幸せに生きる(笑顔のレシピ) & ロゴセラピー 

幸せに生きるには幸せな考え方をすること 笑顔のレシピは自分が創ることだと思います。笑顔が周りを幸せにし自分も幸せに!

高市政調会長「デタラメ」発言が大炎上!消費税減税を頑として拒む自公の参院選に大逆風 ”高市政調会長、国民を騙そうとして天に向かって唾を吐く?”

2022-06-20 16:11:44 | 社会
https://news.yahoo.co.jp/articles/f9e40a60be5d5b22ba6eba61ca67c72de2862fdf 6/20(月) 13:30 日刊ゲンダイDIGITAL
 7.10参院選の最大の争点となりそうな物価高対策。テレビやネット番組では、各党代表による討論会が連日、行われている。物価高騰についての議論では消費税減税を訴える野党に自民党が攻め込まれる場面が目立っている。
 ◇  ◇  ◇
 19日のNHK日曜討論での自民・高市政調会長の発言が炎上している。

 れいわの大石政審会長に「数十年にわたり法人税は減税、お金持ちは散々優遇してきたのに消費税減税だけはしないのはおかしい」と追及されると、高市氏は「れいわ新選組から消費税が法人税の引き下げに流用されているかのような発言が何度かありました。これは事実無根だ」と色をなして反論。

 消費税は法律で社会保障に使途が限定されているとして「デタラメを公共の電波で言うのはやめていただきたい」とまで言い放った。

 しかし、消費税が法人税の穴埋めに使われているのは数字上、明らかだ。財務省の「一般会計税収の推移」によると、消費税が導入された1989年度の消費税収は3.3兆円だったが、昨年度は21.1兆円と6倍に膨れ上がっている。一方、法人税は19兆円から12.9兆円へと6.1兆円も減税されているのだ。

 高市氏の発言に対して、ネット上では〈デタラメ、ウソつきはどっちだ〉〈高市に税収の表見せてやって〉〈組織票や献金の恩返しに大企業や金持ちを優遇〉と猛批判が起きている。

 消費税減税について、高市氏は「安定的な財源が確保できなくなる」と強弁し、公明の竹内政調会長も「安易に減税すべきでない」と否定。高市氏は消費税減税について「増税前の駆け込み需要や減税前の買い控えも起こる」「事業者も大変ですよ」などと必死にデメリットを並べ立てていた。

海外では付加価値税減税が常識
付加価値税減税を実施・予定する国は世界89カ国、なぜ日本だけが出来ない?(ウォルマートで買い物をする客=トロント)/(C)ロイター

 しかし、「物価高対策」にも「景気対策」にも消費税減税が有効なのは間違いないのではないか。税理士で立正大法制研究所特別研究員の浦野広明氏(税法)はこう言う。

「事業者から『変更が大変だから、消費税減税はやらないで欲しい』との声は聞いたことがありません。多少手間がかかっても、減税により消費が上向くことを望んでいます。そもそも、引き上げはできるのに、引き下げはできないのはおかしい。また、値上げラッシュで価格変更は日常茶飯に行われており、値札替えが負担とも思えません。高市氏の発言は消費税減税の否定が先にありきで、かえって国民の不信を招いたような気がします」

 物価高騰には消費税減税が有効なのは海外が示している。消費税にあたる付加価値税の減税を実施・予定している国は、昨年3月の56カ国から89カ国に激増している。

 野党7党は何らかの形で消費税減税を公約に挙げている。普段、政府自民党寄りの国民民主党や維新の会も消費税減税を求めている。

「物価対策に有効な消費税減税について、理屈をつけて否定すればするほどボロが出ます。投票日までの論戦を通じて、消費税減税をかたくなに拒む自公への逆風が強まる可能性があります」(浦野広明氏)

 消費税減税を求める世論が広がれば、自公は苦戦必至だ。 

感想
結局国民が馬鹿だから、自公のやっていることを支持してしまうのでしょう。
参議院選挙で、お灸をすえないと、まさます好き放題されます。
アベノマスクに400億円みたいに。
サントリーさんから、無償のお酒提供。
創業者の鳥井 信治郎氏も涙を流しておられるのではないでしょうか。
そこまでしなくても良いものを国民に提供したいと思われていたと思います。

政府は税金を何とか中抜きしようとばかり考えているように思えてなりません。
支持者はおこぼれを貰えている人なのではと情けないことについ勘ぐってしまいます。涙

「家計の値上げ許容度は低下」との分析結果 日銀・黒田総裁の発言と逆の結果に "黒田総裁、安倍元首相を見習った情報操作に失敗?”

2022-06-20 15:58:15 | 社会
https://news.yahoo.co.jp/articles/73ab07ebb3e78f991578d29144988a52ef35f87f 6/20(月) 14:37ABEMA TIMES

 食料品など幅広い商品で値上げが相次ぐ中、家計の値上げ許容度が低下し、節約志向が高まっているとの分析結果が発表された。

 民間のシンクタンク・みずほリサーチ&テクノロジーズが、日銀の「生活意識に関するアンケート調査」を元に分析したところ、「家計の値上げの許容度が低下している」との結果になった。日銀の黒田総裁が「家計が値上げを受け入れている」と発言し、その後撤回したが、発言とは逆の結果だ。

 さらに、分析では、飲食料品を中心に割安な商品を購入しようという意識が高まっていると指摘した。

 値上げは当面続く見通しで、「節約志向の高まりが個人消費の回復ペースを鈍らせることが避けられない」としている。(ANNニュース)

