幸せに生きる(笑顔のレシピ) & ロゴセラピー 

幸せに生きるには幸せな考え方をすること 笑顔のレシピは自分が創ることだと思います。笑顔が周りを幸せにし自分も幸せに!

全日本人が絶句…日本人が全員「強制参加」させられている「ネズミ講」をご存知ですか ”それは年金です”

2023-06-26 17:18:48 | 社会

老後の生活には、いくら必要になるのだろうか。

日本中に激震が走った「老後は2000万円が必要」という金融庁の報告書は、残念なから全くの現実である。

『年金「最終警告」』は、絶対に知っておくべき年金の「嘘と本当」が書かれた必読書だ。

本記事では、〈年金の「真の世代間格差」は「5400万円」という「残酷すぎる現実」〉に引き続き、年金の仕組みについて、くわしくみていく。

※本記事は島澤諭『年金「最終警告」』から抜粋・編集したものです。また、本書は2019年に上梓された本であり、示されているデータは当時のものです。

世代別の勘違い
現在の日本の公的年金制度は、わたしの試算でも、国の試算でも、若い世代には、非常に不公平な制度であることがわかりました。

貰いすぎな高齢者世代からは「自分が払ったお金が戻ってきているだけだから問題ない」との反論の声が聞こえてきそうですし、払い損の若い世代からは「自分たちの老後はどうせ年金は貰えないのだから、保険料を払うだけ損」という嘆き節が聞こえてきそうです。

若者世代はともかく、高齢者世代は、ちょっと勘違いをしているようです。では、どこが勘違いなのでしょうか。それを指摘する前に、公的年金制度の財政方式の違いとその変遷についてみておく必要があります。

積立方式は銀行預金
公的年金制度の財政調達方式には大きく分けて、積立方式と賦課方式とがあります。 積立方式は、自分が支払った年金保険料が、国の口座にそっくりそのまま積み立てられていて、年金受給開始年齢に達すると、自分が払い込んだ保険料の総額に利子が上乗せされて給付される仕組みです。銀行預金のイメージですね。

なお、積立方式では、個人が積み立てたおカネを個人に返すだけなので、世代間での不公平は生じません。

みなさんは、ネズミ講を知っていますか?

ネズミ講は、1人のメンバーが2人以上のメンバーを勧誘して、あとから加入したメンバーが先に加入したメンバーに金銭を支払う組織です。もし、自分が最後のメンバーだとすれば、誰からもお金を受け取れないので、当然、そのネズミ講には加入しません。

つまり、ネズミ講が永続するには、メンバーが無限に増え続けなければなりません。しかし、人口は有限です。ですから、ネズミ講はいつか必ず破綻するのです。日本では、1978年に制定された無限連鎖講の防止に関する法律で、国がネズミ講を禁止しています。実は、賦課方式で営まれる公的年金も本質はこのネズミ講となんら変わるところはないのです。

具体的には、賦課方式は、当該時点の現役世代が負担した保険料が、高齢者世代の年金給付の財源として、そっくりそのまま横流しされる仕組みです。

したがって、この場合、若者人口が増え続けているときは問題ないのですが、若者人口が減り始めますと、より若い世代ほど不利になってしまいます。

日本の公的年金はネズミ講
戦後、日本の公的年金制度が再建されると、戦前と同様に積立方式で開始されました。でも、積立方式は自分が蓄えた保険料に利子がついて返ってくるシステムです。当然、保険料を積み立てていない限り年金は戻ってきません。

つまり、制度発足当初からすでに高齢だった人は、積立金を保有していないので、年金が支給されないことになります。こうした事態を回避するという実務的な理由から、当時の政府は、現役世代が支払った保険料を横流しすることで制度の欠陥を補ったのです。

その後、建前上は積立方式なのに、実際上は賦課方式で運営される修正積立方式によって、公的年金制度が運営されてきました。しかし、少子化、高齢化の進行、経済の低迷の長期化により、現在では計画的に積立金を取り崩す賦課方式で運営されているのです。

このように、現在の日本の公的年金は、賦課方式で運営されています。現役世代が高齢者世代を扶養しているので、国は、「世代間の扶けあい」と呼んでいます。

ただし、賦課方式の本質はネズミ講です。国が法律で禁止しているはずのネズミ講を主宰し、国民に強制参加させているのと同じなのです。
<文・島澤 諭>

感想
 年金がねずみ講式だということは知っていました。
そしていつか破綻することもわかっています。
その時に、国がどうするか?
税金で補うかどうか。

1950年時点では12.1人の生産年齢人口で1.0人の高齢者を支えていたことになる。これが2021年時点では2.1人。さらに2065年の予想人口比率では1.3人にまで減少する。おおよそ4人で3人を支える計算。 

年金は最初たくさん貯まりました。
そこで国はグリーンピアに投資をして、焦げ付かせました。

年金問題は破綻は時間の問題です。
そこで国民年金に入らずに民間の年金に入る人もいます。
つまり自分の貯めたお金で自分の年金を準備するとの積み立て方式です。
ただ、物価が上がると年金が減ります。
それと破綻したとき、国が年金を税金として所得税や消費税から回すと、破綻した分を自分が負担することになります。

今国民全体で1,000万円/一人当りの借金
年金はいずれ破綻
年収平均は450万円

マイナンバーカード登録させるために2~3兆円使っているとか。
アベノマスクに543億円使ったとか。
まあ、税金を無駄遣いしているから、さらに借金増えて、日本は貧困国で、この先どうなるのでしょう?

「アウシュビッツを一人で生き抜いた少年 幸せな子」トーマス・バーゲンソール著 ”10歳でアウシュビッツ収容所に”

2023-06-25 20:40:20 | 本の紹介
・ホロコーストの体験は、人間として、国際法の教授として、人権法律家として、そして国際判事としての私に大きな影響をもたらした。そのときは自分では気がついていなかったとしても、過去の体験が、人権や国際法に私を惹きつけたことは、当然のことだったようにも思える。いずれにしても、過去の体験のおかげで、私はよりよい人権法律家になることができた。それが、たとえ、人権侵害の犠牲者になるということがどういうことかを理性だけでなく感情の面でも理解できるだけだとしても、私には、身体で感じることができるのだ。

