・診察室の中だけでは解決できない「生きづらいという苦しみ」
その多くは、病気などにより、本来持っている「生きる力」が一時的に失われているケースなのですが、それとは毛色の違う、永続的に続くような深刻な「生きづらさ」を抱えているケースも少なくありません。
そうした人たちがもつ苦悩は、私が「意志」として診察室の中だけで関わるだけでは、解決に至ることがほとんどありませんでした。
・普通に生活をしているように見えていても、心の奥に深刻な生きづらさを抱えながら、それを隠してギリギリで生きている人が相当数いるのだろうと強く感じています。
・「自分に自信がほしくて、努力してきました。そのおかげで、行きたかった大学、行きたかった会社に行くことができました。でも、ホッとしたのはほんの一瞬だけ。今も、振り落とされないように必死でしがみついています」
「この先、幸せになれるイメージが、まったく湧かないんです」
泣きながら、絞り出すようにそう伝えてくれた彼女は、「存在レベルでの生きづらさ」を抱えてゐいるように思えました。
彼女は、「自分の物語」を生きられていませんでした。
・イギリスの哲学者バートランド・ラッセルは、「人々の努力によって社会がより良く、より豊かになると、人はやることがなくなって不幸になる」と主張しました。
そこで必要になるのが「自分の物語化」です。
自分の物語化とは、これまでの人生で連綿と起こって来た出来事に対して、自分なりの解釈をつけていくことです。
・臨床心理学者の高垣忠一郎先生の言葉
「人は、自分の物語にすがりついて生きている」
すがりつくべき物語がなければ、人は生きていくことができません。
・自分の物語を編集するにあたって、もっとも警戒すべき現象の一つが「だからわたしはダメなんだ」病(DWD病)です。
自分の物語は、これまでの人生で起こって来た出来事と、その解釈によって紡がれていきます。
どんなに素晴らしい「出来事」があっても、その解釈がネガティブであれば価値がゼロになってしまいます。
自分の物語をだめにする悪魔は、実は「解釈」のところに潜んでいるのです。
自分の物語をつくるうえで、もっとも重要なことは、自分の感情に素直になることです。
・多くの人が、他人や社会が決めたルールを受け入れ、自分のルールよりも優先させ、必要以上に我慢をしてしまっているからです。
・「自分と他人の境界線」があいまいだと生きづらくなる
世界は、「自分が責任をもって守るべき領域」と「他人が責任をもって守るべき領域」の二つに、大きく分けることができます。
・境界線が正しく機能している人、他人によって境界線を侵害された(それを私は「ラインオーバー」と呼んでいます)ときに、きちんと対処できる人の心の中や生活、人生は、自然と、その人にとって「良いもの」「快いもの」を中心に構成されるようになります。
ところが、世の中には、境界線があいまいな人、境界線をひくのが苦手な人、境界線が正しく機能していない人、乱オーバーに気づかない人、ラインオーバーされても拒否できない人が少なくありません。
・家庭環境とは関係なく、単に「イヤだ」というのが苦手な性格、お人よしすぎる性格、人に嫌われるのを恐れすぎる性格のせいで、ずるずると他人がラインオーバーしてくるのを許してしまう人もいます。そのような人の場合、
1) 他人(社会)が決めた「~は常識」「~は当たり前」「~するべき」といったルールを、絶対に守るべきものだと考えてしまう。
2) 他人(社会)からネガティブな評価を下され、自分でも「自分はダメな人間だ」と思うようになってしまう。
3) 他人(社会)から無茶な要求や不公平な取引を持ちかけられたとき、対抗することができず、受け入れてしまう。
といったことが起こりやすく、心の中や生活、人生が、その人にとって「良くないもの」「不快なもの」を中心に構成されやすくなります。
・一方で、ラインオーバーされやすい人は、ラインオーバーしやすい人でもあります。
・他責傾向が強い人は、実は不安が強い人でもあります。
「自分は間違っていない」と主張するため、一見自信がありそうな人もいますが、本当は心の中にたくさん不安を抱えていることが多く、その不安を打ち消そうとして、声高に「自分の正しさ」を主張し、他人を責めてしまうのです。
