・柳井(ユニクロ)は淡々と日本に民間の小児ホスピスを設立することの意義を語った。
(TSURUMIこどもホスピスのオープンセレモニーで)「つくるのはわりと簡単です。でも、これを運営するのは非常に難しいと思うんで、ぜひ世界に誇れるホスピスになっていただきたいなと思います。
・子供にとってがん治療は、筆舌に尽くしがたい苦痛を伴うものだ。病室に隔離された上で、検査と称して頻繁に採血されたり、生体検査で体内の病変の一部を採取されたりする。小児がんの38%を占める白血病の場合は、背中の腰骨に針を刺して骨髄を採取する骨髄検査も行われる。
小児がんに対する手術、薬物療法、放射線治療は副作用や後遺症を伴うさらに過酷なものだ。
・阪大病院では看護婦の組合の力が大きく、不調が大きな決定権を握っていた。そんな看護部たちが入院児のルールとして決めていたのが、親による24時間付き添いだったのである。
入院にかかる看護基本料には、夜間看護料も含まれており、本来なら夜間看護は看護婦の業務の一つだったが、病院側は夜間看護料を受け取っておきながら、24時間付き添いを入院の条件にすることで、親に子供に対する細々とした雑務を任せていた。
・阪大病院で息子を白血病で失った親の一人に、安道照子がいる。後に小児がん患者の支援を行うNPO法人「エスピューロー」を立ち上げた人物だ。・・・
安道の家庭もまた離婚という結末を迎えた。安道の言葉である。
「難病の子供を抱えながら家庭を回していくのは、ほんまに大変です。私は息子の看病や病院の人間関係でずっとピリピリしてましたし。夫は仕事があるので同じ目線でものを考えられません。治療への意見、健康な長女への対応、家庭のあり方など、いろいろなところで意見のすれ違いが生まれました。
息子が亡くなったのは、病気がわかってから二、三年後です。闘病の期間としてはそこまで長くありませんでしたが、その時には夫婦間に埋めようのない亀裂が生じていました。最終的には、長男の死から一年くらい経って離婚することになりました」
・原純一(大阪市立総合医療センター副院長・がん医療支援センター長)は語る。
「難病の子供たちは治療を終えて社会にもどった後も、身体障碍、病気のリスク、社会的孤立といった問題を背負って生きていかなければならなくなります。これらを複合的に背負えば、どれだけの困難が待ち受けているか想像に難くありません。
僕がその象徴のように感じるのが、難病から復帰した子供たちの自殺率の高さです。治療を受けている最中は生きることに懸命なんですが、それが一段落して病院の外へ出た時に、自分を待ち受けている過酷な未来を見て絶望してしまう。正確な統計は出ていませんけど、僕の感覚で言えば健康な子供にくらべて十倍ぐらいは自殺率が高いと感じています。実際に僕が受け持った患者さんの中にも、将来を悲観して自ら命を絶ってしまった子どもがいます」
・(1996年市立吹田病院に)赴任から一年経ったある日、原はヨーロッパで起きていた一つの動きを知る。イギリスで、英国小児緩和ケア協会と英国小児科学会が世界初となる小児緩和ケアのガイドライン「小児緩和ケアサービスの発展に向けての指針」を出したのだ。イギリスの医療界全体が小児緩和ケアの共通の定義をもち、その実践に向けて足並みをそろえるという。
原は驚きだった。日本では未だに「緩和ケア」という言葉さえ広まっていないのに、イギリスでは小児医療にまで広がっているなんて。・・・
ガイドラインの中で小児緩和ケアは次のように定義されていた。
「緩和ケアとは、身体、精神、スピリットへの積極的かつ全人的なケアであり、家族へのケアの提供も含まれる。それは、疾患が診断された時にはいまり、根治的な治療の有無にかかわらず、継続的に提供される。・・・」
一般的に「緩和ケア」といえば、死期が迫った患者の痛みを鎮痛剤等で緩和させて穏やかに死に向かわせることだと捉えられている。