・ある日、母がとても興奮した様子で帰ってきた。女友達と一緒に有名な占い師のところに行ってきたと話した。中へ入る前に母は結婚指輪をはずしていたし、母は実際の年齢よりもずっと若く見えたから-そのとき母は27歳だったのだが-占い師はカードをじっと見つめてから、母が既婚で子供が一人いると言い当てたのにはびっくりしたという。占い師は、母の家族のことをよく知っていただけでなく、息子はグリュックスキント、つまり幸運に恵まれた子供であると言った。その子は将来待ち受けているものから、何の傷も追わずに脱することができると。・・・
 そのときはだれにもわからなかったけれど、その後何年もの間、特に離れ離れになっている間、占い師が僕について言ったことが母の希望をつなぐことになったのだ。そのことは、ずっとあとになってわかったのだが。戦後友人だちが、「トミーが生き延びることができたはずがない」と言って、母に探すのをあきらめさせて、それ以上自分を苦しめないように説得しようとしたときでさえ、母は自分には息子が生きていることがわかると言ったのだ。母は何年もあとに、占い師が語ったことはすべて現実になったと言い張った。

・家族みんなでポーランド人に成りすまして、ずっとそれを続けられるとは思えなかったし、家族が離れ離れになることは考えられなかった。僕たちはキエルツェに向かってさらに進むことにした。
 僕たちは、僕たちであるために非難されていたのだから、見通しは明るくなかった。状況がよくなるように願う以外にできることはあまりなかった。その希望を僕たちは失わず、それから何年もの間、その希望が僕たちを支え続けた。

・僕たちは、1944年8月にアウシュビッツに送られるまでの約4年間、キエルツェに住んでいた。「住んでいた」というのはおそらく適当でなく、僕たちは、このくたびれた産業都市のゲットー(ユダヤ人強制移住地区)とふたつの労働収容所に閉じ込められていた。

・僕は司令官を見上げてこう言った。「大尉殿、僕は働けます」。司令官は僕をちょっと見て、「まあ、いずれわかることだ」と言い、僕と父にもといた列に戻るように指図した。
 ウツェクとサレンカはほかの30人ほどの子供たちと一緒に、まず近くの家に閉じ込められ、それから午後遅くになってからユダヤ人墓地に連れていかれてそこで殺されたこととを、あとで知った。兵士たちは、子供たちを殺すのに手榴弾を使ったことをあとから聞いた。

・まもなく、僕も仕事を見つけた。両親は、ドイツ人の司令官は僕が働けると言ったため殺さなかったのだから、いつか彼がヘンリクフに視察に来て僕のことを聞くのではないかと恐れていた。

・僕たちの乗って列車がアウシュビッツ強制収容所の近くに着いたのは、1944年8月初めの、よく晴れた朝だった。あとでわかったのだが、そのとき僕たちはアウシュビッツから3,4km離れたところにあるビルケナウに向かっていたのだ。ガス室や火葬場が作られ、何百万人もの人が死んだのはこのビルケナウであった。

・男性は一方に、女性は反対側に整列するように命じられた。母とはここで別れ、数か月後にちらっと見かけた以外、2年半あとの1946年12月29日に再開するまで会うことはなかった。

・こうして僕には新しい名前ができた。B2930という名前が。・・・今でも左腕に残っている(入れ墨)。

・シュピゲールは自分が生きながらえるために、仲間のユダヤ人をゲシュタポに密告した。カポたちはナチス親衛隊の代理に成り下がり、仲間の被収容者の死を早めていると知っていながら、彼らを殴り、疲れ果てるまで働かせ、食事の配給を奪い取っていた。自分自身が生き残れる可能性を高めるために、強制収容所は密告者にもカポにもならない者の倫理を試す場所であっただけでなく、残酷な者ほど生き残れる実験室でもあったのである。

・父は定期的な選抜がどのように行われるかを見ていて子供が一番危ないということを知り、僕はできるだけ後ろのほうに、バラックの入り口の近くに立つようにした。点呼が終わって、選抜が行われそうな気配がみられたら、バラックにこっそり入って、そこに隠れるようにした。この方法で僕は何度も救われた。

・アウスビッツの空気は、火葬場の煙突から出る煙のせいでいつも悪臭が漂っていた。匂いも煙も、ビルケナウに新しく人々が運ばれて来たときが一番ひどかった。駅のプラットホームで行われる最初の選抜で落ちた人々がそのままガス室に送り込まれたからだ。夜に火葬場が稼働しているときは、その上の空が赤茶色になった。

・アウシュビッツ死の行進
「僕があきらめたら、「やつらが勝つ」と自分に言い続けた。僕にとって、生き続けることこそ、ヒトラーやナチス親衛隊、そしてナチの殺人機構を相手に戦うゲームだった。

・僕も、あと一日か二日のうちに死んで貨車から投げ捨てられるだろうと思い始めたころ奇蹟が怒った。列車が、何度も止まりながらチェコスロバキアをゆっくりと進むうちに、線路の上にかかる橋の上に大人や子供たちが立っているのが見えるようになった。彼らは僕たちに手を振って、大きな声で何かを言い、それから、パンがいくつも貨車に落ちてきた。・・・もしもチェコのパンがなかったら、僕たちは生き延びなかっただろう。

・医者は足の指を2本しか切断しなかったけれど、両足の他の指も、それほどひどくはないものの凍傷にかかっていた。その後数週間、彼らは他の指を救おうと頑張ってくれた。

・手術を受けてまもなく、ほかの患者を見舞いに来ていたある男性が、僕のベッドの横で立ち止まった。・・・彼はノルウェー一で、オッド・ナンセンという名前で、やはりノルウェー人の友人がこの病棟の、僕の近くのベッドにいるということだった。ナンセンさんは、数日後にまた来て、クッキーと大きな字の書かれた絵本と、鉛筆をくれた、「字を読むこと、書くこと、絵を描くことを覚えないと」と、彼は行った。それ以来、尋ねてくるたびに食べ物、たいていはお菓子を持ってきてくれた。・・・ときどき、ナンセンさんは、病棟の看護兵に何か(たいてタバコの葉か巻タバコ)を渡して、僕の面倒をよくみるようにと言っていた。

・ずっとあとになってから気づいたことだが、おそらくナンセンさんは命を救ってくれたのだ。バラックの看護兵に紙タバコや葉タバコを賄賂として渡して「末期の病気」の患者のリストに僕の名前が載らないようにしてくれていたのだ。

・そのうち、ナチス親衛隊の警備兵たちは、収容所だけが連合軍の空襲を逃れられる場所だと気がついた。そして、オラニエンブルグで空襲警報が鳴ると、警備兵たちの家族が収容所にやって来るという話だった。

・ユダヤ人孤児院は僕にとって、ひとつの人生からもうひとつの人生への中間点になった。

・孤児院の子供たちのほとんどは、戦争中ポーランドの家庭や修道院にかくまわれていた。その間、ものすごくひどい状況の中で生活していた子供もいた。同い年で親友になったタマラという女の子は、二年間ある家の天井の低い屋根裏に隠れていたが、その屋根裏の部屋は狭くて、歩くことも、立ち上がることさえできなかった。解放されたときには、彼女の足はひどく変形してしまっていた。