・無茶な要求、不公平な取引をもちかけてくる他人からのラインオーバーに敏感になろう
どういう状態が「ラインオーバー」なのかわからない場合は、自分の「快・不快」の感覚や、相手とのやりとりの後に感じる「もやもやとした気持ち」に注目するといいかもしれません。
・Noと言えない人に知ってほしい、「お断り」の態度の強さレベル
レベル1 直接、頼まれていないのに、雰囲気で相手のしてほしいことを察して、へとへとになるまでやってしまう・
レベル2 頼まれていないのに、雰囲気でいろいろ察してやってしまうが、疲れているときはやらない。
レベル3 どんな頼みごとも、態度のうえでは嫌な顔一つ見せず快諾してしまう。
レベル4 少しためらいの態度を示すものの、承諾はする。
レベル5 かなりためらいの態度をしっかり示すものの、承諾はする。
レベル6 不本意であることをいったん表明し、さらに要求されたら承諾する。
レベル7 いったん断って、されに要求されたら再検討する。
レベル8 断って、さらに要求されても押し切られないように努力する。
レベル9 きっぱり断る。相手の言い分には耳を傾けず、断る態度を貫きとおす。
レベル10 きっぱり断り、さらに相手がしつこく要求する場合はしかるべき反撃を用意する。
・ラインオーバーに対する具体的な対処方法
ステップ1 第三者に相談する
ステップ2 気持ちを伝える努力をする
気持ちを伝えるいくつかの技術
① 話すタイミングを選ぶ
② 相手への気遣いや感謝の言葉を添える
③ 伝える内容をしぼる
④ 相手の言い分も聞く
ステップ3 相手を「NO」の棚に分類する
「NO」の棚に入れた相手に対しては、接触しないのが基本です。
・ときには他人を嫌っても、他人の悪口を言ってもいい
・謝罪は、関係を改善するためだけに行う
・心が弱っているときは、自分をジャッジする人から離れる
・職場の人間関係のルールや環境を見直すことは、必要以上に我慢をせず、自分らしく幸せな人生を送るうれで必要不可欠です。
・社会にはあなたの真面目さや善良さにつけ込む人がいる
・「幸福な人生を諦める」か「自分の心が求めているもの」に気づくか
・人生の時間は限られています。
自分を縛っている他人のルールを断ち切り、自分のルールに基づいて生き直すタイミングは、早いに越したことはないのです。
・「我慢は美徳」というのは、他人に我慢をしてもらったほうが都合がいい人たちの勝手なルールにすぎません。
・罪悪感から他人に時間を使いすぎていないか
あなたに不公平なトレードを強いる「内なる敵」の一つです。
・精神科医の水島広子先生
「罪悪感とは、実は自己中心的な感情である」
・デンマークの心理療法士イルセ・サンは、『敏感な人や内向的な人が楽に生きるヒント』の中で、罪悪感の本質について次のように書いています。
「私たちが抱く罪悪感は、実際には”他の人からネガティブな感情を向けられることへの恐怖“であると意識しましょう。他かの人からネガティブな感情を向けられることに耐えられず、自分自身の罪の意識にも耐えられないのなら、自分の身に火の粉が降りかかるのを避けようと、考えうることは何でもするでしょう。
ひょっとしたら、他の人に見つかる前に自分のあら探しをして、自分自身の不完全さを補うことに注力するという戦略や、”周りの人に臨まれているであろう自分“でいようとする戦略をとるかもしれません。そして、その戦略が、罪悪感という不快な感情を避ける助けとなるよう望むのでしょう。
ところが、実際はその緊張感がかえって逆効果となり、気楽で心地よい心待ちがら遠ざかることとなってしまうのです」
・断るという選択肢を常に持つのです。
次に、罪悪感によって他者にコントロールされることを防ぐために、自分の中で物事の優先順位をつけ、その順位づけを忠実に守りましょう
・人生は「ほどほどにポンコツ」がちょうどいい
・私は一人でも多くの人に、自分のルールに基づいた自分らしい生活、自分らしい人生を取り戻し、自分の物語を生きていってほしいと願っています。
・さんざん考えた末に、私がたどり着いた答えは、
「まず、自分に合わないもの、やりたくないことを見つけ、NOを言うことから始める」
というものです。