感想
電気代高騰を実感しています。
値上がりした分を何とか節電で補おうとしています。

お金に余裕がある黒田総裁はまだまだ余裕がありますが、余裕がない庶民は節約というか我慢の生活に移行しています。

情報操作をしようとして、逆効果になってしまいました。

アベノミクスの失敗で、金利を上げることができず、円安を招いています。
さらに円安が進む可能性も大きいです。
それはさらに物価高に反映します。

きちんとアベノミクスが失敗だと評価し、対策を講じる必要があるのではないでしょうか?
そのためには黒田総裁を別の人に切り替えることが必要だと思います。
そうしないと物価高、年金減少を指をくわえてみているだけになります。

ダウン症と知的障害を抱える息子…追い詰められた妻を救った夫の一言 "夫に「そんなに辛いなら育てなくていい」と言われ、救われた"

2022-06-20 10:00:44 | 生き方/考え方
https://news.livedoor.com/article/detail/22360831/?__from=ln_am 2022年6月19日 9時15分 by ライブドアニュース編集部

ざっくり言うと
ダウン症と知的障害を抱える息子を出産した女性の著書の一部を紹介している
当時、「なんで普通に産んであげられなかったんだろう」と悩んだという
そのとき、夫に「そんなに辛いなら育てなくていい」と言われ、救われたそう
普通に生んであげられなかった…ダウン症の息子を生んで死ぬことを考えた私を救った「夫のひとこと」
2022年6月19日 9時15分 プレジデントオンライン
岸田ひろ実さんは長男の良太さんを出産したとき、分娩室では誰からも「おめでとう」とは言われなかった。それは良太さんがダウン症だったからだ。岸田さんは「当時の私は『なんで普通に産んであげられなかったんだろう』と悩み、夫に『良太と2人で消えてしまいたい』と泣きながら訴えました。そのときの夫の一言で、私は救われました」という――。
※本稿は、岸田ひろ実『人生、山あり谷あり家族あり』(新潮社)の一部を再編集したものです。

良太には生まれつきダウン症という染色体の異常があり、重度の知的障害があります。特別支援学校高等部を卒業した後、作業所(就労継続支援B型)に通っています。

優しくて明るくて、家族のアイドルで、とても頼りになる存在。それが我が息子、岸田良太なのです――。

今となっては息子の良太のことを紹介する時には、こんなふうに自慢の話になってしまいます。でも、ずっと前、良太が生まれてから少しの間はそうではありませんでした。

長女の奈美が4歳になった年、1995年11月5日に長男の良太が誕生しました。

誕生前の2カ月は、切迫早産の心配があったため、私はほぼ寝たきり状態で母や義母に家事を助けてもらっていました。何もできないもどかしい気持ちは日に日に大きくなっていましたが、それも赤ちゃんが無事に生まれてくれるためと思い、その時を楽しみに待ち侘びていました。

そして待ちに待った出産の日。

オギャーッと元気な産声が聞こえた時、嬉しさと、寝たきりで大変だった日々の全てが報われたような心地になりました。でもすぐに、なにか様子がおかしいということにも気づきました。

■「娘の時と違う」出産してすぐに持った違和感
奈美を出産した時にはすぐさま、先生や助産師さんが「おめでとうございます。元気な赤ちゃんですよ」って声をかけてくれたのに、今回は違いました。わずか数十秒だと思うのですが、なんとも言えない雰囲気の沈黙が続いたのです。

私は母親の直感が働いたのか、とても戸惑ってしまいました。そんな私を気遣うかのように、しばらくして助産師さん(先生?)から、落ち着いた口調で「元気な男の子ですよ」と言ってもらいましたが、その後はまた静かになってしまいました。

結局、分娩室では誰からも「おめでとう」とは言われませんでした。

違和感はどうしても私の心から拭い去ることはできず、よからぬ想像で1人悲しく落ち込んでいました。元気な産声をあげたし……。元気な男の子ですって言ってくれたし……。一生懸命に大丈夫な理由を見つけようとしていました。

けれども不安はどんどん大きくなり、夫に分娩の時の様子を話し、私の不安を打ち明けました。すると夫も何かを感じ取っていました。分娩室から出てきた先生や助産師さんのただならぬ慌ただしさに、様子がおかしいと思ったそうです。

肝心の良太は元気に泣いて、おっぱいもちゃんと飲んでくれました。授乳などで抱っこして一緒にいられる時間だけは安心できたのですが、良太が新生児室にもどり、1人になるとすぐにもやもやと重たく曇った不安が押し寄せてきます。

■看護師も「大丈夫ですよ」とは言ってくれなかった
出産から2日目、耐えられなくなった私は安心したいがために看護師さんに聞きました。

「あの……良太に何かあるんですか?」

私が期待をこめて想像していたのは、「何もないですよ」「元気ですよ」「大丈夫ですよ」という言葉が返ってくることだったのですが、実際はそうではありませんでした。

「あぁ……先生に聞かれましたか……」

え? なんのこと? 私には全く心当たりがありません。

私の表情がみるみるひきつっていくのを見て、看護師さんは、しまったという表情をされていました。その瞬間、良太に深刻な何かがあるということが直感としてわかりました。

同時に、それが何なのか、今すぐ知りたくなりました。どんなことであろうとも、本当のことを知りたかったのです。思わず、看護師さんに詰め寄ったのでしょう。

「わかりました、先生を呼ぶのでお待ちください」

この言葉に、何かあるかもしれないという予想は、何かあるという確信に変わりました。そして激しい不安におそわれました。その日の夕方、夫と私は先生の説明を受けることになりました。

■「もしかしたら寝たきり介護」医師からの宣告の中身
「岸田さん、落ち着いて聞いてください」

という先生の一言から説明ははじまりました。

「息子さんにはダウン症があります。知的障害も伴うかもしれません」

ダウン症? 知的障害?