・院長先生が手紙を振りかざしながら部屋から走り出してきた。その手紙を見ると、すぐに間違いなく母の書いた字だと分かった。手紙は「私の大事なトミー君へ」と始まっていた。まさにそのとき、その場所で、母が生きていることがわかった。「お母さんが生きている!」。僕は何度も何度も自分にそう言った。それは、人生で一番幸せな瞬間だった。

・僕は飛び降りて母のところに走っていった。・・・「パパは?」と、僕はようやく聞いた。母はすぐに答えず、ただ頬に涙を流しながら、首を横に振るだけだった。その瞬間、僕には父が線背負うと生き延びなかったのだとわかった。僕と母にとって、戦争はようやく終わった。

・もちろん僕は、ムティ(母)がどうやって僕をオトフォッツクで見つけたのかを知りたかった。
どうやら、孤児院の指導員のローラは、言ったとおりに、僕をパレスチナへの移住を望んでいる子供のリストに載せてくれたらしい。このリストが、パレスチナのユダヤ人機関に送られた。そのころ、アメリカにいる叔父のエリックが、ユダヤ人機関が運営している捜索所に僕の名前を知らせていた。当時、何百万人もの人々が離れ離れになった親戚や友達を探していたにもかかわらず、ユダヤ機関の職員の一人が、事務所に届く膨大な数の捜索願の中に、ドイツにいるゲルダ。ビュルゲンタール夫人が子供を探しているという手紙があるのに気がついた。彼は、その子供ととまったく同じ名前を、数日前にパレスチナへの移住を望むポーランドの孤児院の子供リストで見たことを、どういうわけが思い出したのだ。まだコンピューターのない時代、捜索は手作業で行っていたことを考えると、ユダヤ機関のこの職員がこのように母と僕を結びつけることができたのは、ほとんど奇跡としか言いようがない。ムティが、僕たちがどうやって再開したかを語るたびに、それは「運命で決まっていたのよ」と言うのも。驚くことではなかった。「だって、キエルツェの占い師が、そう予言したんだもの」と、彼女は堂々と言うのだった。
 ユダヤ機関はすぐにアメリカにいる叔父に連絡をし、叔父は母に知らせた。・・・
それから10年ほどたって、ムティは初めてイスラエルと訪れたとき、ユダヤ機関本部と書かれた建物の前を通った。彼女はためらわずに建物に入り、だれか責任者と話をしたいと言った。そして、自分と息子を再開させてくれたことに対して、ユダヤ機関に感謝を言いたいとのだおt説明した。・・・母は喜んで迎えられ、再開した家族がユダヤ機関にお礼を言いにきたのは、母が初めてだったということである。

・ナンセン様
 突然の手紙で失礼します。数日前に、ノルウェーで今一番人気の本は、あなたが3年間ザクセンハウゼンに収容されていたときに書いた日記だという記事を読みました。僕もザクセンハウゼンにいました。名前はトミー・ビュルゲンタールと言い、その当時10歳でした。僕は診療所にいて、そこで足の指を2本切断しました。
 それから、僕は、そこで出会ったノルウェー人について、その人がとても親切にしてくれたこと、僕のことをいろいろ助けてくらたこと、それなのに、その人の名前も住所も忘れてしまったことを書いた。
 ナンセンと言う名前は、ぼくにはとても聞き覚えあり、この手紙を書くことにしました。・・・
 僕には、その日記を書いた作者の住所はわからなかったので、「ノルウェーのオッド・ナンセン様」とだけ書いて送った。・・・
 ある日、呼び鈴がなった。ドアを開けると、そこにはノルウェーの軍用車に乗ってきたノルウェーの兵士が立っていた。・・・兵士の一人が手紙を渡してくれた。その手紙は、「親愛なる、親愛なるとみー!」と始まっていた。
 君の手紙が、どれほど私やほかのたくさんの人びとに幸せを運んで食らたことでしょう。・・・

・1949年にオッド・ナンセンの本がドイツ語に訳されると、序文には、本の収益はドイツ難民を援助するための基金に寄付すと、書かれていた。それを読んで、僕はなぜナチの強制収容所で3年も過ごした人が、ドイツ難民のことを心配するのだろうと考えた。けれど、時間が経つにつれ、ドイツ難民に人道的に接することが大事なのだと考えるようになった。それは、感謝されたいからとか自分たちがどんなに寛容な精神の持主かを見せたいからではなく、僕たちの経験をした人こそが、だれであれ助けが必要な人々に共感することができるからだ。そして、ナチが行った犯罪を命令したドイツ人や、実際にその罪を犯した人々は当然罰せられるべきだが、一般のドイツ人がただドイツ人だというだけで罰せられるべきではないと強く思うようになった。

・1970年に『トミー』という本がノルウェーで出版された。
ナンセンさんは、すぐに本を送ってくれた。

・ホロコーストで自分たちの身に興ったことを忘れずにいることは重要だけれど、僕たちにしたことの責任を、犯罪人の子孫に負わせないことも同じくらい重要だと説明しても、アメリカにいる私たちの親族や友人は、その意味を理解してくれなかった。そうしなければ、憎しみと暴力の悪循環は決して終わらないのだ。

・僕はドイツにいても自分は決して過去と決別することはできないだろうと思うようになり、いつか国外に移住したほうがよいと考えるようになっていた。
 それに、アメリカにいる叔父や叔母が、いつもムティと僕にドイツを出てアメリカで暮らすように勧めていたので、将来についていろいろと考えさせられた。

・ムティがジャック・ローゼンホルツ氏と結婚して、彼と一緒にイタリアに行くことにしたので、僕にってはドイツを離れてアメリカに行きやすくなった。

・第二次世界大戦が終わり、収容所から解放されてから60年の間、どうして、そしてどうやって自分は収容所で生き残ることができたのだろうと、しばしば考えた。・・・。そして、いつも到達する結論を一言で表すならば、私は幸運だったということになる。けれど、幸運という短い言葉だけでは、私を生き残らせてくれた、いろいろな出来事の連鎖を言い表すことはできない。まず、キエルツェのゲットーや労働収容所では、父と母と一緒にいて、両親は私の面倒をみてくれただけでなく、生き残るために必要な基本的なことを身につけさせてくれた。アウシュビッツでも初めのころは、母と分かれたあとも父と一緒だった。父は私を守り続けてくれただけでなく、どうしたらガス室に行かずにすむかを教えてくれた。もちろん、アウシュビッツに着いたときに、死の選抜を受けることなく中に入れたのは大きな幸運だった。あのときに選抜が行われていたら、私は間違いなく収容所に入ることはできず、私の話もそこで終わっていただろうから。
 アウシュビッツで一人になったとき、ザクセンハウゼンで私は少し成長していたから、本当の意味で収容所の子供、つまり、生き残るために必要な要領を身につけた子供になっていた。・・・
 ドイツ語もポーランド語もなまりなく、上手に話せたこと、そしてユダヤ人に見えなかったことも、生き延びるためには好都合だったと思う。ドイツ語が話せたおかげで何度も助かっただけでなく、少なくとも私は、自分の「ドイツ人ぽい」顔つきのおかげで助かったと思っている。もしかしたら、私を見て、ナチの将校たちは自分の子供のことを思い出したのかもしれない。それで、キエルツェの収容所の司令官は、私が働けると言ったとき、私のことを生かしておこうと決めたのかもしれないのだ。ポーランド語を話せたことも、何度も大いに役立った。間違いなく、これらのことが組み合わさって、生き残る上で約二立ったのだ。そして、それらは、ほとんどが偶然のことだった。