・「やりたいことが見つからない」という人の多くは、もしかしたら「他人に押しつけられたやりたいこと」に目くらましをされているのではないか、とも思っています。
・実際、自分を肯定できずにいる人は、望まない頼みごとや誘いを受けてしまう傾向が強いといえます。
他人をケアすることは、自分で自分にOKを出せない人にとっては、命綱のようなものです。
・「だから私はダメなんだ」病を治療して、自分の物語を歩く
「人生」という物語には、「出来事」の部分と「解釈」の部分があります。
これらの出来事は、解釈次第で価値が大きく変わります。
・自己肯定感とは「何はなくとも、自分は自分であって大丈夫」という感覚のことです。
たとえ欠損や欠点だらけでも、誇れるものがなくても、そんな自分自身を丸ごと受け入れ、愛することができる。
それが自己肯定感です。
ですが、自己肯定感を持てずにいる人に、この感覚を伝え、きちんと理解してもらうには、なかなか難しいことです。
・ただ、そのためには(自己肯定感を得る)どうしても欠かせないものがあります。
それは、「自分を一方的にジャッジせず、自分の欠損や欠点を認めてくれる、信頼できる他人の存在」です。
人は、自分一人の力では、なかなか自分を肯定することができませんし、信頼できる他人との間で「NOと言っても大丈夫」という体験を積み重ねないと、なかなかNOを言う勇気を持つことができません。
1) 一人でも二人でも、自分を欠点ごと受け入れてくれる、信頼できる他人がいること(他人への信頼)
2) そのような他人が存在する「世界」そのものを信頼し、世界とのつながりを感じ、「世界は決して怖くない」「自分は世界とつながっており、一人でない」と思えること(世界への信頼)
3) そのような他人と世界の存在をよりどころにし、「自分は自分であって大丈夫」という、自分自身への信頼感を抱くこと(自分への信頼)
その三つが、必要不可欠なのです。
・問題や悩みを紙に書きだすだけでも自己肯定感は保てる
・心地良く過ごすために率先して嫌なことから逃げよう
・落ち込んでいるときに重要な意思決定はしない
感想;
薬だけでは治す(解決する)ことができない精神的な病があるということです。
それを治すためには、自分の解釈を直すことなのかもしれません。
認知療法は間違った解釈を正すものですが、人生の生きる意味には答えは出してくれません。
人生の意味を考えるヒントを与えてくれる一つにロゴセラピーがあるように思います。
”人惑”と同じことが言われているのも感じました。
自分の考えであると思っていることは、実は小さい時に親や先生から「こうすべき」と言われて育ち、あたかも自分の考えのように思って、それに縛られ自分を苦しめている。
そこから自由になりなさいとの教えです。
自分の欠点も含め、ありのままを受け入れ愛情を持って接してくれる人がいることは大きな力なのでしょう。
小さいときにそれを体験すると自己肯定感が生まれやすいかもしれません。
逆に「あなたはダメ!」「こうしなさい」と言われて育つと、自己肯定感を持ち難くなるのかもしれません。
昔、神田うのさんのCMに、世界がうのちゃんを敵に回しても、俺はうのちゃんの味方だ!というのがありました。当時神田うのさんはわがままタレントのイメージで売り出していたのを逆手にとったCMでした。商品名は忘れましたが。
そんな人がいると心強いでしょうね。
本のタイトル通り、人生は長いようで短いです。
その時間を自分のために、自分が好きなことに使いたいです。
他人の評価のために使っても、他人は自分の人生に責任は取ってくれませんからね。
責任は自分が負うしかありません。
だったら自分が良いと思ってやりたいことをすることなのでしょう。
それが、神様からの自分に与えられた使命なのかもしれません。
もちろん、心の中に神様を住まわせ、そして対話しながらですが。
どんな神様を住まわせているかは行動でわかりますね。
悪魔を住まわせているのではと思う人もいます。
自分がそうならないように心がけたいです。
自分が信頼できる人の声も聴きながら。
宗教を信じている人には、周りの評価よりも、その信じている宗教の教えにどれだけ忠実に生きられているかが優先するので、生き辛いことも軽減し、我慢して生きているのではなく幸せに生きていると思えるのかもしれません。