全く予想もしていなかった重たい言葉に私の頭は真っ白になりました。

「成長しないと障害の程度はわからないけれど、重度の場合は歩けなかったり、話せなかったりすることもあります。心臓病などの合併症がある確率も高く、もしかしたら寝たきりで介護が必要になるかもしれません」

その当時はダウン症のことも理解していなかったし、知的障害といわれてもどんなことが息子におこるのか、想像すらできませんでした。ただ一つ理解できたことは、良太は他の子とは違う、「普通の子」にはなれないということでした。

■「普通の子になれない」希望なんて持てなかった
今となっては、ダウン症や知的障害がありながらも、素晴らしい才能を発揮して芸術の分野で活躍されている方や、社会に出て働かれている方が大勢いらっしゃることを知っています。

しかし、当時の私は息子が他の子とは違う、普通の子にはなれないということで頭がいっぱいで、前向きな希望のある未来を想像することなんてできませんでした。

どうして良太に障害が? 良太は普通の子になれない? 私のせいだ。良太に申し訳ない。家族に申し訳ない。

頭の中は答えのない問いかけと、自分を責める言葉しかありませんでした。

その後には、私には育てられないかもしれないという感情。そして涙が溢れ出し、深い絶望におそわれました。

それでも、授乳のため、良太が新生児室から私のところに来てくれる時間だけは不思議と不安が解消されるのです。愛おしくかわいいという気持ちが自然とわいてきます。でも、それ以外の別々の時間は不安で夜も眠れず、母乳も思うように出なくなりました。

■「もっと頑張れ」と言われてるみたいで苦しかった
たったの数分でも1人でいることがこわくて、泣いてばかりいました。良太のことで不安な思いと、周囲の祝福されている幸せそうな他のママたちと私は違うんだという現実に耐えることができなくなりました。

この辛い場所から一刻も早く去りたい、そう思い、予定の半分の入院期間で半ば逃げるように退院し、自宅にもどることにしました。

自宅にもどってしばらくした頃、保健師さんがやってきて私を励ましてくれました。

「障害のあるお子さんは、ちゃんと育てることができるお母さんを選んで生まれてくるんです。だから岸田さんは選ばれたんです。心配しなくて大丈夫ですよ」

よかれと思ってかけてくれたこの言葉に、私はとても苦しくなりました。

私は大丈夫なんかじゃない。


まだ障害のある良太のことを受け入れることもできないダメな母親なのに。

育てられないって思っているのに。

これからどうすればいいのか、どうなっていくのかなんて全くわからないのに。

■「育てなくていい」追い詰められた私を救った夫の一言
そんな私の気持ちを知ってか知らずか、周囲の人は私のことを慰め、励ましてくれます。それが私には、がんばれ、もっとがんばれと言われているように思えて苦しくなりました。

どんな言葉をもらっても責められていると錯覚をしてしまう私は、どんどん後ろ向きになり、気がつけば絶望のどん底にいました。

一生話すことも、歩くこともできない、もしかしたら寝たきりになるかもしれない良太をずっと介護している私――この先の未来に生きる希望なんて何一つもつことなどできませんでした。

障害のある我が子を、これからどうやって育てたらいいのだろう。

私には無理かもしれない。

なんで普通に産んであげられなかったんだろう。

不安、申し訳なさ、恐怖、悲しみ、いろいろな感情が溢れ出し、とうとう夫に情けない私の全ての思いを吐き出しました。そして最後には「良太と2人で消えてしまいたい」と泣きながら訴えました。

するとそれまで何も言わなかった夫がこう言いました。

「そんなに辛いなら育てなくていい。施設に預けることもできる。絶対にママが育てないといけないなんて考えなくていいから」


想像もしていなかった夫の言葉でした。

■ずっと前に「障害があること」を受け入れていた
「僕はママが一番大事やから。ママが死にたいほど辛いことはしなくていい」

最初は唖然としましたが、夫の一言が私の気持ちをフッと軽くしてくれました。

良太を産んで、私はショックでした。どうして障害のない体で産んであげられなかったのだろうと自分を責めていました。将来、学校でいじめられたらどうしよう。私や夫が死んで一人ぼっちになったらどうしよう。未来のことを考えれば考えるほど、不安で眠れません。

一方、夫は私よりずっと早く、良太の障害を受け入れていました。

診断を聞くとすぐに、ダウン症についての本を取り寄せたり、療育といって、障害のある子どもの支援をしてくれる場所を探して予約をとろうとしてくれたり。

でも、私はそれすらも聞きたくなかったし、見たくなかった。向き合いたくなかったんです。なにか奇跡が起きて、良太は治るんじゃないかとすら願っていました。

もちろん、その時の私にはとてもできないことを、夫が先回りしてやってくれたことには感謝をしていました。でも一方で、私の気持ちが置いていかれるようで、辛かったのです。その辛さが爆発して、育てる自信がない、と夫に言ってしまいました。

夫は、良太を育てろ、と私に押し付けていたわけではないのです。私がショックで動けないのを知っていたから、現状が今より悪くならないように、今できることを淡々とやってくれていました。

■人間、遠い未来を考えると不安になるもの
我が子のことなのに前を向けないなんて、周りにどうやって打ち明けたらいいかわからないなんて、と自分を責めていた私の悲しみや不安に、夫が寄り添ってくれたことが、とても嬉しかったです。

