幸せに生きる(笑顔のレシピ) & ロゴセラピー 

幸せに生きるには幸せな考え方をすること 笑顔のレシピは自分が創ることだと思います。笑顔が周りを幸せにし自分も幸せに!

落し物が見つかる 日本社会の良さ

2016-01-11 17:22:28 | 社会
大阪に一泊で仕事に行って来ました。
大宮に戻りお金を払おうと思ってポケットを探ったら小銭入れがありません。

上着のポケットなどみてもありません。
どこで落としたのだろう?
きっと財布を出す時に小銭入れを落としてしまったのだと推測しました。
ではどこで?
いろいろ可能性を考えると、以下の可能性が考えられました。
1)コンビニで
2)ホテルで
3)新大阪駅構内のお土産さんで
4)新幹線の中で

そこでまずは新幹線の中での落し物窓口に連絡しようと思って、大宮駅の忘れ物窓口に行きました。
JR東はJR東海の落し物とは情報を連携していないので、直接JR東海に連絡して欲しいとのことでした。

JR東海の忘れ物窓口に連絡しました。幸い乗った車両の座席番号を覚えていたので伝えました。
忘れ物は届いていないとのことで、もし見つかった場合の連絡先を伝えました。
かつJR東海に在来線のお土産店での落し物はここに来るのか尋ねたところ、JR西日本に届けられる場合もあるのでそちらにも電話されるとよいとアドバイスを貰い、JR西日本に連絡しました。そのような落し物は来ていませんとのことでした。

ホテルに電話しましたが、忘れ物はありませんとのことでした。忘れ物があれば連絡先がわかっているのできっと連絡をくれるはずと期待はしていませんでした。それよりも、ホテルのすぐ近くのコンビニ名がわからないので、コンビニ店の連絡先を教えてもらえないかお願いしてみました。ありがたいことに電話に出られた方は調べて教えてくださりました。

コンビニ店に電話しましたが、落し物はなかったとのことでした。年のために連絡先を伝えました。

連絡がないのでもう見つからないかなと諦めていました。
落としてから二日目の朝にJR東海から落し物が届いているとの連絡がありました。
新幹線の中で見つかったとのことでした。
もう諦めていた時だったので、とても嬉しく思いました。

日本は落し物が届く国だと、外国人には驚かれます。
この良さは守りたいなと思いました。
先日、小田急で前の方が切符を落とされたように見えました。
離れていたのでどうしようかと迷った末に、その方に伝えました。
その方の切符でした。
今回は、その新設が回り回って私に帰って来たように感じました。











阿川佐和子さん 「サワコの朝 長嶋茂雄さん」 ”次はチャンス!”

2016-01-09 08:11:44 | 生き方/考え方

国民的スーパースター。読売巨人終身名誉監督。野球を始めたのは小学校4年生。将来野球選手になって母親を安心させたかった。38歳で引退。68歳の時に脳梗塞で倒れた。リハビリで復活。
いかなる逆境でも立ち向かう勇気を貰う秘訣を尋ねる。

来月で80歳。心境は? (その年齢だからと言って)わからない感情。
一曲目「野球小僧」 歌手 灰田勝彦さん 立教大出身。
長嶋さんが生歌(野球小僧)を披露(上手い!)

小学校4年で野球を始めた。戦争が4年生の時に終わった。小さい時からスポーツが好きだった。他にやることがなかった。道具がなかった。自分たちで作った。バットは竹。タイガースの藤村選手に憧れていた。藤村選手のバットは長く、物干しざおを呼ばれていた。試合を見に行き藤村選手の攻守に見とれていた。ジャイアンツが好きだったが藤村選手は特別だった。

長嶋さんの伝説のエピソードから。
プロ野球の開幕戦。金田選手は4打数4三振。中学、高校、大学のデビューの最初の打席は全て三振。前向きに考える。次はチャンス。ダメでも次はチャンスが来ると信じる。