・人権保護裁判官、あるいは調査官として行動しながら、私はわれわれ人間の何がそれほど残酷で残忍な-私は、人間が犯すこうした恐ろしい行為を説明するのに、あえて「非人間的」という言葉は使わない-行動に駆り立てるのだろうと考えていた。恐ろしいことに、多くの場合こうした行動をとるのはサディストでもない普通の人びとで、夜になれば家族のいる家に帰って手を洗い、まるでほかの人と同じような仕事をしてきたかのように、家族と一緒に夕食をともにするのだ。

・収容所の体験は、言うまでもなく、その後の私の仕事、そして人生に対する姿勢に影響している。

・ホロコーストの犠牲者の(銀行)口座の相続人を見つけることができたときは、チューリッヒの私たちの事務所にはいつも喜びがあるふれた。けれど、私たちが口座の所有権を認定する前に、相続するべき人が亡くなってしまったことを知ったときは悲しかった。多くの口座は相続人を見つけることができなかった。

・1990年代後半、私はクリントン大統領から、ワシントンにある合衆国ホロコースト記念協議会委員に任命された。そして、まもなく協議会の良心委員会の委員長になった。委員会の役割は、大量虐殺や仁るに対する犯罪を防ぐ努力を喚起し支援することで、自分たちのホロコースト体験を現在の現実と結びつけることである。

トーマス・バーゲンソール氏は、10歳でアウシュビッツ強制収容所に送られ、両親と生き別れになりながらも奇跡的に生き残った体験から、国際人権法の専門家を志しました。そして、人権法律家、教育者、国際司法裁判所判事として、ホロコーストのような人類の悲劇が繰り返されないよう尽力してきました。カンボジア、ルワンダ、ダルフール、バルカンなどで起きた恐ろしい人権侵害により、バーゲンソール氏の願いは度々打ち砕かれましたが、それでも氏は前向きな気持ちを失うことなく、国際法と人権の国際的保護のため、国際人権家として働きかけ続けています。
日本では、近現代の歴史認識をめぐる問題がいまだに揺れ動いており、繰り返し物議を醸しては、国内のみならず国際問題に発展しています。本講演では、歴史を風化させず継承することの重要性、また歴史の記憶の問題を私たちはどのように捉えればよいのか、バーゲンソール氏と共に考えます。

国際文化会館 https://www.i-
https://www.i-house.or.jp/programs/publicprogram20130911/
(ジョージ・ワシントン大学法科大学院教授、元国際司法裁判所判事)
1934年チェコスロバキア生まれ。第二次大戦中、10歳でアウシュビッツ強制収容所に送られ、両親と離ればなれになるが、奇跡的に解放される。父親は収容所内で死亡したが、母親とは終戦後に再会。親戚を頼って17歳で渡米した。ニューヨーク大学法科大学院およびハーバード大学法科大学院にて博士号取得。専門は国際法と国際人権法。ジョージア州アトランタのカーター・センター人権プログラム・ディレクターなどを経て、2000年から2010年まで国際司法裁判所判事を務める。前・米州人権裁判所判事、国連人権委員会委員。強制収容所を一人で生き抜いた経験をつづったA Lucky Child(邦題:『アウシュビッツを一人で生き抜いた少年』朝日文庫、2012年、池田礼子・渋谷節子訳)は、世界数カ国で出版された。

2023年05月31日07時28分

感想
2023年05月29日に89歳で亡くなられていました。

生き延びられたのは、生き延びるために必死で努力したことと、多くの幸運が重なったこと、そして助けてくれた人がいたことでした。

ヴィクトール・フランクルが(『夜と霧』の作者で、ロゴセラピーを始めた)、強制収容所で何かその人の生きる希望を持ち続けることが過酷な状況で必要だと言っています。
希望を失うと強靭な体力がある人でも早く弱ってガス室に送られてしまったどうです。
希望を持ったから助かると言うことはないのですが、希望を持ち続けた人の方が生き残れたと。
ただ約600万人のユダヤ人が強制収容所で殺されました。
それ以外にもロマ人、反政府活動をした人々も収容されていたようです。

アメリカに行き、高校に入り、奨学金を得た大学に入って学びました。
奨学金がなければ、大学で学ぶことが出来ませんでした。
奨学金が学びたい人の大きな支援になっているのですが、日本の奨学金はほとんどがローンになっています。

・普通の人が残酷なことをしてしまうのです。
・残酷な人の子孫にまでその責任を負わせることはしない。
この二つの言葉は人の弱さと怖さ、そして未来のためにどうすべきかを教えてくれているように思いました。
 敵(かたき)を取ると、その子孫がまた敵を取ります。悪の連鎖が続くのです。
どこかで断ち切らないといけないのです。

「誰がために医師はいる クスリとヒトの現代論」松本俊彦著 ”薬物は覚せい剤だけでない”

2023-06-24 10:44:44 | 本の紹介
・中学時代の経験から私なりに学んだことがある。それは、暴力による支配は必ず別の暴力を生み出すということだ。

・「自分より知識のねえ医者のところにどうして俺が来てんのかわかるか? わざわざ長い待ち時間に耐えて、金まで払って病院に来る理由がわかるか?」
 圧倒された私は、声の震えを必死でごまかしならら、平静を装って質問した。
「それは、な、なぜですか?」
 すると、その患者は不意に声と表情をやわらげてこういった。
「それはな・・・クスリのやめ方を教えて欲しいからだよ」
 彼の指摘はまさに正鵠を射ていた。それこそ彼の周囲にいる素人の人たちが無償でやっていることだ。それを同じものを、いやしくも国家資格を持つ専門家が有償で提供してはいけない。

・薬物で逮捕されたり、薬物でおかしくなって人前で大失態を演じてしまったときには深く反省して、しばらくのあいだ断薬します。しかし、なかなか長続きしません。薬物をやめるのは簡単です。難しいのは、やめつづけることです。