育てなくていい、という言葉にはびっくりしましたが、それは言い換えると、今は先のことは考えなくていい、という意味だったと思います。

心理学を学ぶようになってあらためて知ったことなのですが、人は先行きの見えない未来のことを考えるとき、とてもストレスが溜まります。心まで病んでしまわないために、大切なのは、先ではなく、今この瞬間だけを見つめて、ぼうっとすることです。

夫の言葉は、良太の未来を考えなければならないという私がかかっていた呪いを解いてくれました。子どもの未来なんて、本当は誰にもわからないんです。いくら考えたって仕方がないことでもありました。


私はすでに、ショックを受けながらも、腕に抱く良太のことをかわいいと思い始めていました。その時だけを見れば、私は、生まれてきた良太が愛しくてたまらないんです。

不安はありました。でも、今は良太がかわいいと思う気持ちだけを見つめよう。見えないくらい遠い未来のことは置いておこう。いざとなれば育てなくていい、という究極の選択肢を出してくれた人がそばにいるなら、きっと、このかわいい我が子を育てることはできる。なんとかなる。夫のおかげで、そう思えました。

■1日1日の成長を心から楽しめるようになった
最初は、健常者の子どもと違うことが、とても怖かったです。

良太の成長はとてもゆっくりでした。2歳前まで歩けなかったし、言葉も話せません。低緊張なので筋力が弱くて、抱っこするとぐにゃぐにゃしていました。奈美の時とは何もかもが違います。

だけど、ゆっくりですが、良太は成長していました。

先生からは「寝たきりかも」「歩けないかも」と言われていたので、心配していましたが、他のみんなよりずっと遅れて良太が歩き出したのを見たときの嬉しさは、言葉だけでは表わせません。

はっきりしないけど「ママ」「パパ」らしき言葉を発してくれた時、泣きながら抱きしめました。奈美は、私が何かできた時より喜んでる! とすねながら、一緒になって喜んでくれました。

子どもの成長は、当たり前じゃない。こんなにも、世界がひっくり返ってしまいそうなくらい嬉しいのかと、自分でもびっくりしました。喜怒哀楽の表情を見るだけでもそう思います。1年先、10年先のことを想像するとやっぱり不安は拭えませんが、1日、1カ月先の成長が楽しみでした。

■小学校で「人気者になること」にこだわった理由
そういう積み重ねの経験からいつしか、「なんとかなるんじゃないか」という、あっけらかんとした自信を少しずつ積み上げていきました。

良太が生まれたときの想定が、一生寝たきりで、つきっきりの介護がいる状態だったというのもあるかもしれません。

ここまで健康に、楽しそうに生きてくれたから、この先もきっとなんとかやっていけるだろう。小学校へ入学する時も、もしかしたらいじめられるかも……という不安は頭の片隅にありましたが、前向きに迎えることができました。

幼い良太と過ごすなかで、一緒に得た心得があります。それは、おもしろいとか、かわいいとか、かっこいいとか、とにかく人から一目置かれる存在になると、毎日を楽しく安心して過ごせるということ。

つまり、人気者になることです。おかしいですよね。でも、本気で人気者の座を狙っていました。

どうやったって、人より成長が遅く、先生だけではなく友達にも助けてもらうことが多い良太です。でも周りに誰もいなかったり、近寄りたくないと思われてしまえば、困っていても助けてもらうことはできません。一人ぼっちになってしまいます。それに1人でも楽しい時間を過ごせるならそれでいいのですが、良太は、友達と一緒に遊ぶことが好きでした。

■登校班で生まれたコミュニケーション
でも、私が子どもたちに呼びかけて、良太を助けてあげてほしいとか、良太と友達になってほしいとか、お願いするのは違うと思いました。うまく説明ができませんが、それは、良太自身が社会で生きていくために切り開いていくことです。

良太が、1人でできないこと。例えば、自分の障害について説明すること。思っていることを言葉で伝えること。周りをじっくり見て判断すること。なにかが起こったら報告すること。そうしたことを、私がまず、手助けしようと決めました。

まずは、登校班の子どもたちのところに、良太と一緒に行きました。あいさつをして、少し離れた場所から、良太と子どもたちを見守っていました。

1年生くらいの子どもは、大人を好いてくれます。離れていても「きっしーのおばちゃん、これ見て!」「こんなことあってん!」と、ワーキャー騒ぎながら、寄ってきてくれます。私は子どもたちとたくさん、楽しみながらコミュニケーションをとらせてもらいました。良太よりも、他の子と喋っている日もあったかもしれません。

そうすると、私のことを気に入ってくれた10人くらいの子どもたちが、良太のことをいろいろ聞いてくれるんです。

「きっしーの障害って、治るの?」
「病気じゃないから、治らないねん」

「文字読まれへんって、頭が悪いから?」
「読んだり、話したりするのは苦手やねん」

「なんでちょっと目の形が違うん?」
「せやなあ、なんでやろうねえ」

「きっしーはかわいそうなん?」
「かわいそうじゃなくて、楽しそうやよ」

■子どもたちの純粋な問いかけが、嬉しかった
子どもってすごいんですよ。気になったことはなんでも聞きます。びっくりしましたが、この年齢の子どもたちには傷つけてやろうという悪意も、かわいそうだという同情もないんです。ただの純粋な疑問だけなんです。

だから私もまっすぐに答えていきました。そして、こうしてくれたら良太も助かる、という言葉も付け加えていきました。

「喋るのはヘタだけど、言ってることはわかるからね。何回かゆっくり喋ってあげてね」
「やったらあかんことをしてたら、叱ってね。きっとわかるから」
「掃除はできるから、なんでも任せてね」