寝るときは必ずベットにバットを置いていた。天才肌だからと言われていた。そのイメージがある。人の前では練習しなかった。練習は人に見せるものでなく自分と向き合うもの。練習していないとの陰口をたたく人もいた。チームが勝つだけをかんがえた。気の合わない人はほとんどない。喧嘩した人はほとんどいない。ただ、バットを持たずに打席に立ったことがあった。何度も敬遠されたので怒ってそうした。
ファンあってこそのプロ野球。そのために優しいゴロを難しそうに捕る。時には失敗したことがある。走攻守で守るが好きだった。フライは嫌い。他の内野手のゴロまで取っていた。

もうダメだと言う時にサヨナラホームラン。たまたまです。たまなんですね。笑
逆境でも“やるからには勝つ”。最後まであきらめない。反省するのは試合が終わってから。
王貞治さんはホームランバッター。ホームランが出ると、自分が打つ時にランナーがいない。王さんははっきりと言う人だった。スーパースターであるが故の重圧は?やはりチームのため。

監督をして脳梗塞で倒れたのが12年前。今でもリハビリをやっていた。最初はどうしたらよいかと思った。何とかしようと。“動かない体に勝つんだ”と。リハビリの様子を紹介。
リハビリという過酷なトレーニング。現役時代よりハード。なにくそとか思わない。さぼろうと思わない。ほんの少しでも回復するのが楽しみ。初めは人に逢うのが恥ずかしいかった。人にどんどん逢った方が気持ちが強くなる。前向きに毎日リハビリに励む。少しずつよくなる。嫌になることはない。

二曲目「男なら」 親友だった高倉健さんの歌。男が見ても、男はこうでないとならないと。
もうこんな男いない。2016年 己に勝つこと。高橋由伸監督。 自分の気持ちを出して欲しい。

(患者を生きる:2963)がん おひとりさま:4 「さいごまで自分らしく」 "ブログで繋がる”

2016-01-08 14:41:52 | 生き方/考え方
http://digital.asahi.com/articles/DA3S12148938.html?rm=1502016年1月8日

 乳がんに続いて、子宮体がんが新たに見つかり、手術を受けた東京都杉並区に住む会社員の女性(49)は2012年8月下旬、抗がん剤治療を受け始めた。9月からは会社勤めも再開した。

 抗がん剤の影響で、全身の倦怠(けんたい)感やしびれのほか、食べ物の味がしないなどのさまざまな副作用に襲われたが、「クビにならないように」と仕事をするのに必死だった。「がんになっても働けると証明してやる」という思いもある。その一方で、働けることへのありがたさも感じていた。

 12年11月。抗がん剤治療の4回目は、特に副作用がひどく、冷蔵庫から水を取り出すのさえ難しい日があった。ほとんど飲まず食わずで寝て過ごす日々。会社も10日間ほど休まざるを得なかった。

 抗がん剤治療は約4週間の間隔で計6回。治療は翌年1月まで続いた。治療中、「寂しい」とは思わなかったが、病気との闘いは孤独だ。当時はブログを書くことが日課のようになっていた。

 「私はまだ、ブログを通して多くの人に支えられ、働く職場もあって、社会とつながっていると思うので、何とか保っていられる」「どこかでひとりで病気治療にあたっている人の孤独を考えると辛いです」。そう書き込んだこともあった。

 抗がん剤治療をためらっていたとき、「治療はしてください 生きてください」とメッセージを残してくれた人もいた。

 自分の体験や思いを伝えるブログは今も続けている。多くの人が閲覧しているわけではないが、「私の言葉でないと、響かない人がいると思うから続けている」と言う。

 抗がん剤治療も無事に終え、現在は乳がんの再発防止の薬を飲み続けている。検査などのため、3カ月に1度は病院に通う。

 今やおひとりさまでがんになることは、決して特別ではない。

 二つのがんを経験し、お金や生活で困ったことはあった。でも、病気になったのは自分のせいでも誰のせいでもない。「これは自分が歩んできた道なんだ」と受け止めている。

 そして、今はこう思う。「さいごまで自分らしく生き切るんだ」(田内康介)

感想
ブログでの人との繋がりが支えになったと思います。
ネットでは誹謗中傷があるかと思えば、人が人を支えることもあります。
働くことはしんどい面もありますが、社会とと繋がっている、社会に貢献している場でもあります。
働けなくなった時、働けることのありがたさを感じます。