ロゴセラピーは宗教性を除いた心理療法とも言われています。
その多くは、病気などにより、本来持っている「生きる力」が一時的に失われているケースなのですが、それとは毛色の違う、永続的に続くような深刻な「生きづらさ」を抱えているケースも少なくありません。
そうした人たちがもつ苦悩は、私が「意志」として診察室の中だけで関わるだけでは、解決に至ることがほとんどありませんでした。
・普通に生活をしているように見えていても、心の奥に深刻な生きづらさを抱えながら、それを隠してギリギリで生きている人が相当数いるのだろうと強く感じています。
・「自分に自信がほしくて、努力してきました。そのおかげで、行きたかった大学、行きたかった会社に行くことができました。でも、ホッとしたのはほんの一瞬だけ。今も、振り落とされないように必死でしがみついています」
「この先、幸せになれるイメージが、まったく湧かないんです」
泣きながら、絞り出すようにそう伝えてくれた彼女は、「存在レベルでの生きづらさ」を抱えてゐいるように思えました。
彼女は、「自分の物語」を生きられていませんでした。
・イギリスの哲学者バートランド・ラッセルは、「人々の努力によって社会がより良く、より豊かになると、人はやることがなくなって不幸になる」と主張しました。
そこで必要になるのが「自分の物語化」です。
自分の物語化とは、これまでの人生で連綿と起こって来た出来事に対して、自分なりの解釈をつけていくことです。
・臨床心理学者の高垣忠一郎先生の言葉
「人は、自分の物語にすがりついて生きている」
すがりつくべき物語がなければ、人は生きていくことができません。
・自分の物語を編集するにあたって、もっとも警戒すべき現象の一つが「だからわたしはダメなんだ」病(DWD病)です。
自分の物語は、これまでの人生で起こって来た出来事と、その解釈によって紡がれていきます。
どんなに素晴らしい「出来事」があっても、その解釈がネガティブであれば価値がゼロになってしまいます。
自分の物語をだめにする悪魔は、実は「解釈」のところに潜んでいるのです。
自分の物語をつくるうえで、もっとも重要なことは、自分の感情に素直になることです。
・多くの人が、他人や社会が決めたルールを受け入れ、自分のルールよりも優先させ、必要以上に我慢をしてしまっているからです。
・「自分と他人の境界線」があいまいだと生きづらくなる
世界は、「自分が責任をもって守るべき領域」と「他人が責任をもって守るべき領域」の二つに、大きく分けることができます。
・境界線が正しく機能している人、他人によって境界線を侵害された(それを私は「ラインオーバー」と呼んでいます)ときに、きちんと対処できる人の心の中や生活、人生は、自然と、その人にとって「良いもの」「快いもの」を中心に構成されるようになります。
ところが、世の中には、境界線があいまいな人、境界線をひくのが苦手な人、境界線が正しく機能していない人、乱オーバーに気づかない人、ラインオーバーされても拒否できない人が少なくありません。
・家庭環境とは関係なく、単に「イヤだ」というのが苦手な性格、お人よしすぎる性格、人に嫌われるのを恐れすぎる性格のせいで、ずるずると他人がラインオーバーしてくるのを許してしまう人もいます。そのような人の場合、
1) 他人(社会)が決めた「~は常識」「~は当たり前」「~するべき」といったルールを、絶対に守るべきものだと考えてしまう。
2) 他人(社会)からネガティブな評価を下され、自分でも「自分はダメな人間だ」と思うようになってしまう。
3) 他人(社会)から無茶な要求や不公平な取引を持ちかけられたとき、対抗することができず、受け入れてしまう。
といったことが起こりやすく、心の中や生活、人生が、その人にとって「良くないもの」「不快なもの」を中心に構成されやすくなります。
・一方で、ラインオーバーされやすい人は、ラインオーバーしやすい人でもあります。
・他責傾向が強い人は、実は不安が強い人でもあります。
「自分は間違っていない」と主張するため、一見自信がありそうな人もいますが、本当は心の中にたくさん不安を抱えていることが多く、その不安を打ち消そうとして、声高に「自分の正しさ」を主張し、他人を責めてしまうのです。