だが、イギリスでやWHOが定義する小児の緩和ケアでは、心理社会面やスピリチュアル面でのケアの重要性が説かれている。子供が闘病中であっても伸び伸びとしたいことをし、あるいは会いたい人に逢える環境を整えることが謳われているのだ。
さらに、ガイドラインの中では、難病の子供家族に対する支援にも言及されている。・・・
・いったん家に帰って、家族ですごしながら経過を観察してみてはと提案したところ、母親の回答は意外なものだった。
「家に帰るのは困ります。子供は病院においてください」
どうしてかと尋ねると、母親は言った。
「義理の母には子供が難病だと話していないんです。もし知られたら、難病にかかったのは私のせいだと言われるのが怖いんです」
医学知識のない人の中には、孫が難病になったと聞くと、「嫁の遺伝子が悪かったからだ」と決めつけて責め立てる者がいる。近隣の住人たちから白い目で見られ、難病の子のきょうだいはまで「同じ遺伝子が入っているから体が弱いにちがいない」と噂されることもある。この母親はそういう状況に陥るのを恐れ、義母にさえ子供の病気を隠していた。
・日本にも欧米の潮流に追随しようとする動きがあるらしく、その一つとして紹介されていたのがボランティアグループ「にこにこトマト」だ。
・山地が記事でもっとも気になったのが、アメリカにある「チャイルド・ライフ・スペシャリスト」という資格だった。病院で難病の子供たちの生活支援をするには、専門的な知識や技術が必要になる。
・あいち小児保健医療総合センターは、名古屋駅から車で30分ほどのところにある、病床数二百の小児総合病院だ。ここは日本で初めてチャイルド・ライフ・スペシャリストの資格を取った藤井あけみが子供の目線に立った病棟デザインをしており、自分のやりたいことに合致していると期待した。
・多田羅は市総合医療センター内で、日本で先駆けて小児専門の緩和ケアチーム『子どもサポートチーム』を結成し、患者への総合支援を開始した(2009年)。
・原はみんなの前で言った・
「いきなり建物をつくって小児のホスピスを開設するのは難しいなら、ここに集まった人たちで訪問介護や遊び場づくりをするボランティアグループを立ち上げるのはどうやろ。難病の子供たちに家に行ったり、イベントをしたりして、患者と家族を支える。ホスピス設立を目標にして、そういうところからスタートしてみるんや」・・・
よく2010年、このボランティア団体は「こどものホスピスプロジェクト」として正式に立ちあげられる。そして、この団体のもとに大勢の小児医療を変えたいと願っている人たち、そして生きる希望を求めている幼い患者や家族が、まるで砂漠でオアシスを見つけたように集まってくることになった。
・大阪市立総合医療センターは18階建ての建物に、2,200人以上の職員を抱える巨大な総合病院だ。・・・
7階のすみれ病棟の入り口のガラス扉は、アンパンマンの動物のシールがたくさん貼られている。正面にナースステーションがあり、左右の老化の奥に病室が並ぶ。その他、絵本やオモチャが並ぶプレイルーム、窓から外の景色を一望できる食堂、学校の教室を再現した院内楽興などが設けられている。
・陽香は言う。
「・・・ スズ君(京大医学を目指して頑張っていたが、共通一次試験後に亡くなる)は大学進学を果たせませんでしたが、私はなんとか高校を卒業して今は大学に通っています。看護師になりたいです。私はスズ君ほど頭は良くありませんが、医療の道に進んで難病で苦しんでいる子の役に立ちたいという気持ちは同じです。私が看護師になったら、スズ君や亡くなっていった仲間たちの思いも背負って働きたいです」
・紗輝(公立中学に通う二年生。三歳で脳腫瘍を発症し、五歳で再発、さらに九歳で急性骨髄せ白血病がわかり、物心つく前から手術や抗がん剤による薬物療法、それに放射線治療を繰り返し受けた。左半身の麻痺はその後遺症によるもので、今なおいつガンが再発してもおかしくない)
