・『新編 新しい国語』
石(いは)そそく垂水(たるみ)の上のさわらびのもえいづる春になりにけるかも
『中学国語』
石(いは)ばしる垂水(たるみ)の上のさわらびの萌(も)え出(い)づる春になりにけるかも
・漢字ばかりで記された歌集、万葉集の実際の姿を想像してみよう。
西本願寺本万葉集
石激垂見之上乃左和良砒乃 毛要出春爾成來鴨
という漢字二十のつらなりから、それで書き写されたはずの古代日本語の歌を、最初の読者は読みとった。
・日本語の音を示す表音の方法。もう一つは、漢字のもつ意味によって、それに相当する日本語を直接、間接にさし示す表意の方法である。
・歌の初句の「石激」は「いはそそく」の和語を記すべき表記にふさわしい。
では、賀茂真淵は、なぜ「いはそそく」の読み方を拒否したのだろうか。
江戸時代の人々に、漢字の「激」を「そそく」と読む常識が失われていたことが、その第一の理由としてあげられるだろう。
・私たちの多くが教室で出会った「いはばしる」の歌は、江戸時代の知識と感覚に合わせて改変された万葉歌であった。万葉集の歌は、それを愛する人たちによって、その時代の色に染められたのである。
・わらびの萌えだす季節は、今も昔も、晩春から初夏にかけてである。
「いはそそく垂水の上のさわらびの・・・」がその自説の歌であったことに疑いない。
・「万葉集」という書名がどんな意味であるか、これもよく分からない。
仙覚「万葉集注解」は「万葉」とは「ヨロヅノコトノハシ義也」、つまり、沢山の言葉の意味だと述べたが、契沖「万葉代匠記」は、「葉」の字が「世」の義となり、漢籍に「万葉」を万世」の意に用いる多くの例があることから、「万葉集」とは、万葉すなわち万世まで伝わり、ながく世の教えともなれという祈りをこめた署名とする別解を示した。
・現在、万葉集の歌の時期を四つに分けて考えることが行われている。
第一期は、伝誦の古歌の時代から、舒明天皇(のちの斉明天皇)と、その皇后であった皇極天皇の御世を経て、天智天皇の子の大友皇子と天皇の弟の大海人皇子(天武天皇)とが争った壬申の乱にいたるまでの長い期間である。
第二期は、乱の勝者の天武によって都が飛鳥にもどされ、それが天武の皇后の持統天皇により藤原にうつされ、さらに元明天皇により平城に遷都される和銅三年(710)までの約40年間である。「さわらび」の歌の志貴皇子、あるいは柿本人麻呂がこの時期に活躍した歌人である。
第三期は、平城遷都から、この期の代表的作家の山上憶良が亡くなったとされる天平五年(733)までの20年あまりである。筑前の守憶良と大宰帥大伴旅人を中心として、高い教養にもとづく、ということは中国文学、仏教思想の影響の色こい作品が生まれた時期である。
最後の第四期は、旅人の子の大友家持、その叔母の坂上郎女らが歌を多作した時期である。
・詩人ハ酒ヲ愛シ、歌人ハ色ヲ愛ス、コレ和漢ノ大体歟
詩人は、酒をくみかわして男どうしの友情を語ることが多い。それに対して、歌人は、万葉の人たちをはじめとして、男女の恋ごころをくりかえし詠った。歌と色恋とは切っても切れない関係にあった。
・万葉の人々が愛読した恋愛小説『遊仙窟』
・万葉集の歌には、喜びも悲しみもある。もとより悲しみをうたう歌が多く、恋の歌がそのなかば以上を占める。家の妻子や父母をひたすらに思う旅人の作があり、夫や妻や子の死をなげく挽歌も少なくない。それらは、言わば、人として避けようのない深い悲しみをうたうものであった。しかし、そのいっぽう、春や秋の訪れを心わきたつ思いで喜び、花や黄葉をめで、また大笑いのうちに楽しんだ歌もある。
それらのすべてを含んで、万葉集の歌には、人が一生のうちに味わうべき喜怒哀楽のほとんどが、うぶなさまに、しかしゆるびのないかたちで、示されている。
人麻呂が洞察したように、人の心が昔も今も、また後の世までずっと変わらないものなら、万葉の人びとの喜びと悲しみは、私たちの喜びと悲しみにほかならないだろう。
万葉集に出会うとき、私たちは、私たちの心に出会うのではないか・・・。
感想;
万葉集は漢字で表記されている歌集だということを忘れていました。
そのために当時の日本語の読み方と今の読み方は必ずしも一致していないようです。
”いはばしる”で学びましたが、当時は”いはそそぐ”と読まれていた可能性が大きいようです。
万葉集で思い出すのは、犬養 孝先生でした。
万葉集の特別講演があり、そこで先生が高らかに万葉集を詠まれました。
とても素晴らしく、感動しました。
仕事で勇気づけられた歌
「岩もあり 木の根もあれど さらさらと たださらさらと 水の流るる」 甲斐和里子作
「見る人の 心ごころに 任せおき 高嶺に澄める 秋の夜の月」 新渡戸稲造の愛していた古歌
「明日ありと 思う心の あだ桜 夜半に嵐の 吹かぬものかは」親鸞が9歳の出家の時に詠んだ歌
「憂きことの なおこの上に 積もれかし 限りある身の 力ためさん」 熊沢番山作
問題を抱えた時、これらの歌に力をもらいました。
石(いは)そそく垂水(たるみ)の上のさわらびのもえいづる春になりにけるかも
