫌なことにしがみつくことはないのでしょう。
会社で異動したいというと、「今の職場で頑張ってから言ってこい!」という人がいます。
でも、今の職場で頑張れないからです。
新しい職場では頑張れるなら、それは異動させてあげた方が、本人も会社も良いように思います。
ただ、異動する先々で頑張れないとするとそれは何か、自分に問題を抱えている場合があります。

会社で人事異動をを見ていると、よく異動する人は、二つに分けられるようです。
優秀だからいろいろな職場を経験する。
組織長にとって使いづらいから追い出す。

人事から欠員にこの人をと打診がありました。
その人は、研開から製造所に異動し、製造所では浮いてしまい(能力はあるがなんとか頑張ろうとの姿勢が感じられない)、製造所も困ってというか、周りへの悪影響を考えて出したかったのです。
組織長として、その人の問題点の情報は入っていたので、断りたかったのですが、断ると欠員のままと言われ、受け入れたことがあります。
与えた仕事は最低限クリアーされますが、さらに何かしようとの気持ちがなかったです。
また他の人が困っていても手を差し伸べることもなかったです。
新しい仕事をお願いしてもなかなか引き受けてくれませんでした。
研究の仕事にこだわりがあったようです。
きっと「こんな仕事をしている自分を認められなかったのでしょう。


細田議長に“パパ活疑惑”吉川議員…自民党が“女性蔑視”体質を放置し続ける根深い理由 ”自公ができないなら、有権者が声をあげよう!”

2022-06-22 10:17:47 | 社会
https://news.yahoo.co.jp/articles/5bc5880ca307a9bdd06bd63a15d352cb60f69412 6/22(水) 6:02 女性自身

来月に迫った参院選を前に、自民党議員の女性スキャンダルが相次いでいる。細田博之衆院議長(78)は、女性記者に対して「添い寝をしたら情報を教える」などと深夜に電話をかけたという“セクハラ”疑惑を『週刊文春』に立て続けに報じられていた。

「細田氏は、6月17日になって“記事は事実無根だ”として文春側を提訴しました。現職の衆院議長が名誉を毀損されたと民事訴訟を起こしたのは初めてのことで、前代未聞です」(政治部記者)

岸田文雄首相(64)が率いる派閥「宏池会」所属だった吉川赳衆院議員(40)には、18歳の女子学生に飲酒させたほか、4万円を渡してホテルに連れていった“パパ活”疑惑が浮上。6月10日に離党して以降、議員辞職せずに“雲隠れ”してしまっている。

しかし、これまで自民党議員が起こしてきた女性スキャンダルを振り返ると、ほとんどが離党させるだけで問題をうやむやにしてきた事実が浮かび上がる。

「女性蔑視の風潮は、“自民党の体質”のようなものです」と語るのは、政治家の育成と選挙コンサルティングを行ってきた鈴鹿久美子さんだ。

「自民党内には、“女は男の後ろをついてくるもの”という考え方がいまだに根強く残っています。森喜朗元首相(84)による女性蔑視発言がありましたが、本人はむしろリップサービスとしか考えていないあたりが象徴的です。

自民党にも女性議員はいますが、“女は男を立てるもの”という男性議員の考えに沿った政策や意見しか出せなくなっています」

自民党のあるベテラン秘書も党内の意識についてこう話す。

「議員や秘書、党職員の多くが、“女性にリーダーは務まらない”と本気で思っている現状があります。昔よりも永田町で働く女性が増えているのに、根本の発想が変わっていないのです」

政治評論家の有馬晴海さんも、こう指摘する。

「諸外国に比べて、選挙に立候補する女性も、当選する女性も多くありません。また自民党に顕著なのは、女性議員が派閥の領袖に従うことしかできず、大きな変化を起こせない構造があるのです」

丸川珠代参院議員(51)が吉川氏に対して「説明してほしい」と批判したが、細田氏に対しては、自民党内の女性議員から説明や処分を求める声は上がっていない。

「細田さんから不愉快な誘いや言葉をかけられたと語る女性議員は、じつは少なくありません。しかし細田さんは、党幹事長や閣僚も歴任し、現在は安倍派となった党内最大派閥の前会長です。

政界では“数は力”ですし、立場の弱い女性議員が声を上げることは、より一層むずかしいことなのです」(自民党関係者)

女性をバカにする岸田自民党を戒められるのは、有権者だけだ。

感想
困窮者を助けない。
若者支援をしない。
シングルマザーを助けない。
セクハラを認める。

今、自公を認めると、それらが全て正当化されてしまいます。
少なくとも、議席を減らさないと、承認されたと言われます。

国を変えるのは国民だけです。

物価は上がっているのは、金利を上げられないための円安のせいです。
それはアベノミクスの失敗が引き起こしています。
まずは変えないと何も始まりません。