子どもたちは「わかった!」と言って上手に付き合ってくれました。良太も、自分の話をじっくり聞いてくれるのが嬉しかったのか、みんなを笑わせるためにテレビでお笑いの芸人さんがやっているギャグを覚えて、披露しては一笑いをとっていました。

ここにもし、他の親御さんや先生がいたら、質問をしてくる子どもたちを止めたかもしれません。そんな失礼なことを聞いてはいけません、と叱ったかもしれません。でも私は嬉しかったです。質問に答えることで、良太とコミュニケーションをとろうとしてくれるのが。

「もし良太のことで悩んだり、嫌なことがあったりしたら、おばちゃんに言ってね」

それは子どもたちにずっと伝え続けていました。

障害があってもなくても、子どもが学校でケンカをしたり、トラブルを起こしてしまったりすることは防げません。むしろ、ケンカやトラブルを乗り越えて、人は強くなることもあります。涙を流すことも、謝ることも、良太にはきっと必要な経験です。

その経験は奪わないけど、良太がうまく言葉で説明ができないのは事実なので、どんなことが起きたのかは、周りの人々から教えてもらい、私がちゃんと把握できるように信頼関係を築いていきました。

■「普通学級にいさせてほしい」と頼んだ理由
友達だけではなく、学校の先生たちにも恵まれたと思います。

最初、良太は「なかよし学級」(特別支援学級)で、一日の大半を過ごす決まりでした。でも私は、もう少し、普通学級でみんなと一緒に過ごす時間を作ってほしかったのです。

それを伝えると、困って渋い顔をする先生もいました。そこまで手が回らない、なにかあったら責任がとれない、などいろんな心配ごとが先生にはあります。とてもわかります。それでも、なぜ普通学級にいさせてほしいかを、諦めずに伝えました。

良太がかわいそうだからではありません。障害があることを認めたくないからではありません。障害がない友達と一緒にやっていくためのルールを、良太に学んでほしかったんです。

良太は思い通りにいかないと、たまに癇癪を起こしてしまいます。空気を読むのが苦手で、走り回ったり、1人で喋ってしまったりもします。でも、良太が大好きな友達とこれから先も楽しく人生を過ごしていきたいと思うなら、それらのことは我慢しないといけない時がいつかくるのです。

■社会で一人ぼっちにならないために、できること
もちろん、障害のせいで、どう努力してもできない、わからないことはあります。それを無理やりさせるつもりはありません。

だけど、良太ならきっと、そのルールがわかるはず。社会で一人ぼっちにならず、生きていくための学びを何かしら得てくれるはず。私は、これまでの成長を見ていて、そんなふうに信じていました。

学校に対してやってほしい、というお願いだけではなく、子どもにこうなってほしいから、という理由も一緒に伝えると、ありがたいことに、先生たちは深く理解をしてくれました。

中学年以上になると、良太も勉強にはついていけなくなります。わからない授業も出てきます。そんな時、先生は、国語の時間でも良太には特別に簡単な他教科のプリントや、集中力が切れそうになったら大好きな塗り絵ができるように考えてくれました。

同じクラスの子どもたちにも、その理由を説明して。先生たちには本当に、感謝しています。先生のおかげで、良太のあとに入った障害のある子どもたちは、嬉しかったことがきっといくつかあったんじゃないかなと思います。

普通学級の子どもたちと、ルールを守りながら一緒に過ごす時間が長かったおかげか、遠足の班分けでも、修学旅行の班分けでも、良太が余ってしまうということはありませんでした。先生がなにも言わなくても「きっしー、一緒に回ろうよ」と誘ってくれる子どもがいてくれたそうです。それを聞いた時はとても嬉しかったです。

■サッカーのスローインが得意だった
休み時間も、良太は1人ではなく、友達と遊んでいました。

なにをしていたかというとサッカーです。その当時、サッカーは子どもたちに絶大な人気がありました。サッカーをやっているというのは、人気者になる一歩かもしれない……と貪欲な私はそう思い、良太がもし気に入ってくれれば、と地元のサッカークラブへ行ってみました。

良太はサッカーにはまり、コーチや他の子どもたちも喜んで歓迎してくれました。だけど、高学年になると、サッカークラブの活動は試合が大半になってきます。子どもといえど、試合は真剣勝負。足も遅く、機敏に動けない良太を試合に出すと、チームは負けてしまいます。

良太の出場回数はグッと減り、それで良太もすねてしまいました。つらいですが、仕方がないことだなと半ば諦めていたら、ある時から、良太が試合に出るようになったのです。なんと、ボールを投げてコートに入れる、スローインのピンチヒッターとして。

コーチが言うには、子どもたちが提案してくれたそうです。

「きっしーはスローインはめっちゃ上手いから、やってもらおうぜ」

これはお世辞ではなく、本当に良太のスローインは正確で、上手かったのです。子どもたちは本気で勝利を目指していました。その過程で、良太を仲間に入れてくれたということに、私は感激しました。良太も誇らしそうに、両手でボールを投げ入れます。

誰より驚いていたのは、コーチでした。

「子どもたちが持つ力、考える力が、こんなにも凄いなんて……」

大人が言うべきかどうか迷っていた壁を、子どもたちはなんなく打ち壊してくれました。余談ですが、コーチはこの時の経験があまりにも衝撃で、子どもたちともっと触れ合う仕事に就きたいと、小学校の教員になられました。

■「人と違うことが怖かった」試練を幸福に変えた秘訣
私は、良太が生まれるまでは、自主性がぜんぜんない人間でした。いつも不安で、まわりに流されて、みんなと一緒であることに漠然とした安心を感じていました。そのまま時を過ごしていたら、どうなっていただろうと恐ろしくなります。

