・車椅子に乗って暮らしています。・・・
14年前まで、私は普通に歩いていました。
私は突然、大動脈解離という病気に襲われました。・・・
緊急オペに入りました。
10時間のオペを経験したあと、幸いにも一命を取りとめることができました。そして麻酔から覚めた私は、まったく足が動かなくなっていました。胸から下が麻痺してしまったのです。
その日から絶望と向き合う日々が始まってしまいました。
私には家族がいます。長女と、そしてダウン症と知的障害がある長男、3人家族です。
夫は病気で突然、亡くなってしまいました。
気持ちは限界になっていました。そしてとうとう娘に言ってしまいました、。
「もう、なんでママ生きてるんだろう。死んだほうがましだった。死にたい」
私は娘の顔を見ることができませんでした。きっと泣いて、「ママ死なないで、何でそんなこと言うの?」と言うと思っていたんですね。
「しまった、言ってしまった」と思いながら恐る恐る娘の顔を覗いてみました。すると娘は・・・パスタをパクパク食べていました。えっ、今それ食べる⁉
娘は私に言いました。
「うん、知ってるよ。きっとそう思ってると思ってた。だから死にたいなら死んでもいいよ」
言ってもらった私のほうがびっくりしてしまいました。「え? 死んでもいい? そこは死なないでって言うところじゃないのか?」と思ったんですが、死んでもいいという選択肢を与えてもらったら、私は一体、何にこんなに落ち込んでるんだろう。と思いました。娘は続けて、
「きっと死んだほうが楽なくらい、ママが苦労してしんどうの知ってるから。死んでもいいいよ。でも私にとってママはママだから。歩いてても歩いてなくてもママはままで、変わらず私を支えてくれてるから、私にとったら何にも変わらない。だから大丈夫大丈夫、2億%大丈夫だから」
と言ってくれました。
「2億%大丈夫」というような、聞いたこともない確立に「じゃあ、娘を一回信じてみよう」と思いました。もう、歩けててもあるけてなくてもどうでもいいやと思いました。
・結婚生活が15年になろうとした頃、夫は心筋梗塞である日突然にこの世を去りました。
夫が亡くなった当時、娘の奈美は中学2年生、息子の良太は小学4年生、子育て真っ最中で、まだまだお金がかかる時期でした。
一家の大黒柱を失った我が家でこれから私が働いて子どもたちを、そして家計を支えなければいけなくなりました。とはいっても、結婚してから15年間、一度も外で働いたことのない私にいった何ができるのか、全く分かりませんでした。
・もともとよく相談事をされるほうではありましたが、歩けなくなってからはそれに拍車がかかったかのようでした。・・・
目の前にいる人の話を聴くこと、一緒に悲しいと思うこと、一緒に嬉しいと思うこと、大丈夫とそっと背中を押すこと、私にできることはただそれだけでした。・・・
重たい相談を受けるようになった時、ふと思いました。
私はこうやって相談を受けているけど、果たしてこんな対応でいいのだろうか。もし間違っていたら・・・と思いはじめました。
そして、せっかくの有り余る時間で心理学の勉強をしようと、本を読みあさったり病室にパソコンを持ち込んでセラピーやカウンセリングの手法を調べ始めました。
そこで見つけた夢が、セラピストになることでした。
セラピストになりたいと思った瞬間、未来は絶望しかないと思い込んでいた私の暗闇にキラキラ眩しい一筋の光が差し込んだような衝撃を感じました。・・・
そうして退院から半年が過ぎた頃、再び整骨院の仕事(受付・案内など)にも復帰することができました。
復帰と同時に、毎週、大阪まで自分で車を運転して、念願だった「ハコミセラピー」というセラピーの手法を習得するために教室にかよいはじめ、カリキュラムを修了させました。
歩けなくなって自由に体を動かせなくなった私は、以前のように整体はできなくなりましたが、整体ではなく、「聴く」というセラピーで患者さんと向き合えるようになりました。
・勤めていた整骨院で、整体のかわりにセラピーを始めてまる一年が経った頃、セラピーの恩師からこんなことを言われました。
「一対一で目の前にいる人にメッセージを伝えるセラピーもいいけど、これまでに経験してきたことを大勢の人に伝えるのも、岸田さんの使命だと思うんだけどな」
・「大勢の人の前で私のことを話してみようと思うんだけど、どう思う?」
軽い気持ちで娘、奈美に相談しました。
「いいねー! すぐやろうよ」
そう言って娘は次の日に、私が話す舞台を見つけてきました。・・・
そして本番(5分間)はというと・・・案の定、大失敗をしてしまいました。・・・
「ママがもう一度、話せる場所を見つけるから、その時のために準備しておいてね」
と娘は言ってくれました。
当時、娘の奈美は大学2年生。2歳年上の先輩たちと一緒にミライロという会社を立ち上げていました。・・・
大失敗の初登壇から数か月後、ミライロが千葉県のとあるレジャー施設で研修をするから、そこで話してくれないかと、奈美に言われました。