・薬物を手放した自分には何も残らないのではないか、あるいは、自分が抜け殻のようになり、この先、ずっと灰色の無味乾燥な人生に耐えなければならないのではないか、と不安になる人もいます。多くの薬物依存者がなかなか薬物を手放す決心がつかないのは、たぶんそのせいです。
 ところが、自助グループに行けば、何とか苦しい日々を乗り越えて一年間やめつづけた人、あるいは、三年やめつづけて気持ちにゆとりが出てきた人、さらには10年とか20年やめつづけ、薬物がない生活があたりまえになっている人とも出会うことができます。そこには、近い未来の自分の姿や、遠い未来の自分の姿があります。決して抜け殻になっておらず、苦労しながらも自分らしい人生を楽しみながら、年余にわたってやめつづけることに成功している姿です。そのような未来のイメージは、依存症を抱える私たちに希望を与え、回復への意欲を刺激してくれるのです。

・この(自助グループ)集会のクロージングでのことだった。参加者たちがそれぞれに手をつないで大きな輪にを作り、それから声をあわせてある言葉を読み上げたのである。
「神様、私にお与えください/変えられないものを受け容れる落ち着きを/変えられるものを変える勇気を/そして、その二つを見分ける賢さを」

・薬物をやめるヒントは患者のなかにある。その意味では、ダルクという薬物依存者のための民間リハビリ施設にかかわったことも財産になった。

・ある女性患者は、自身が自傷行為をする理由についてこう語った。
「心の痛みを身体の痛みに置き換えているんです。心の痛みは何かわけわかんなくても怖いんです。でも、こうやって腕に傷をつければ、『痛いのはここなんだ』って自分に言い聞かせることができるんです」・・・
おそらく自傷行為は、「痛みをもって痛みを制する」行為なのだろう。

・『激励禁忌神話の終焉』井原裕著
「うつ病患者を励ましてはいけない」はそうした神話の代表格だろう。
それだけではない。・・・
「統合失調症患者に幻聴や妄想の内容をくりかえし聴いてはいけない」
「患者のリストカットに関心を抱いたり、主治医自ら傷の手当てをしたりしてはいけない」
「悩んでいる患者に対して安易に自殺念慮について質問してはいけない」
いまなお精神科医を縛りつづける神話は残っている。
「患者のトラウマ体験について質問してはいけない」

・薬物依存症や自傷行為といった、これまで私が関心を持って数多く診てきた患者のなかには、自身の身体を改造する者が少なくなったと思う。

・その一方で、さほど深刻な病理性を感じさせない身体改造もあった。それは大雑把に二つのタイプに分類できた。
1)アウトローとして生きることの決意を表明し、自身の強さを誇示するための身体改造だ。
2)さほど顕示的ではない、ささやかな身体改造だ。・・・たとえば一見、真面目そうな会社員の上腕に施されている小さな機械彫りのタトゥ。あるいは、清楚な若い女性の足首に彫り込まれた庁の絵柄のタトゥなどである。

・精神科医であれば誰でも、心の中に自殺した墓標をいくつか抱えているはずだ。

・大切な学びもあった。とりわけ次の二つのことは、自殺という現象を考えるうえでぜったいに無視できない重要な学び出会った、いまでも確信している。
1)本人が真に強く自殺を決意したら、いかなる治療や支援にも限界がある、ということだった。
2)そうはいっても人は最後まで迷っている、ということだった。

・(巨大橋梁の)会社側と何度か意見交換の機会を作ったが、会社の及び腰(2m以上の高さの障壁作成に対する)な態度に押し返され、最終的に、欄干に高さわずか50cmの有刺鉄線の障壁を増設する、というささやかな対策に合意した。・・・
 障壁増設から一年後、対策の効果を検証することとなった。すると、予想に反して、50cmの有刺鉄線の効果はてきめんだったのだ。対策以前は年間20人を超えていた橋梁からの飛び降り自殺者数が、障壁を増設した翌年はゼロになった。その後、改めて確認したところ、障壁増設以降、現在までずっと1.2人程度という、急増以前の状態を維持しているという。

・巨大橋梁から飛び降り自殺をする人は、どのような時間帯に、橋梁のどの部分から飛び降りる人がもっとも多いのか、何らかの特定の傾向はあるのかどうかを調べるなかで気がついたことことだった。調べてみると、ほとんど全員が、時間帯は午後10時~午前3時のあいだ、場所については、橋梁の海側に面した部分ではなく、陸側に面した部分の中央付近を選択していたのだ。
要するに、その橋から飛び降りる人の大半は、重油を敷き詰めたようなyルの海に向かってではなく、美しい街の夜景-人間の営みの光の群れ-を眺めながら身を投げていたのである。

・「次回の診察予約をとること自体に治療的な意味があり、予約の有無こそが生ける人と死せる人とを隔てるものなのだ」

・「(薬物を)悪い使い方」する人は、必ずや薬物とは別に何か困りごとや悩みごとを抱えている。それこそが、私が医師として薬物依存症患者と向き合いつづけている理由なのだ」

・薬物乱用防止教室には苦い思いである。20年ほど前ある中学校から薬物乱用防止教室の講師として依頼を受けた。・・・私は一計を案じた。それは、ダルクの職員をやっていた、薬物依存症からの回復者に私と一緒に登壇してもらい、自身の体験談を話してもらう、というものだった。・・・。
 ところが、私の提案は学校側からにべもなく却下されてしまった。理由は、「薬物依存症の回復者がいることを知ると、生徒たちが「薬物にハマっても回復できる」と油断して、薬物に手を出す生徒が出てくるから」というものだった。

・刑罰には三つの機能がある。
「威嚇」;
「悪いことをすると罰を与えられて嫌な思いをするぞ。だから悪いことをやっちゃだめだよ」
「応報」:
 「目には目を、歯には歯を」
「再犯防止」
 薬物使用者は刑務所により長く、より頻回に入れば入るほど、再犯リスクたがたかまる。

・(ダルクの)施設が建っている通り沿いの家のすべてに、「薬物依存者リハビリ施設断固反対」という貼り紙がされていたのだった。
「ダルクの活動は評価している。しかし、私たちの街には、薬物依存症のリハビリ施設を必要とする人など一人もいない。むしろそんな施設があると、よそから危険な人たちが集まってきて、生活の安全を脅かされる。だから、やめてくれ」