良太のおかげで、なんとかなるさという楽観と、後先を考えない努力で、道を切り開いていく力を身につけることができました。それは人として、とても大切な力だと思います。

岸田ひろ実『人生、山あり谷あり家族あり』(新潮社)
人と違うことに怯えていたけれど、良太が大人になった今、気づきました。

人と違うこと自体が、マイナスでも、不幸でもないのです。その違いを理由に、一人ぼっちになってしまうことや、つらくて惨めな思いをしてしまうといったことが、人によっては不幸になるのです。

そもそも人は、生まれながらにみんな違います。歳を重ねれば重ねるほど、多くの違いと出会い、衝突し、悩みます。

人との違いを嘆くのではなく、違ってもこれでいいと良太が思えるような環境を作ることが、私たちが試練を幸福に変えてゆく秘訣だったのです。

----------
岸田 ひろ実(きしだ・ひろみ)
フリーランス講師
1968年、大阪市生まれ。27歳で、ダウン症で知的障害のある長男を出産。37歳で夫が急逝。さらに40歳で、自身が大動脈解離で受けた手術の後遺症で車いすの生活になる。2011年、娘、奈美が創業メンバーの株式会社ミライロに入社、講師を務める。現在は退社し、講演やコンサルティングなどフリーランスで活動中。著書に、『ママ、死にたいなら死んでもいいよ』(致知出版社)、『人生、山あり谷あり家族あり』(新潮社)がある。
----------

感想
「障害の子は、それが育てられる親に生まれる」
勇気づけようとの言葉も、その時の状況では、苦しみを大きくする言葉にもなるようです。

育てられないなら、育てなくてよい。
死にたいなら、死んでよい。
それは人生を放棄するような言葉ですが、心を縛っているいばらのつるをほどいてくれる言葉にもなるようです。

受け容れてどう生きるかが問われているのでしょう。
ロゴセラピーでは、人生から問いかけて来ると考えます。
「さあ、どうしますか?」
それに向き合って生きていくと、新たな意味や価値が生まれてくると言っています。
まさに岸田ひろ美さんは新しい意味と価値を生み出されたのだと思いました。

「東大首席弁護士が挫折を繰り返して見つけた 努力が99%報われる25のヒント」山口真由著 ”コンプレックスを克服する唯一の方法が「努力」だった”

2022-06-20 04:24:48 | 本の紹介
・並べてみると、すごいですね。
<東大><首席卒業><天才><エリート>
もちろん、自分で書いた<タイトルは、私がつけたのではありませんが>本ではあるのですが、こう見ると、何だかスーパーウーマンにでもなったような気が・・・。
とんでもない!
自慢ではありませんが、私の人生は挫折続き、そして、ずっとコンプレックスとの闘いでした。
空想好きの「変わった子」だった、北海道での少女時代。
容姿に悩み、自信のなさに打ちひしがれていた中学生時代。
上京し、田舎の子である自分を持て余しながら、必死でもがいた高校時代。
とにかく、勉強のしどおしだった大学時代。
目標としていた司法試験、国家公務員試験に合格し、夢に見ていた職業に就いたあとも、あらゆる種類のコンプレックスと、縁が切れることはありませんでした。
そう、私は天才ではなく、「コンプレックスの天才」だったのです。
いったいどうやって、私はコンプレックスと戦ってきたのだろう?
振り返ってみると、ひとつのキーワードが浮かび上がります。
それは「努力」です。

・努力にはやり方があるのだと気づきました。

・何よりコンプレックスの元だったのが、ニキビです。

・私が唯一、人並み以上にできたこと-それは、勉強でした。
勉強のよいところは、やればやっただけ、成果が出るところです。
そうしているうちに、思いがけないことが起こりました。
中学3年生になったばかりの模擬試験で、私は、全国一位を取ったのです。
「このまま、公立高校を受験されるのですか?」
全国模試で一位を取ったあと、その模試を主催した東京の大手進学塾からかかって来た電話が、すべての始まりでした。・・・
私は思い切って、東京にある国立の高校(筑波大学附属高校)を受験しました(合格)。
住まいは、父方の祖母の家(横浜)でした。
自分で決めたことですから、引き返すわけにはいきません。
そうした思いもあって、受験が終わったばかりでしたが、私はますます勉強に邁進するようになりました。

・1日14時間の勉強で勝ち取った東大合格(高校3年生の追い込みの時期)
勉強していなければ、コンプレックスに心が潰れそうになったり、自分自身の存在が見えなくなったりもするから・・・。
私の熱心な勉強は、恐怖との闘いだったのです。
唯一の息抜きは、毎日実家に電話して10分程度、母と話すこと。
この頃、東京行きに反対していた母は、すっかり心強いサポーターになっていました。

・母は、自分の先生から「女性は資格職よ。そうすれば男女差別がないから」とすすめられたそうです。そして、母も自分の体験からかも、資格職の重要性をつねづね、私たちしまいに説いていました。
妹は母の後を追って医師を目指し(医師になる)ましたが、それならば、私は・・・。
そこで、司法試験への挑戦が浮上したのです。
司法試験予備校のテキストをひたすら読み続け、試験直前には、大学入試のときより睡眠時間を半分に削って、なんと1日19時間半も勉強しました。
さすがにやりすぎたのか、最後のほうには、夜、勉強していると、どこからか「蛍の光」のメロディが聞こえてくるようになりました。
母に訴えると「こんな時間に歌う人なんていないわよ。それ、幻聴よ」と指摘され、呆れられたくらいです。