『中学国語』
石(いは)ばしる垂水(たるみ)の上のさわらびの萌(も)え出(い)づる春になりにけるかも
・漢字ばかりで記された歌集、万葉集の実際の姿を想像してみよう。
西本願寺本万葉集
石激垂見之上乃左和良砒乃 毛要出春爾成來鴨
という漢字二十のつらなりから、それで書き写されたはずの古代日本語の歌を、最初の読者は読みとった。
・日本語の音を示す表音の方法。もう一つは、漢字のもつ意味によって、それに相当する日本語を直接、間接にさし示す表意の方法である。
・歌の初句の「石激」は「いはそそく」の和語を記すべき表記にふさわしい。
では、賀茂真淵は、なぜ「いはそそく」の読み方を拒否したのだろうか。
江戸時代の人々に、漢字の「激」を「そそく」と読む常識が失われていたことが、その第一の理由としてあげられるだろう。
・私たちの多くが教室で出会った「いはばしる」の歌は、江戸時代の知識と感覚に合わせて改変された万葉歌であった。万葉集の歌は、それを愛する人たちによって、その時代の色に染められたのである。
・わらびの萌えだす季節は、今も昔も、晩春から初夏にかけてである。
「いはそそく垂水の上のさわらびの・・・」がその自説の歌であったことに疑いない。
・「万葉集」という書名がどんな意味であるか、これもよく分からない。
仙覚「万葉集注解」は「万葉」とは「ヨロヅノコトノハシ義也」、つまり、沢山の言葉の意味だと述べたが、契沖「万葉代匠記」は、「葉」の字が「世」の義となり、漢籍に「万葉」を万世」の意に用いる多くの例があることから、「万葉集」とは、万葉すなわち万世まで伝わり、ながく世の教えともなれという祈りをこめた署名とする別解を示した。
・現在、万葉集の歌の時期を四つに分けて考えることが行われている。
第一期は、伝誦の古歌の時代から、舒明天皇(のちの斉明天皇)と、その皇后であった皇極天皇の御世を経て、天智天皇の子の大友皇子と天皇の弟の大海人皇子(天武天皇)とが争った壬申の乱にいたるまでの長い期間である。
第二期は、乱の勝者の天武によって都が飛鳥にもどされ、それが天武の皇后の持統天皇により藤原にうつされ、さらに元明天皇により平城に遷都される和銅三年(710)までの約40年間である。「さわらび」の歌の志貴皇子、あるいは柿本人麻呂がこの時期に活躍した歌人である。
第三期は、平城遷都から、この期の代表的作家の山上憶良が亡くなったとされる天平五年(733)までの20年あまりである。筑前の守憶良と大宰帥大伴旅人を中心として、高い教養にもとづく、ということは中国文学、仏教思想の影響の色こい作品が生まれた時期である。
最後の第四期は、旅人の子の大友家持、その叔母の坂上郎女らが歌を多作した時期である。
・詩人ハ酒ヲ愛シ、歌人ハ色ヲ愛ス、コレ和漢ノ大体歟
詩人は、酒をくみかわして男どうしの友情を語ることが多い。それに対して、歌人は、万葉の人たちをはじめとして、男女の恋ごころをくりかえし詠った。歌と色恋とは切っても切れない関係にあった。
・万葉の人々が愛読した恋愛小説『遊仙窟』
・万葉集の歌には、喜びも悲しみもある。もとより悲しみをうたう歌が多く、恋の歌がそのなかば以上を占める。家の妻子や父母をひたすらに思う旅人の作があり、夫や妻や子の死をなげく挽歌も少なくない。それらは、言わば、人として避けようのない深い悲しみをうたうものであった。しかし、そのいっぽう、春や秋の訪れを心わきたつ思いで喜び、花や黄葉をめで、また大笑いのうちに楽しんだ歌もある。
それらのすべてを含んで、万葉集の歌には、人が一生のうちに味わうべき喜怒哀楽のほとんどが、うぶなさまに、しかしゆるびのないかたちで、示されている。
人麻呂が洞察したように、人の心が昔も今も、また後の世までずっと変わらないものなら、万葉の人びとの喜びと悲しみは、私たちの喜びと悲しみにほかならないだろう。
万葉集に出会うとき、私たちは、私たちの心に出会うのではないか・・・。
感想;
万葉集は漢字で表記されている歌集だということを忘れていました。
そのために当時の日本語の読み方と今の読み方は必ずしも一致していないようです。
”いはばしる”で学びましたが、当時は”いはそそぐ”と読まれていた可能性が大きいようです。
万葉集で思い出すのは、犬養 孝先生でした。
万葉集の特別講演があり、そこで先生が高らかに万葉集を詠まれました。
とても素晴らしく、感動しました。
仕事で勇気づけられた歌
「岩もあり 木の根もあれど さらさらと たださらさらと 水の流るる」 甲斐和里子作
「見る人の 心ごころに 任せおき 高嶺に澄める 秋の夜の月」 新渡戸稲造の愛していた古歌
「明日ありと 思う心の あだ桜 夜半に嵐の 吹かぬものかは」親鸞が9歳の出家の時に詠んだ歌
「憂きことの なおこの上に 積もれかし 限りある身の 力ためさん」 熊沢番山作
問題を抱えた時、これらの歌に力をもらいました。
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