・私は機会を捉えてくりかえしこう主張しなければならない。
「ダメ、ゼッタイ。」では、絶対ダメだ。と。

・『フランドルの冬』加賀乙彦著

・研修医二年目、救急救命センター研修中
救急隊が引き上げたのを確認すると、私は胃洗浄を開始した。・・・
しかし、妙だ。吸引される液体のなかには、少量の食物残差が混じっているだけで、溶けた錠剤の痕跡が見当たらない。・・再度、胃洗浄を試みる。
今度は錠剤が引けた-ただし、四錠はど。
「ん? たったこれだけ?」・・・
救急隊が持ってきた、枕元にあったという鎮痛剤の箱を調べてみた。すると、薬は全部で5箱あったが、いずれも錠剤は大部分は残っているではないか。
 この意識障害は急性薬物中毒によるものではないかもしれない。・・・肝機能も正常だった。医意識障害の原因となるような電解質の異常もない。ただ、なぜか白血球が増加し、炎症の存在を示す所見がある。
 どういうことだ? 看護師に体温を聴くと、38.8℃だという。昏睡時に吐瀉物を誤嚥して肺炎を起こしたのか? とすると、意識障害は低酸素脳症? だが、血中酸素飽和度は97%、血液は十分に酸素化されている。念のため、胸部レントゲンも確認してみる。肺炎の所見んはない。
 ならば発熱の原因は? 髄膜炎か?
 首の後ろに手を入れ患者の頭を持ち上げてみる。髄膜炎ならば、頭と一緒に方も浮き上がるくらい頸部が固く案っているはずだが、それもはい。
 もう一度、ハンマーを手に膝蓋腱反射を確認した。反射は亢進している。足底をハンマーの鋭利柄で引っ搔くと、足指が開き、足の親指が反り返る、。バレンスキー反射波強陽性だ。もちろn、意識障害であればこの病的な反射がでてもおかしくはないが、単なる過量服薬だけでここまではっきりこの反射がでるのは、ちょっとめずらしい。
 この意識障害の原因は一体何のか?
 他に考えられるのは脳炎か? だが、その根拠は? 脳せき髄液を調べるか?・・・
顕微鏡の視野には、葉状に分かれた核を特徴とする好中球が多数見えたのだ。
 脳炎、それも細菌性の脳炎は! 枕元に鎮痛剤が何箱もあったのは、おそらくこの数日間、本当に頭痛がひどかったからなのだ。
 いずれにしても、この小さな脳外科病院ではきちんとした治療はでいない。念のため、抗生物質の点滴は開始しつつも、平行して、大学病院に転院の手はずを進めた。・・・
 神経内科医は、「うん、うん」とうなずきながら私の報告を聞いていた。やがて何かを思いついたらしく、超音波検査機を持ち出し、そのプローグを患者の左胸に当てて、心臓の動きを調べ始めた・
「やっぱり弁膜の動きがあやしいね」
 神経内科医によれば、おそらく細菌性心内膜炎がまずあって、弁膜にふちょくした細菌の塊が血流に乗って脳に飛び散り、脳炎を起こしたのだろう、とのことだった。・・・

・ベンゾ依存症患者は、「不眠や不安を軽減するために」「抑うつ気分を改善するために」といった意図から、単独で使いはじめているのが特徴だった。
 このことは二つの重要な事実を示唆していた。
1)ベンゾ依存症患者は決して「快感」を求めて薬物を乱用しているのではなく、あくまでも「苦痛の緩和」を求めて薬物を乱用している、ということだった。これは、たとえ快感を引き起こさなくても、苦痛緩和の作用さえあれば、人は依存症に罹患しうることを意味する。いや、快感ならば飽きるだろうが、苦痛緩和となると飽きるわけにはいかない。自分が自分でありつづけるためには手放せないものとなる。
2)この「苦痛の緩和」をしてくれる薬物を最初に提供した人物が、しばしば精神科医である、ということだった。事実、私の調査では、ベンゾ依存症患者の84%は、閉山する精神障害の治療を受けるなかで依存症を発症していることがわかっている。

・ベンゾ依存症患者の治療は実に手がかかる。覚せい剤依存症患者の少なくとも倍は手がかかるといってよいだろう。
1)併存する精神障害のせいで、いっさいの精神科治療薬をやめるという選択肢がとれないことだ。
2)入院が必要ということだ。
3)他の医療機関との調整をしなければならないことだ。

・ベンゾ依存症患者は、2000年以降、薬物依存症臨床の場で目立ち始めたが、この世紀の変わり目の年は、精神医学にとってさまざまな分岐点であったと思う。
1)新しい抗うつ薬の登場だ。SSRI、パロキセチン
2)自殺した伝説的なリストカッターとしてブロガー、南条あやのの遺稿集『卒業するまで死にません』が刊行されたことも、個人的に無視できないと感じている。・・・自身の精神科医療ユーザーとしての体験を赤裸々に語り、さまざまな治療薬の服用感を生き生きと語っていた。そのありさまは、「向精神薬ソムリエ」と評したくなるほどであった。

・精神科医のななには、このような医原性の薬物乱用に対して「パーソナリティ障害」という屈辱的なラベリングをもって、責任を患者側に押し付け、さらには、そうした患者を治療から排除するものが少なくなかったことだ。

・「では、お薬を追加しておきますね・・・」
かくして患者は薬物依存症に、そして精神科医は薬物療法依存症になる。

・『ひき裂かれた自己』R・D・レイン著

・こう言い換えてもいい。「困った人」は「困っている人」なのだ、と。だから、国が薬物対策としてすべきことは、法規制を増やして無用に犯罪者を作り出すことではない。薬物という「物」に溺愛せざるを得ない、痛みを抱えた「人」への支援が必要なのだ。
 その意味で、やはりこれは私なりの挑戦であり、闘いなのだ。そう自覚するに至るまでの彷徨いや雑感をまとめたものが、本書に収載された原稿となっている。

感想
 以前から、すぐに薬を投与する精神科医が多いので、疑問に思っていました。
何か患者が症状を訴えるとお薬が増える。
たくさんのお薬を飲んで、そしてお薬で逆に体調を悪くしている人も多いように思っていました。

また、精神科医がお薬で自分のうつ病を治せずに必死で治し方を求めてよくなり、それを本にされている精神科医も多いです。

お薬は必要な時は必要だと思います。
しかし安易に増やすと医原病になる場合もあります。

お薬の効き目は自分が一番よく分かるのですから、医者任せにせずに、医者とよく話し合うことが必要だと思います。

この本は薬物依存に関心のある方にはお勧めです。





「昨日と違う今日を生きる」千葉敦子著 ”やりたいことにチャレンジ!”