スタッフに向けて、障害のあるお客様への向き合い方や接客方法を教えるという研修。私が車椅子ユーザーになってからの日常生活や、困りごと、してもらって嬉しかったことなどを話す役割でした。
今度は15分。・・・
人前で話せたことの嬉しさと達成感、喜んでもらえたことへの心が躍るような気持は今でも鮮明に覚えています。歩けなくなったこと、車椅子にのっていることがなぜか誇らしく思えた、初めての経験でした。
大勢の人の前で話すという挑戦が実現した日でもありました。
「ママに仕事をつくったからね! ミライロで一緒に働こう!」
この千葉での研修ががきっかけで、私は娘に誘われ株式会ミライロに入社することになりました。・・・
やがて企業から行政、教育機関までありとあらゆるところ、全国各地で、研修にくわえて、私の人生についての講演まで機会をいただけるようになりました。最初はたったの15分から始まった研修、講演が、長いものでは2時間、年間180回以上も行えるようになりました。
・気持ちは変えられなくても、行動を変えることはそんなに難しくありません。私の
”良いコト”と”良いヒト”を引き寄せる秘訣は、オシャレをすることなのです。
”良いコト”と”良いヒト”を引き寄せる秘訣は、オシャレをすることなのです。
・自信とは自分を信頼することから生まれるもの―――「自分でつけるもの」なのでした。
・2021年、26歳になった良太。
良太には生まれつきダウン症という染色体の異常があり、重度の知的障害があります。特別支援学校高等部を卒業した後、作業者(就労継続支援B型)に通っています。
・保健師さんがやってきて私を励ましてくれました。
「障害のあるお子さんは、ちゃんと育てることができるお母さんを選んで生まれてくるんです。だから岸田さんは選ばれたのです心配しなくて大丈夫ですよ」
よかれと思ってかけてくれたこの言葉に、私はとても苦しくなりました。
私は大丈夫なんかじゃない。
まだ障害のある良太のことを受け入れることもできないダメな母親なのに。
育てられないって思っているのに、
これからどうすればいいのか、どうやっていくのかなんて全くわからないのに。
・それまで何も言わなかった夫がこう言いました。
「そんなに辛いなら育てなくていい。施設に預けることもできる。絶対にママが育てないといけないなんて考えなくていいから」
想像もしていなかった夫の言葉でした。
「僕はママが一番大事やから。ママが死にたいほど辛いことはしなくていい」
最初は唖然としましたが、夫の一言が私の気持ちをフッと軽くしてくれました。
・心理学を学ぶようになってあらためて知ったことなのですが、人は先行きの見えない未来のことを考えるとき、とてもストレスが溜まります。心まで病んでしまわないために、大切なのは、先ではなく、今この瞬間だけを見つめて、ぼうっとすることです。
・幼い良太と過ごすなかで、一緒に得た心得があります。それは、おもしろいとか、かわいいとか、とにかく人から一目置かれる存在になると、毎日楽しく安心して過ごせるということ。
・(普通学級に入れたかったのは)良太がかわいそうだからではありません。障害があることを認めたくないからではありません。障害がない友達と一緒にやっていくためのルールを、良太に学んでほしかったんです。
・人との違いを嘆くのではなく、違ってもこれでいいと良太が思えるような環境を作ることが、私たちが試練を幸福に変えてゆく秘訣だったのです。
・職場や学校のみならず障害者を見かけた時、困っているようだけど、どう接していいかわからないという場合もあるでしょう。そんな時も「大丈夫ですか?」ではなく「お手伝いしましょうか」と声をかけてください。
・「障害者差別解消法」を身近に感じていただくためのエピソード
良太が小学1年生の時、スイミングスクールに通わせたいと考えました。
1軒め;
「こちらでは障害のあるお子さんを受け入れることはできません。すいません」
2件め;
「こちらでは前例がないためすぐにお返事ができません。息子さんについていくつか質問していいですか? スタッフと検討してからお返事させてください」
断られるのではなく、いったん考えてくれることに。後日、電話がかかってきました。
「お受けしたいのですが、今、対応できるスタッフがいません。安全を確保できないので、残念ですが今回はお断りさせていただきます」
結果はダメでした。断られたのですが、なぜか私の気持ちは1件めとは全く違う感覚でした。悲しいどころか少し嬉しかったのです。なぜなら、障害があるからダメではなく、良太のことを知ろうとしてくれて、受け入れることを検討してくれたからです。
3件め;
「わかりました! お電話だけでは判断できないので、一度、体験クラスに来てみませんか?」
一瞬、耳を疑いました。ダメではなく、体験クラスに行ってもいい? もうそれだけすごく嬉しかったです。体験クラスに参加した結果、見事に合格!
