天真みちる
本の表紙の画像(おじさん役)
・私の場合、この先偉業を成し遂げる気配もないし、誰も書いてくれそうにもないし・・・。ならば、「自分で」人生を今から振り返っていこう、と。
人生真っただ中に、「たそ(愛称)のたそによるたその為の」偉業でもなんでもない半生自伝をつらつらと書き綴ろうと思った次第でございます。
・2004年3月宝塚音楽学校受験2回目
・宝塚音楽学校では、入学してからも「前期・後期(中間・期末)と1年に3回試験がある。
「声楽(調音・クラシック・ポピュラー)、クラシックバレエ、モダンダンス、タップダンス、選択器楽、演劇、日本舞踊の7科目+何種類かの課題があり、試験期間は1週間ほどだ。試験はすべて採点方式で、生徒は各科目の合計点によって順番づけられる。
この順番は単なる「成績発表」ではなく、宝塚音楽学校で開催される様々な発表会の「配役」にも反映されるので、みんな必死で試験に臨む。
・私は、どの作品にも出演者として選ばれなかったのだ。
宝塚音楽学校入学試験に落ちた時以来の、膝から崩れ落ちるような衝撃を受けた。
妙に心臓がドキドキしている。同期の「やった!! 入った!」と喜ぶ声が聞こえる。
誰が入って誰が落ちたのか。自分より下級生も入っているのに、私は入らなかったのか。ショックと悲しみと恥ずかしさで早くこの場から消えてなくなりたかった。
明日からも公演は続くことが苦しすぎる。行きたくない・・・。
そのまま千秋楽を迎え、長い長い「休み」が始まった、
小劇場や全国ツアーに出演しない生徒は、稽古期間と公演期間の約3か月間が「お暇」になる。この期間、毎朝劇団ではレッスンが開催されているのでそれに通ったり、この機会に様々な環境で自分のスキルを上げる生徒もいるが・・・。
私は・・・ただただグレた。
「私・・・タカラヅカ辞めようと思う」と両親に相談した。
すると、両親はあっさりと「良いよ」と返してきた。
「ただし、今まで夢の為にかけてくたお金をキャッシュで全額今すぐ返せるなら」と言い放った。
私の人生、これまで一体どれだけの恩恵を両親から受けてきたのだろう。その思いを自分はこんなに早くないがしろにするところだったのか・・・。
両親の言葉を聞き、私は猛省した。そして・・・その瞬間から心を入れ替えた。
・関西弁習得の道は困難だった。
「どないや、儲かってまっか?」
・芸人・ゴンゾーさんの「タンバリン芸」があった。
これを男役として格好良く叩き鳴らせないか・・・。
この日から、ゴンゾーさんのタンバリン芸の研究が始まった。
・気がつけば私も、研究科10年目を目前に。
タカラヅカには「男役10年」という言葉があり、「10年演じて初めて一人前の男役になる」と言われてきた。
・タカラヅカの舞台ではお衣装さん・小道具さんが用意して下さった物だけではなく、その役に合わせて自前で用意することがある。
・袖中で何度もセリフを復唱していたのにも関わらず、本番、自分のセリフが全く出てこなかった。
「虞美人」の新人公演以来、2度目のセリフ忘れだった。・・・
「上級生として一番やってはいけないことだ・・・」・・・
私は、日に日に舞台に上がるのが怖くなっていた。
・「良く見せよう」ではなく、「どう見られようが私は私だ」と、すべてを受け止める覚悟で臨むことが出来た。
・光月るうさん
「これだけは絶対に覚えておいて欲しいんだけど、宝塚歌劇団というところは、たそが仮に辞めたとしても、絶対に次の作品の初日は来るし、続いていくんだよ。それは、たその事を必要ない!と言っているわけではなくて、誰かが卒業すれば、誰かが一生懸命担って行くし、自分がいなくなったら、宝塚はなくなってしまう!と思い詰める必要はないんだよ。だから、自分がどうしたいのか、ちゃんと考えた方が良い」
・研究科12年目の私が、「タカラジェンヌ」ではなく、1人の人間として何がしたいのか。ここにきて初めて自分自身への問いかけの先に出た答えは・・・
「自分にしか表現できない世界を創りたい」
だった。・・・
次々回作で卒業することを胸に決めた。
感想;
宝塚歌劇団のトップスターの華やかさには、多くの人が同じように必死に頑張っているのだということを改めて知りました。
役は全員にもらえるのかと思っていましたが、もらえない人もいるのだと知りました。
まさに、啄木の短歌
「友がみなわれよりえらく見ゆる日よ花を買ひ来て妻としたしむ」
の心境なのでしょう。
一緒に過ごせる人がいればよいですが。
ゴンゾーさんの「タンバリン芸」は面白かったです。
宝塚歌劇で思い出すのは、母が教員していて、学校(兵庫県)の生徒さんを引率して宝塚歌劇を宝塚まで見に行くときに連れて行ってもらいました。
ところが、業者が日にちを間違えていたために立見席になりました。
まだ小学校の低学年だった私には見えません。
そうしたら劇場の人が、空いている席に座らせてくれました。
もう60年ほど前の記憶ですが真ん中の良い席だったように覚えています。