・努力だけが道を拓く!
こうして、何とか3年時にパスすることができ、さあ、次は本命の国家公務員試験です。
司法試験の頃ほど思い詰めはしませんでしたが、それでも9時間、10時間の勉強時間はザラでした。「7回読み勉強法」というひとつのメソッドを確立した私は、さすがにこの頃には、自分のメンタルも、ある程度はコントロールできるようになっていたのだと思います。
試験の結果は、合格。面接試験を経て、財務省への入省が内定しました。

・そして、大学時代、東京大学新聞から取材してもらったことがきっかけで、週刊誌や雑誌からお声をかけていただくようになり、メディアでのお仕事が始まりました。

・財務省に入省したのは、2006年の春でした。
しかし、いざ仕事を始めてみて、びっくり!
財務省は、聞きしに勝る忙しさで、周囲の先輩たちは日々、山のような業務を抱えて駆け回っていました。
月300時間の残業(残業時間だけで、ですよ?)はザラ。もちろん、新人の私も否応なく、その渦に巻き込まれていきました。
忙しさに加え、入省して半年後には、
もうひとつの試練が降ってきました。
5つほど年次が上の、ある男性上司の下につくことになったのですが、その人が怖いいわゆる「鬼上司」だったのです。
性格が正反対、というのが、はじめにつまずいたポイントでした。理屈を大事にする人で、細かくて、こだわりが強い。どちらかというと大雑把な私とはまったく異なります。・・・
もう、叱られるのが、怖くて怖くて・・・。
あるとき、「小豆は赤いのに、こし餡はなぜ黒いんだ。調べろ」といわれたことがありました。
もちろん、忙しい仕事の最中に、です。
意味がわからないし、もう、泣くほど忙しいのに、なぜそんなことを調べなくちゃいけないの? そう思っても、下っ端の身では、言い返すこともできません。
あるときは、「コーラ、買ってきて」と、財布を投げてよこしたこともありました。
これってほとんどパワハラ? ですよね。

・その夢の職場を、私はたった2年で去ることになります。
そうして、財務省を辞めた私は司法修習生となり、弁護士登録ののち就職活動をして、企業法務を専門に請け負う弁護士事務所に就職しました。

・思うに、コンプレックス過多の人間だったせいで、私は「自分にできることは何か」「自信を持ってやれることは何か」について考えることを、他の人よりも膨大に時間をかけて、何度も何度もやってきたのだと思います。
その結果、「自分の強みは、ルーティンの作業を、なるべく正確に、飽くことなく繰り返すこと」だという結論に、すでに辿り着いていました。
勉強にしろ、仕事にしろ、自分が得意とするサイクルに引き込んでこそ、安心して実力を発揮できるはず-そのことを、知っていたのです。

・母に「この鼻(母によく似ている)が嫌い」と打ち明けたら、母は「そう? 私はずっと自慢だったけど」と言ったのです。
「えっ、これって、自慢になるの?」
正直、そう思いました。
が、そのひと言が何となく胸に残り、それ以来・・・。「そうか、自慢なのか。だったら私も」と、思うようになったのかもしれません。

・最近読んだ中で興味深かったのは、上野千鶴子さんの『女たちのサバイバル作戦』。フェミニズムの入門書として、働く女性たちには、とくにおすすめした一冊です。

・失敗するパターンは、いつも決まっています。
だいたいは、私が「過剰」なのです。
まず、私には「自由すぎる」ところがあります。
つまり、自分勝手だということです。
本の執筆で忙しいときは、相手の家に行っていても、構わず仕事をしています。
最初は気を遣って、甘いものなど買ってきてくれる彼も、さすがに呆れて「仕事するなら、自分の家でやりなよ」と言い出します。

・電話をかけても一向につながらないので、仕事が終わった夜の23時に頃、彼の家に行って、玄関のチャイムを連打した(これでは、まるでストーカー・・・)ところ、観念した彼が姿を現しました。
「君には耐えられない」と、彼は言いました。
「どうして? 何がいけないの?」
そこで、私の悪い癖が、もうひとつ発露します。
それは「質問しすぎる」「追い詰めすぎる」ことです。
沈黙する彼に、私は次々に質問を繰り出しました。
私にとって、質問への白紙回答など「ありえない」こと。テストで白紙回答を絶対しない私にとって、答えることを放棄するなんて、まったく理解できません。
それでも彼が黙っているので、ついに私は、新しい手にでました。
「私のいけないこと、その1」「その2」「その3」「その4」と、四択回答を迫ったのです。
何としても、訳を知って納得したい。これが「追い詰めすぎる」理由です。

・浮気をされて別れを切り出されたあるときは、「私と彼女を比べて、どうして彼女を選んだの? 外見・知性・地位・収入で、彼女のほうが私より上回っているポイントはどこ?」と、レーダーチャートまで書いて(!)問い詰めました。
その彼も、終始無言でした。
今思うと、当時は必至だったんですが、やりすぎましたね・・・。
そして、昨夏(2015年出版)。家の前で彼から言われたひと言は、今も耳に残っています。
「君は、自分の価値にこだわりすぎる」
それは、私にとって、痛い、けれども、大きな発見をもたらしてくれたのです。

・彼を追い詰めたものは、何だったのか。
あの日、彼はこう言っていました。
「君は、自分のやりたいことしか考えてないよね。こんな夜中に僕を起こして、僕がどれだけ苦痛に感じるかなんて、考えたことないでしょ?」
ハッ! としました。
そうか、そうだった、と。
それでも、1か月くらいは、すごく不満でした。
何で、こんな、動揺しちゃいけない時期に、振るんだろう?
そもそも、私のことを大事にしてくれるはずなのに、約束が違うじゃない?
それって、債務不履行じゃないの? と(このあたりは、職業病ですえね)。
でも、冷静になって振り返ってみると、彼の言った「自分の価値にこだわりすぎる」ことが、当時の私の姿から、何となく見えてきます。
つまり、私は「自分の価値を計るため、知らず知らずのうちに、他人に自己犠牲を強いていた」ということなのでしょう。