・無茶な要求、不公平な取引をもちかけてくる他人からのラインオーバーに敏感になろう
どういう状態が「ラインオーバー」なのかわからない場合は、自分の「快・不快」の感覚や、相手とのやりとりの後に感じる「もやもやとした気持ち」に注目するといいかもしれません。
・Noと言えない人に知ってほしい、「お断り」の態度の強さレベル
レベル1 直接、頼まれていないのに、雰囲気で相手のしてほしいことを察して、へとへとになるまでやってしまう・
レベル2 頼まれていないのに、雰囲気でいろいろ察してやってしまうが、疲れているときはやらない。
レベル3 どんな頼みごとも、態度のうえでは嫌な顔一つ見せず快諾してしまう。
レベル4 少しためらいの態度を示すものの、承諾はする。
レベル5 かなりためらいの態度をしっかり示すものの、承諾はする。
レベル6 不本意であることをいったん表明し、さらに要求されたら承諾する。
レベル7 いったん断って、されに要求されたら再検討する。
レベル8 断って、さらに要求されても押し切られないように努力する。
レベル9 きっぱり断る。相手の言い分には耳を傾けず、断る態度を貫きとおす。
レベル10 きっぱり断り、さらに相手がしつこく要求する場合はしかるべき反撃を用意する。
・ラインオーバーに対する具体的な対処方法
ステップ1 第三者に相談する
ステップ2 気持ちを伝える努力をする
気持ちを伝えるいくつかの技術
① 話すタイミングを選ぶ
② 相手への気遣いや感謝の言葉を添える
③ 伝える内容をしぼる
④ 相手の言い分も聞く
ステップ3 相手を「NO」の棚に分類する
「NO」の棚に入れた相手に対しては、接触しないのが基本です。
・ときには他人を嫌っても、他人の悪口を言ってもいい
・謝罪は、関係を改善するためだけに行う
・心が弱っているときは、自分をジャッジする人から離れる
・職場の人間関係のルールや環境を見直すことは、必要以上に我慢をせず、自分らしく幸せな人生を送るうれで必要不可欠です。
・社会にはあなたの真面目さや善良さにつけ込む人がいる
・「幸福な人生を諦める」か「自分の心が求めているもの」に気づくか
・人生の時間は限られています。
自分を縛っている他人のルールを断ち切り、自分のルールに基づいて生き直すタイミングは、早いに越したことはないのです。
・「我慢は美徳」というのは、他人に我慢をしてもらったほうが都合がいい人たちの勝手なルールにすぎません。
・罪悪感から他人に時間を使いすぎていないか
あなたに不公平なトレードを強いる「内なる敵」の一つです。
・精神科医の水島広子先生
「罪悪感とは、実は自己中心的な感情である」
・デンマークの心理療法士イルセ・サンは、『敏感な人や内向的な人が楽に生きるヒント』の中で、罪悪感の本質について次のように書いています。
「私たちが抱く罪悪感は、実際には”他の人からネガティブな感情を向けられることへの恐怖“であると意識しましょう。他かの人からネガティブな感情を向けられることに耐えられず、自分自身の罪の意識にも耐えられないのなら、自分の身に火の粉が降りかかるのを避けようと、考えうることは何でもするでしょう。
ひょっとしたら、他の人に見つかる前に自分のあら探しをして、自分自身の不完全さを補うことに注力するという戦略や、”周りの人に臨まれているであろう自分“でいようとする戦略をとるかもしれません。そして、その戦略が、罪悪感という不快な感情を避ける助けとなるよう望むのでしょう。
ところが、実際はその緊張感がかえって逆効果となり、気楽で心地よい心待ちがら遠ざかることとなってしまうのです」
・断るという選択肢を常に持つのです。
次に、罪悪感によって他者にコントロールされることを防ぐために、自分の中で物事の優先順位をつけ、その順位づけを忠実に守りましょう
・人生は「ほどほどにポンコツ」がちょうどいい
・私は一人でも多くの人に、自分のルールに基づいた自分らしい生活、自分らしい人生を取り戻し、自分の物語を生きていってほしいと願っています。
・さんざん考えた末に、私がたどり着いた答えは、
「まず、自分に合わないもの、やりたくないことを見つけ、NOを言うことから始める」
というものです。
・「やりたいことが見つからない」という人の多くは、もしかしたら「他人に押しつけられたやりたいこと」に目くらましをされているのではないか、とも思っています。