病気も同じで、病気になった時、健康な時のありがたさを感じます。
がんになり、死ぬかもしれないと思うと、生きていることがありがたく感じます。
自分らしく生きるとは、「自ら誇りを持ち続けて生きる」ことのように思います。

(患者を生きる:2962)がん おひとりさま:3 入院の保証人、自ら代筆 ”一人で生きる不便さ”

2016-01-08 14:40:54 | 生き方/考え方
http://digital.asahi.com/articles/DA3S12147326.html?rm=150 2016年1月7日


 乳がんの手術を経験した東京都杉並区の女性(49)は2012年7月上旬、検査で新たに子宮体がんであることがわかった。働きながら一人暮らしをしてきたが、「また会社を辞めなくてはならないかも」と不安を感じていた。

 しかし、6月に就職した会社の上司(38)は「体調をみながら、復帰できる時に復帰してくれればいい」と病気に理解を示してくれた。

 「がんであっても体調さえ戻れば仕事で成果を出してくれる」。上司はそう期待してくれた。

 自分には戻る会社がある――。そのことが大きな励みになった。

 7月下旬。子宮や卵巣を摘出する手術を受けた。体を起こそうとすると、手術した部位の周辺が痛む。病室のベッドは背中の角度を手動で変えるタイプ。起き上がらせてくれたり、元に戻してくれたりする付き添いはいない。看護師に頼むにも気が引けた。

 ベッドに体を起こしたまま、ぽつんと座っていることもあった。「お手伝いさんがいればなあ」。そんなことを思った。

 8月中旬、手術中に採った組織の病理検査結果を聞く日がきた。JR東京総合病院の主治医、北條智さん(52)からは「家族の人に来てもらってください」と言われた。石川県にいる妹(47)や弟(43)は都合がつかなかった。仕方なく、1人で結果を聞いた。

 がんは子宮頸部(けいぶ)などに広がっていた。がんの進行の度合いは、当時の基準でステージ3。北條さんには「術後の補充療法として抗がん剤を用いた化学療法をお勧めします」と言われた。仕事を休まざるを得ない状態になる可能性があることも伝えられた。

 女性はいったん治療を断った。「治療費がかかるうえ、仕事もできなければ、どうやって生きていくのか」。そんな思いからだ。それでも、会社の上司は仕事の継続を認め、「つらくなったら休んでもいい」と言ってくれた。悩んだ末、抗がん剤治療を受ける決心をした。

 ただ、抗がん剤治療のための入院で保証人の署名が必要だった。

 石川県にいる妹たちに書いてもらうのも大変だ。病院の近くで、妹の姓と同じ三文判を買った。承諾を得た上で、署名を代筆するしかなかった。(田内康介)

感想
仕事の上司が仕事を優先する人が、人を優先する人かによって対応が異なりますね。
休みが多いと、人を優先する上司でも仕事に支障をきたしますので悩みます。

前にある派遣さんが朝が起きられない方でした。
そのため当日休暇が月に3日~4日ほどや遅れてくることが月にやはり4日~6日ほどありました。
派遣さんなので、これだと理由にしてすぐに派遣契約を解除することができます。
しかし、これだと次の派遣先が見つかるとは思えません。
本人に何度も話し合いしながら、6か月ほど改善を期待しましたが効果なく、やむなくその方の派遣を更新しませんでした。
仕事は早くて意欲が高かったのですが・・・。

ある病院に予約して行きました。
私の前の患者さんと先生の話が聞こえてきます。
手術が必要。手術の保証人として家族のサインが必要。
でもその方は保証人は母親だけで、母親には保証人になって欲しくないと。
病院は保証人のサインがないと手術はできない。
その話で30分以上話されていました。
私の予約時間が30分過ぎています。
先生は、次の予約があるので、それが終わってからまた話しましょうと。
ですので、その後どうなったのかわかりません。

一人の場合、いろいろなところで不便があるのでしょう。
部屋を借りる。保証人が必要になります。
収入がないと保証人にはなるには難しいです。
いずれ収入がなくなります。
これまで山を登って来て、尾根を歩いていましたが、下山になりました。
登る楽しみ、尾根から見る景色の楽しみ、できたら下山の楽しみも見つけたいです。