本の表紙の画像(おじさん役)
・私の場合、この先偉業を成し遂げる気配もないし、誰も書いてくれそうにもないし・・・。ならば、「自分で」人生を今から振り返っていこう、と。
人生真っただ中に、「たそ(愛称)のたそによるたその為の」偉業でもなんでもない半生自伝をつらつらと書き綴ろうと思った次第でございます。
・2004年3月宝塚音楽学校受験2回目
・宝塚音楽学校では、入学してからも「前期・後期(中間・期末)と1年に3回試験がある。
「声楽(調音・クラシック・ポピュラー)、クラシックバレエ、モダンダンス、タップダンス、選択器楽、演劇、日本舞踊の7科目+何種類かの課題があり、試験期間は1週間ほどだ。試験はすべて採点方式で、生徒は各科目の合計点によって順番づけられる。
この順番は単なる「成績発表」ではなく、宝塚音楽学校で開催される様々な発表会の「配役」にも反映されるので、みんな必死で試験に臨む。
・私は、どの作品にも出演者として選ばれなかったのだ。
宝塚音楽学校入学試験に落ちた時以来の、膝から崩れ落ちるような衝撃を受けた。
妙に心臓がドキドキしている。同期の「やった!! 入った!」と喜ぶ声が聞こえる。
誰が入って誰が落ちたのか。自分より下級生も入っているのに、私は入らなかったのか。ショックと悲しみと恥ずかしさで早くこの場から消えてなくなりたかった。
明日からも公演は続くことが苦しすぎる。行きたくない・・・。
そのまま千秋楽を迎え、長い長い「休み」が始まった、
小劇場や全国ツアーに出演しない生徒は、稽古期間と公演期間の約3か月間が「お暇」になる。この期間、毎朝劇団ではレッスンが開催されているのでそれに通ったり、この機会に様々な環境で自分のスキルを上げる生徒もいるが・・・。
私は・・・ただただグレた。
「私・・・タカラヅカ辞めようと思う」と両親に相談した。
すると、両親はあっさりと「良いよ」と返してきた。
「ただし、今まで夢の為にかけてくたお金をキャッシュで全額今すぐ返せるなら」と言い放った。
私の人生、これまで一体どれだけの恩恵を両親から受けてきたのだろう。その思いを自分はこんなに早くないがしろにするところだったのか・・・。
両親の言葉を聞き、私は猛省した。そして・・・その瞬間から心を入れ替えた。
・関西弁習得の道は困難だった。
「どないや、儲かってまっか?」
・芸人・ゴンゾーさんの「タンバリン芸」があった。
これを男役として格好良く叩き鳴らせないか・・・。
この日から、ゴンゾーさんのタンバリン芸の研究が始まった。
・気がつけば私も、研究科10年目を目前に。
タカラヅカには「男役10年」という言葉があり、「10年演じて初めて一人前の男役になる」と言われてきた。
・タカラヅカの舞台ではお衣装さん・小道具さんが用意して下さった物だけではなく、その役に合わせて自前で用意することがある。
・袖中で何度もセリフを復唱していたのにも関わらず、本番、自分のセリフが全く出てこなかった。
「虞美人」の新人公演以来、2度目のセリフ忘れだった。・・・
「上級生として一番やってはいけないことだ・・・」・・・
私は、日に日に舞台に上がるのが怖くなっていた。
・「良く見せよう」ではなく、「どう見られようが私は私だ」と、すべてを受け止める覚悟で臨むことが出来た。
・光月るうさん
「これだけは絶対に覚えておいて欲しいんだけど、宝塚歌劇団というところは、たそが仮に辞めたとしても、絶対に次の作品の初日は来るし、続いていくんだよ。それは、たその事を必要ない!と言っているわけではなくて、誰かが卒業すれば、誰かが一生懸命担って行くし、自分がいなくなったら、宝塚はなくなってしまう!と思い詰める必要はないんだよ。だから、自分がどうしたいのか、ちゃんと考えた方が良い」
・研究科12年目の私が、「タカラジェンヌ」ではなく、1人の人間として何がしたいのか。ここにきて初めて自分自身への問いかけの先に出た答えは・・・
「自分にしか表現できない世界を創りたい」
だった。・・・
次々回作で卒業することを胸に決めた。
感想;
宝塚歌劇団のトップスターの華やかさには、多くの人が同じように必死に頑張っているのだということを改めて知りました。
役は全員にもらえるのかと思っていましたが、もらえない人もいるのだと知りました。
まさに、啄木の短歌
「友がみなわれよりえらく見ゆる日よ花を買ひ来て妻としたしむ」
の心境なのでしょう。
一緒に過ごせる人がいればよいですが。
ゴンゾーさんの「タンバリン芸」は面白かったです。
宝塚歌劇で思い出すのは、母が教員していて、学校(兵庫県)の生徒さんを引率して宝塚歌劇を宝塚まで見に行くときに連れて行ってもらいました。
ところが、業者が日にちを間違えていたために立見席になりました。
まだ小学校の低学年だった私には見えません。
そうしたら劇場の人が、空いている席に座らせてくれました。
もう60年ほど前の記憶ですが真ん中の良い席だったように覚えています。