・実際、自分を肯定できずにいる人は、望まない頼みごとや誘いを受けてしまう傾向が強いといえます。
他人をケアすることは、自分で自分にOKを出せない人にとっては、命綱のようなものです。
・「だから私はダメなんだ」病を治療して、自分の物語を歩く
「人生」という物語には、「出来事」の部分と「解釈」の部分があります。
これらの出来事は、解釈次第で価値が大きく変わります。
・自己肯定感とは「何はなくとも、自分は自分であって大丈夫」という感覚のことです。
たとえ欠損や欠点だらけでも、誇れるものがなくても、そんな自分自身を丸ごと受け入れ、愛することができる。
それが自己肯定感です。
ですが、自己肯定感を持てずにいる人に、この感覚を伝え、きちんと理解してもらうには、なかなか難しいことです。
・ただ、そのためには(自己肯定感を得る)どうしても欠かせないものがあります。
それは、「自分を一方的にジャッジせず、自分の欠損や欠点を認めてくれる、信頼できる他人の存在」です。
人は、自分一人の力では、なかなか自分を肯定することができませんし、信頼できる他人との間で「NOと言っても大丈夫」という体験を積み重ねないと、なかなかNOを言う勇気を持つことができません。
1) 一人でも二人でも、自分を欠点ごと受け入れてくれる、信頼できる他人がいること(他人への信頼)
2) そのような他人が存在する「世界」そのものを信頼し、世界とのつながりを感じ、「世界は決して怖くない」「自分は世界とつながっており、一人でない」と思えること(世界への信頼)
3) そのような他人と世界の存在をよりどころにし、「自分は自分であって大丈夫」という、自分自身への信頼感を抱くこと(自分への信頼)
その三つが、必要不可欠なのです。
・問題や悩みを紙に書きだすだけでも自己肯定感は保てる
・心地良く過ごすために率先して嫌なことから逃げよう
・落ち込んでいるときに重要な意思決定はしない
感想;
薬だけでは治す(解決する)ことができない精神的な病があるということです。
それを治すためには、自分の解釈を直すことなのかもしれません。
認知療法は間違った解釈を正すものですが、人生の生きる意味には答えは出してくれません。
人生の意味を考えるヒントを与えてくれる一つにロゴセラピーがあるように思います。
”人惑”と同じことが言われているのも感じました。
自分の考えであると思っていることは、実は小さい時に親や先生から「こうすべき」と言われて育ち、あたかも自分の考えのように思って、それに縛られ自分を苦しめている。
そこから自由になりなさいとの教えです。
自分の欠点も含め、ありのままを受け入れ愛情を持って接してくれる人がいることは大きな力なのでしょう。
小さいときにそれを体験すると自己肯定感が生まれやすいかもしれません。
逆に「あなたはダメ!」「こうしなさい」と言われて育つと、自己肯定感を持ち難くなるのかもしれません。
昔、神田うのさんのCMに、世界がうのちゃんを敵に回しても、俺はうのちゃんの味方だ!というのがありました。当時神田うのさんはわがままタレントのイメージで売り出していたのを逆手にとったCMでした。商品名は忘れましたが。
そんな人がいると心強いでしょうね。
本のタイトル通り、人生は長いようで短いです。
その時間を自分のために、自分が好きなことに使いたいです。
他人の評価のために使っても、他人は自分の人生に責任は取ってくれませんからね。
責任は自分が負うしかありません。
だったら自分が良いと思ってやりたいことをすることなのでしょう。
それが、神様からの自分に与えられた使命なのかもしれません。
もちろん、心の中に神様を住まわせ、そして対話しながらですが。
どんな神様を住まわせているかは行動でわかりますね。
悪魔を住まわせているのではと思う人もいます。
自分がそうならないように心がけたいです。
自分が信頼できる人の声も聴きながら。
宗教を信じている人には、周りの評価よりも、その信じている宗教の教えにどれだけ忠実に生きられているかが優先するので、生き辛いことも軽減し、我慢して生きているのではなく幸せに生きていると思えるのかもしれません。
ロゴセラピーは宗教性を除いた心理療法とも言われています。