(患者を生きる:2961)がん おひとりさま:2 就職した矢先、再び告知 ”今どうするか”

2016-01-06 07:57:17 | 生き方/考え方
http://digital.asahi.com/articles/DA3S12145903.html?rm=150 2016年1月6日
乳がんが見つかった東京都杉並区に住む会社員の女性(49)は2012年1月中旬、JR東京総合病院(東京都渋谷区)で乳房を一部切除する手術を受けた。退院日が迫るにつれ、気分が沈んでいった。

 「入院中は食事も出てくる。でも退院したら、治療を考えながら1人で就活する日々が始まるな」

 手術から約1週間後の退院の日。1人で電車に乗って、自宅に帰ると、部屋はひんやりとしていた。寂れた駅に入った時と同じような感覚だった。「昔、一緒に暮らしたおばあちゃんがいてくれたらな」と、ふと思った。

 手術など治療費の一部は民間保険でまかなえた。でも貯金はほとんどなく、生活費を稼ぐ必要がある。すぐに失業手当を申請した。

 2月からは、がんの再発を防ぐため、飲み薬や注射による薬物療法を開始。平日は病院に行き、放射線治療も受けた。だるさや吐き気、めまいなどの副作用に悩まされながらも、都内のハローワークに通った。

 就職先が決まったのは失業保険が切れる間際の3月下旬。都内にある福祉関係の会社だったが、以前に比べて給料は安い。治療費のことも考え、家賃が約2万5千円安い7万円の部屋に引っ越した。

 せっかく就職した会社だったが、上司からある日、「『右腕が上がらないので判子は押せない』では困る」などと責められた。病気に乗じた「パワハラ」と感じたが、約2カ月で退職せざるを得ない状況に追い込まれた。「がん」が原因で退職したのは半年前のこと。「またか……」と落胆した。

 ただ、幸いすぐに次の仕事が見つかった。6月に都内の企業の契約社員になり、若者の就職を支援する仕事に携わることになった。

 その矢先、今度は都内の産婦人科クリニックで、子宮に異常があると指摘され、JR東京総合病院で組織検査を受けた。

 「子宮体がんです。子宮と卵巣、卵管を摘出する必要があります」。産婦人科の北條智(ほうじょうさとし)医師(52)から、そう伝えられ、書類をもとに説明を受けた。

 乳がんに続く、2度目のがん。「入院に加え、退院後も自宅療養が必要」という。短期間で再び仕事に戻れると思っていただけに、ショックは大きかった。(田内康介)

感想
病気になる人、ならない人。多少食事や生活にも関係しますが、いくらそれに注意を払っていても病気になる時はなってしまいます。
煙草を吸い続け、肺がんになる。これは自己責任の部分もありますが、自己責任でない病気もあります。

病気になったら、その状態で一番良い選択肢をすることなのだと思います。
一人ではなかなか良い選択肢を選ぶことが難しい場合があります。そんな時は何人かの意見を貰うとか、信頼できる人に相談するとかして、参考にするのが良いのでしょう。

派遣法がいろいろと改正されていますが、企業にとって都合の良いように変えられているように思えてなりません。3年以上同じところで派遣として働いた場合、企業には採用を検討する義務が生じるようになりました。そのため企業が取っている方法は、3年以上続けて同じ人に働いてもらわないようにになりました。これまで26業種は期限なしで働けました。派遣で働いている人は、3年経過すると新しい職場を探さないといけません。

前に派遣さんに来てもらう時は、できるだけ年配の方をお願いしました。何故なら若い人はすぐに仕事が見つかりやすいですが、歳を取るとなかなか仕事が見つからないようです。
ある年配の人は仕事が見つからなくて、でも働かないといけないとのことで、スーパーのレジの仕事をされていました。こちらが希望する日にはまだその契約が残っていて、2週間後になるとのこと。派遣さんから派遣さんへの引継ぎはできません。その方はぜひ働きたいとのことでしたので、2週間待ちました。意欲のある方でこちらも助かりました。