「何も問題はないので、お受けできます」
・アンパンマンがばいきんまんに絶対に言わないセリフって知っていますか? それは
「おまえは悪い奴だ!!」。いつも言うセリフは、「悪いことをしたな!!」なのです。はいきんまんの人格を否定するのではなく、悪いことをしたという行動を否定しているのです。
・私たち家族が大切にしてきたことは2つ。
人との違いを尊重すること。
苦手なことではなく、得意なことを伸ばすこと。
・インドのことわざ
「間違えて乗った電車が時には目的地に連れていってくれる」
・13年前に大動脈解離を起こし、手術をした私の心臓にばい菌が入り、増殖しているというのです。病名は「感染性心内膜炎」
人生2度目となる心臓手術が必要になりました。(2021年)
感想;
ロゴセラピーでは「人生の方から問いかけてくる『さあどうしますか?』。それにどうこたえるか。それにこたえて生きていくと新しい価値、意味ある人生を生みだす」と考えます。
人生からの問いかけ(岸田ひろ実さん1968年生まれ)
1)ダウン症で知的障害のある長男の誕生(27歳)
2)夫の突然の死(37歳)娘の奈美は中学2年生、息子の良太は小学4年生
3)動脈性乖離(40歳)車椅子生活
4)二度目の心臓手術(52歳)
岸田ひろ実さんは、まさに人生からの問いかけにこたえることで、思いもかけない意味ある人生を送られているように思いました。
そして同じような境遇で困難に陥っている人に希望の力を与えておられるのでしょう。先駆者があれば勇気づけられます。
そしてそれは違う境遇で困難に陥っている人にも希望の光を照らしてくれていると思います。
「障害のあるお子さんは、ちゃんと育てることができるお母さんを選んで生まれてくるんです。だから岸田さんは選ばれたのです心配しなくて大丈夫ですよ」
この言葉、”心配しなくて大丈夫”ではなく、
「『神さまは障害のあるお子さんを、育てることができるお母さんを選んでいる』という考えもあります。それを信じて行うと、願っていたこととは違うかもしれませんが、思いがけない違う喜びを味わうことができ、神様からの使命を果たせるのだと思います」と伝えたらどうだったかなと思いました。
心配と不安はなくならないと思います。
まさにインドのことわざです。
「間違えて乗った電車が時には目的地に連れていってくれる」
間違えて乗ったのではないですが、どの電車に乗るかは神様が決めています。
神様が”私を選んで”使命を果たすようにと考えたら、今の境遇は違って見えるかもしれません。
マザー・テレサさんでさえ神様に祈っていました。
「神さま 私が大きなことができると思わないでください」
祈りながら、目の前のことを一つひとつ行い、そして大きなことをされました。
マザー・テレサは心配や不安を神様に預けていたのでしょう。
神様を信じておられたからだと思います。
じゃ神様を信じていない人はどうすれば良いか?
希望を信じても良いですし、あるいは困難なときに神様を信じても良いのではないでしょうか。敬虔な方から叱られそうですが。
岸田ひろ実さんからの言葉は実際に体験されてきただけに、同じ言葉でも重く、深く伝わってくるのではないでしょうか。