には、鈴之助介(スズ君)のことで一つ心残りがあった。入院中に鈴之介がしてくれた学生服の第二ボタンをくれるという約束が果たされていなかったのだ。もう会うことが叶わないなら、せめて第二ボタンがほしい。
恭子は娘の悲しむ姿を見る度に力になりたいと思った。三月の卒業式が終わった後、恭子は鈴之介の両親に連絡し、「紗輝がスズ君の第二ボタンをほしがっているのでいただけないでしょうか」と尋ねた。鈴之介の両親にしてみれば、貴重な遺品の一つだったはずだったが、両親は快く「ええですy」と言ってくれた・
鈴之介の母親は第二ボタンを手渡す時、こんなことを言った・
「これで、うちは紗輝ちゃんの姑やわ。鈴之介と同じように、うちもいつまでも紗輝ちゃんのこと大切に思ってるからな。がんばって生きてな」
紗輝は第二ボタンを大事に受け取り、これをお守りとして病と闘っていこうと誓った。
・「こどものホスピスプロジェクト宣言」
1)生命を脅かす病気の子供たちと、その家族のパートナーとして活動する。
2)子供たちのための緩和ケアを実践する。
3)英国の小児ホスピスのガイドラインの目的を尊重した活動を行う。
4)小児緩和ケア専門施設の設立を目指すとともに、地域での緩和ケアを実践する。
5)国際小児緩和ケアネットワークの憲章を遵守し、全世界の関連施設、団体、人とともに小児の緩和ケアの発展を目指す。
・沙也加は初めてホスピスに来たときには人工呼吸器をつけて車イスにに横たわり、体を動かすことさえできない状況だった。・・・
家族に一筋の光をもたらしたことがあった。ある日、家族がホスピスに遊びに来たところ、ボランティアの音楽療法士が「ピアノの演奏をしてあげよっか」と口火を切り、彼女のピアノ演奏をバックに、みんなで絵本の読み聞かせをした。
スタッフが絵本の朗読をはじめた時、沙也加は無表情で天井を向いていた。だが、読み進めるにつれて、沙也加の瞳が潤んできた。透明な涙が少しずつ溜まっていく。
スタッフの一人がそれに気づいて言った。
「あれ、沙也加ちゃんが泣いてる!」
両親や弟が集まって、沙也加の顔をのぞき込む。たしかにその目は泣いているように潤んでいる。
「感動してるんだよ。沙也加ちゃん。体は動かせなくても、耳だけは聞こえていて、ピアノ音や絵本の話がわかっているんだ!」
家族は大喜びして耳元に口を近づけ、次々に沙也加の名前を呼んだ。
・原先生はこう言ったんです。
「『・・・必要なのは、治る見込みのない幼い子供に苦しい治療を強いることじゃなく、子供の遺された命を充実させてあげることだと思います。それができれば、祐太君もご両親のもとに生まれてきたことがよかったと思うし、ご両親も祐太君を授かってよかったと思えるはず。そういう幸せの見つけ方もあるんじゃないでしょうか』
これを聞いた瞬間、僕ら夫婦は眼を開かされました。親が意固地になって祐太をベッドに縛りつけるより、短い期間かもしれないけど、祐太のしたいことを好きなだけさせてあげようと感が直したんです。それ以来、僕たち夫婦は自由にできる時間をすべて祐太のためにつかうことにしました」
・私(著者)はホスピスで聞いた「深く生きる」という言葉を思い出さずにはいられなかった、紗輝はたしかにそう生きている死、将来そのバトンを他の人につなげようとしている。それこそが、ホスピスにかかわる全員が目指す未来なのだろう。
感想;
入院児と遊ぶボランティア(NPO法人 病気の子ども支援ネット)があります。
入院児の子どもを支えるために、キャンプを続けていた3人の小児科医を追い続けた
ドキュメンタリ映画
入院児と遊ぶボランティア(体験記)を体験した病院は東京医科歯科大附属病院小児病棟でした。
そこには多くの固形がんや白血病で子どもたちが入院していました。
その時に小児科の先生から聞いたのは、昔は小児がんを助けることができなかったけど、今は7~8割ほど助けられるようになったとのことでした。
でも2~3割は助けられませんとのことでした。
実際に遊んだ子どもさんが亡くなりました。
よっくんです。
よっくんは多くのポエムを残しています。