2023-06-22 01:31:00 | 本の紹介
・再発が確認された日の精神状態は比較的平静だったが、それに続く日々、ずっと平静な気分でいたわけではあい。

・むろん費用の問題はある。私は貯金を持たないことを生活信条とし、少しでも収入が支出を上回った月(めったにないけれども)は、余った分を施設や運動に寄付している。だから手持ちの金は乏しいけれども、どこかから借金する手はあるだろう。そして生きてさえいれば借金を返す手立てはあるはずだ・・・。

・私が貯金を持たないことを知っているPは、
「本社の財務部に電話して聞いてみたら、ある金額までなら、すぐに無利子で貸せるそうだ。それ以上の額については即答できないといっていたけど、金の心配があったら、すぐ知らせなさいよ」という。

・人間は仕事を持ち、身の廻りのことをできるところまで自分でしてこそ、人間としての尊厳を保ち得るのであって、そういう責任を全部放棄してしまって、ただ生きているだけでは、なんのための人生かわからなくなってしまう。「自分には生きてやるべきことがあるのだ」という意識こそが、闘病において最も基本的な要件だと思う。

・一度断られた編集者にまた手紙を書き、新しいアイディアを提供し、あるいは別の編集者に会ってみる、ということを根気よく続けた。
 もちろん、私は「どんな雑誌にでも何でも書く」というつもりはない。

・私は編集者に断られるのには慣れている。私の著書のうちの一冊は、六社に断られ、七社目でやっと刊行してもらえた。雑誌の原稿でも、一誌に断られても決して諦めず、書き直してほかの雑誌に持っていく。

・何人かの友人たちがいくつもの送別会を開いてくれた。たいていの友人たちは私の”無謀”ともいえる計画について心配しながらも励ましてくれた。ニューヨークで働いたことのある記者たちは口々に、
「ニューヨークでフリーランスをやるなんて、すごい度胸だね」
という。

・ゼロに近いところからやり直すことの気持ちよさ。これを何にたとえたらいいのだろう。ぬるま湯から出て冷たい滝にあたるようなすがすがしさ、とでもいえばいいのか。
 ガンとの闘いや生活の苦しさは東京でも同じようなものだ。どうせ苦しむのなら新しい環境で苦しもう。という私の決断は正しかったのだと思う。

・ニューヨークに引っ越してから半年余りたって、それまでおさまっていた乳ガンが再々発した。

・イギリスの経済ジャーナリスト、ウォルター・バージェット
「人生の偉大な喜びは、とてもできっこないと他人が思っていることをやってのけることだ」

・友人の支援
 私はニューヨークに引っ越してまだ三年にしかならず、しかもその半分はガンの治療でほとんど家から出られないような生活でしたから、あまり友だちは多くありません。
 それでも現在、私の生活の不便さをなるべく不便さをなるべく軽くしようと、雑用を引き受けてくれている友人は二十数人います。一人や二人に頼っていたのでは、その人の負担が重くなり過ぎてうまくいかないと思います。

・とにかく、いまの日本のように、医師が患者にうそをついては、よい治療が行われるわけはない、という点だけは、両国で治療を受けた経験からはっきりいえます。

感想
 千葉敦子さんは3度のガン再発で、46歳で亡くなられました。
積極的にやりたいことにチャレンジされた人生でした。
出来ないと思って諦めるのではなく、少しでも可能性があればチャレンジされたようです。
 断られるとそれで意気消沈しがちですが、そんなことで諦める方ではなかったようです。
 またお金よりも、多くの友だちを作られていました。
 そして多くの記事、多くの本を遺されました。

「昨日と違う今日を生きる」
今生かされていること、自分が行動できること。
これを当たり前と思わず、今できるときに自分のやりたいことをすることなのでしょう。
いつかできなくなる時がきます。
その時に、あれもしとけばよかったと思うのではなく、今やりたいと思います。
そして「あのとき、あれをして良かった」と思える人生を送りたいと思いました。
周りの目よりも自分の心や思いを優先したいと思います。
いろいろ言う人がいますが、その人が私の人生の責任を負いません。
私の人生の責任は私しか背負うことができないのですから。
失敗を恐れず、周りの批判を恐れず、でも謙虚さも失わずに。
出来ないことを愚痴る時間があれば、今できることをどのようにするかを考える時間に使いたい。
そして楽しい時間も持ちながら。

38歳で胃がんになり胃を2/3切除して、今しないと将来できるとの保証はないと気づかせてくれましたが、日々のことに追われてそれを忘れることがあります。
千葉敦子さんのこの本はそれを思い出させてくれました。
「時間は限られている」

「なぜ人はカルトに惹かれるのか -脱会支援の現場から」瓜生 崇著 ”生きる目的を真剣に探そうとする人こそカルトへのリスクが高いかも”

2023-06-21 08:38:48 | 本の紹介
・顕真学院は福井県の芦原町の北潟湖の畔にあった。・・・
一緒に入学した学院生12名だった。・・・
その「姿勢」ってなんだという話なのだが、これは朝夕に唱和する「顕真学院聖則」にその要点が書いてある。
一、我ら学院性は、(高森)会長先生の御指示に無条件で従い、信心獲得を本と致します。
一、我ら学院性は、上司の指示は会長先生の指示と心得ます。
一、我ら学院性は、いかなる場合も仏法最優先とし、破邪顕正に命をかけます。
一、我ら学院性は、常に求道の姿勢を正し、会員の模範となります。

・それ(お布施集め)よりもっと厳しかったのはアニメ頒布で、これは親鸞会制作のアニメビデオ「世界の光親鸞聖人」を、戸別訪問で販売するという活動である。しかし一本1万五千円で全巻セットだと十万円という、高額な宗教アニメを買う人などそうそういうるわけではない。

・いろいろなことがあった。教団の最高幹部が女性問題を起こして、その最高幹部を快く思っていなかった人たちが、それをきっかけに謀反を起こしたこともあった。・・・
親鸞会に批判的な情報が簡単に見られるようになり、脱会者が続出していた。・・・
当時はヤフーとグーグルで「親鸞会」を検索すると、ずらっと親鸞会批判のページが並んだ。私たちはこれを「誹謗サイト」と言っていた。どうしていいのか見当もつかなかったが、とりあえず消せるものは消そうということで、顧問弁護士に相談して書面を作成、コンテンツを削除しないと名誉棄損で訴えますよと、サイト管理者に通達した。
 この効果は絶大でだいたいのサイトは閉鎖された。・・・
 本当のことを言えば、訴訟になったら一番困るのは親鸞会だ。・・・
 つまり親鸞会が名誉棄損で「誹謗サイト」を訴えることが出来るとしたら、前者の社会的問題性を告発するサイトがその対象となるが、それは自分たちのやっている正体隠しの勧誘が、法廷の場で明らかになることを意味する。親鸞会は正体隠しの勧誘など「やってない」というスタンスだ。もっと踏み込んだ言い方をするとしたら、「現場が勝手にやっている」というスタンスだ。しかし実際は教団組織の指示で行われていることくらい、いくつかの証言を集めるだけで、簡単に立証されてしまうだろう。
 つまり「名誉棄損で訴えるぞ」と警告しても、「どうぞ訴えてください」と言われたら、親鸞会はなにもできない。だから警告は脅しでしかなかった。警告を受け取ったサイト管理者は冷や汗が出ただろうが、実は警告を出す側も内心はヒヤヒヤだったのである。