・資格職である弁護士も、たいていは就職活動をします。
弁護士事務所には、それぞれに専門や特徴がありますから、自分が法律家として目指したい方向性と合致する事務所の門を叩き、面接を受けるので。
私は、この面接で、何度も落とされました。
あるとき、夜中に「いのちの電話」の連絡先を検索している自分を自覚したときにあ、ハッとしました。
そこまで追い詰められていたのか、と。
その後、幸いにして志望するジャンルを扱う現在の事務所で働くことができていますが、そこに辿り着くまでは、なかなかしんどい思いをしました。

・これまで、勉強や仕事を、ときにはがんばりすぎるほどがんばってきたのは、ひとえにこの承認欲求が原動力だったと、言ってもいいかもしれません。
しかし、これは裏を返せば、私の「自信のなさ」の表れだったのだと、今は思います。
ことあるごとに自分と他人を比較し、劣っているところを気にしてします。
他人と異なる(子どもの頃から、ちょっと変わっている)ことへのコンプレックスを捨てきれない。
「私はこういう人間なのだ」ということを、胸を張っていいきれない自信のなさからついつい他人からの評価を求めてしまっていたのだと。
それを克服する唯一の方法が、私にとっては「努力」でした。
努力して、「今はこういう段階にいる」と確認できることが、精神安定剤になっていたのです。

感想
何かの記事で、「たくさん経験したということは長続きしなかった。それはそこで上手くできなかったという挫折した結果です」と話されていたのを知りました。
これだけ才能があるのに何で挫折何だろうと興味を持ち、まずは知ろうと思いました。

本を読み、諸葛孔明の言葉が思い出されました。
「人は努力することで、才能が開花する」
つまり、努力しないとどこに才能があるかわからないのです。

あの人は才能があるから、頭が良いからとよく言いますが、水面下ではものすごい努力をしているのだと思います。
つまり多くの時間をかけてきたのだと思います。
著者はまさに努力の積み重ねで才能を開花させたのでしょう。
努力ではなく、やりたいから、楽しいから時間をかけられると素晴らしいです。
でもこれだけ努力を続けられたのは楽しかったからだと思います。

私がよく勉強したのは大学院入試前2か月間でしたが、それでも12時間/日がMAXでした。
なので、14時間、19時間半はすごいです。
食事時間と睡眠はしっかりとっていました。
この時は大学院合格という目標がありました。
著者は、国立附属高校、東京大学、弁護士、国家公務員と目標を立てそれに向かって努力をされました。
それも長期間の勉強でした。
高校受験も東大受験も塾や予備校行かずに自ら編み出した「7回読み勉強法」を実践されたようです。
自分に合った勉強法だったのでしょう。

私は残業は一番多くて150時間/月ほどでした。
100時間超すには土日も出社しないとなかなか超えません。
きつかったです。
財務省は300時間とのこと。これは限界を超えています。
一日約8時間働いて、さらにプラスαですから。
17時に勤務が終わると深夜の0時まで働いても7時間です。
通勤時間もあります。
働いているか寝ているか以外はトイレとお風呂、食事は仕事しながらでしょう。
体力とメンタルが強くないと財務省では出世できないようです。
財務省に入省するには公務員上級試験の上位10人とか。

著者は変わった子と周りから思われ、またそれでの虐めも受けていたようです。
それは苦しみであり、それを克服するために自分が出来ることは勉強しかなかったので、それに打ち込まれたようです。

美人であっても顔で気に入らないところや、コンプレックスを持ったりするようです。
でも、その気持ちも視点が変わると気にならなくなったりするようです。
肌の手入れなど維持に努力なさっているようです。

いろいろな体験と努力を積み重ね今があるように思います。
そして恋愛失敗からも多くを学ばれたようです。
相性の良くない彼だったのかもしれませんが。

この後
ハーバードビジネススクールに1年留学後、ニューヨーク州の弁護士資格取得。

ヒント
・ときどき振り返ると、新しい発見があります
・あきらめないで、自分の得意を磨こう
・不安は、エネルギーに転換できます
・メンタルは、努力のあとについてくるもの、「自分のやり方」を極めれば、迷いは消えます
・「負けず嫌い」も才能のうち。壁は、叩かないと開かれません
・厳しい環境は、己を知るチャンス
・「無理なことは無理」と割り切りましょう
・がんばった先にこそ、楽しい時間が訪れる
・考え方、感じ方ひとつで、欠点は特徴になり、美点になるのです
・自分の姿は「動画で」チェックしましょう
・知のインプット、アウトプットを続けましょう
・痛くても、目をそらさないで
・自分を大事にしすぎない
・お互いの「曖昧な気持ち」を大切に
・許容できるもの、できないものの見極めを
・寄り添うのなら、断然、自分の本音です
・「ご縁がなかった」を受け容れて
・しんどいときは、誰かに「お願い」
・自分の立ち位置でベストを尽くしましょう
・あなたのフィールドは、ひとつじゃない
・何より、いつでも向上心を失わないこと
・自分の心の声に耳を傾けて
・サイクルに合わせて、柔軟に働いて行くこと
・お互いを尊重し、高め合える。そんな関係を育てていきましょう
・肩肘張らずに、女子の人生を謳歌する。私たち、もっと欲張りでもいいんです