・視聴覚担当職員氏は「ジャンヌ」(誹謗サイト)のソースコードを落としてきて、それをちょちょっといじって「ヅャンヌ」と書き換え、内容をごそっと別のものしてネットにアップしていた。「ジャアンヌ」を見に来た人はこの紛らわしいダミーサイトに誘導され、そこには親鸞会のことは一つも悪く書いていない。
 私たちはこういうサイトを作りまくった。モラルも何もあったもんじゃない。やりたい放題である。こんなことをしているうちに、「親鸞会」で検索しても誹謗サイトは出て来なくなった。私はかなり評価されて二度も昇格して、さらに特別賞与までいただいてしまった。

・2005年になった。相変わらずインターネット対策に励んでいたが、あるときインターネット掲示板「2ちゃんねる」で「高森顕徹の著作は大沼法竜の書いたもののパクリである」という書き込みを見つけた。・・・。図書室で資料を探していて、一番奥の書棚の上のほうに、分類ラベルの貼られていない見慣れない本が数冊置いてあることに気付いた。・・・
驚いた。そこにあったのはネットで高森会長の本のパクリ元だと言われている、大沼法竜の本だったのだ。・・・
 周囲に誰もいないか注意して一読してみると、確かに高森会長の書いた本の一部は「2ちゃんねる」の指摘どおり、大沼法竜の著作のコピーと言われてもしょうがないように思えた。

・そして決定打になったのが次の一冊、西田公昭著『マインド・コントロールとは何か』だった。・・・
 つまり親鸞会で勧誘活動を続けていた私たちは、統一教会に類似したマインド・コントロール的な手法を使っていたにもかかわらず、そうと気づいていなかっただけだったのだ。

・脱会支援においては相手を年齢や環境にもよるが、脱会者を「成人した一人前の人間」として扱うことが極めて大事であると思う。外から見たら宗教に狂っているようにしか見えなかったかもしれないが、真剣に人生を生きて厳しい信仰上の壁を幾度も乗り越えて、その辛い厳しい歩みを最終的に捨てる覚悟で脱会したのである。今思ってもあれは並大抵の決断ではない。そのときの信者の思いは深い敗北感である。

・結局私は、親鸞会はやめたが浄土真宗はやめることが出来なかった。同じ浄土真宗の伝統的教団である真宗大谷派(東本願寺)の末寺の住職をしている。

・日本基督教団の竹迫之牧師は、カルトの定義を反社会性の有無に置くのではなく、「全体主義的な人格変容を組織的恒常的に誘導する団体」と定義すべきだと主張している。・・・。本書ではこれらのことも加味して、カルトを次のように定義したい。
「カルトとは、ある特定の教義や思想、あるいは人物そのものを熱狂的に崇拝する集団であり、その組織的目的を達成するために、詐欺的な手法を用いて勧誘したり、メンバーやメンバー候補者に対して、過度な同調圧力を加えて人格を変容させ、精神的肉体的に隷属させたり、経済的に無理な収奪を行ったりするものをいう。」

・『人生の価値について』西尾幹二著

・小説家の村上春樹は、オウムに入っていった人は小説を熱心に読んだ経験がなく、それで現実とフィクションの区別がつかなかったのではないかと語っている。・・・
 これは私の実感と違う、私の場合はオウムの信者に接したことはほとんどなく、その後継団体のアレフの信者・元信者と、私がいた教団である親鸞会の話が中心になるが、彼らは小説を読まなかったどころか、平均的な人たちよりもずっと読んでいたと感じる。
 あれ負の場合は教団に入ると小説は読まなくなるのだが、親鸞会の場合は学生の拠点の本棚にはたくさんの小説があり、私自身先輩からよい小説を紹介されむさぼるように読んだ。そもそもオウムに入った人は、アニメやSFが好きな人が多かったと報道されていたが、そこからフィクションと現実との区別がつかなくなってしまったのではないか、という考察は、村上に限らず多くの識者によって語られてきた。

・ナチスが自らの人種的優位性を信じ、ユダヤ人をゲットーに集めて労働力を搾取し、最終解決として皆殺しにしようとしたときに、数十万の勤勉なドイツ人はその理念に従い黙々と「任務」を遂行した。

・カルトは多くの場合、あなたが生きているのはこのためだ、という明確な答えを与える。・・・。こうした疑問に答えを与えることで、その疑問に向き合う苦しみや迷いと消し去ってくれる。「もう迷わなくていい」のだ。・・・
しかし見かけ上消し去っているだけであって、解決しているわけではない。「カルトの提供する答え」という目隠しをさせられているだけである。なので脱会して信者が元信者となり、いわば目隠しを外されたときに、何一つ問題が解決してないことに気付いて、深刻な空虚感や虚脱感に苦しむケースは多い。

・私は当初「どうしたら自分が本当に救われるか」という思いを持って教団で求道したが、途中でそれが「どうしたら会長先生の御心に叶うことができるか」にすり替わっていることに気づいた。

・東京工業大学の中島岳教授は戦時中の真宗大谷派の戦争協力が、教義理解ろ反することを承知で、時代の要求に屈して「仕方なく」なされたのではなく、むしろ親鸞の教えから戦争協力の論理積極的に見出し、一種の宗教運動そいてなされたことを明らかにしている(『親鸞と日本主義』)。

・オウム真理教家族の会の永岡弘行会長
「体の不自由な人の車イスを押していた優しい若者が、三歳にも満たない幼児の首を絞めて殺害してしまう。凶悪な殺人者が犯罪に走ったのではなく、きれいな心を持った若者がいつしか、そのきれいな心のままで殺人を犯していた。これこそが、オウム事件の最も恐ろしい核心だ。・・・。『きれいな心のままでも人間は人を殺せる』ということは、誰でも条件さえ揃えばそうなり得るということだ。その意味でオウム事件は、誰にとっても他人ごとではない。」

・カルトの信者を見ると、どう考えても真実性の証にならないようなことを、信仰の拠り所にしているように見えるかもしれないが、それは洗脳されて盲信している姿ではない。疑念や悩みを残してもがいている姿が、仮にそういう形を持って外に現れているに過ぎない。

・カルトの見分け方はあるのか
『Q&A 宗教トラブル110番』山口広等著
①伝道に際し、宗教団体の電動であることを隠すなどウソがある。
②信者らに高額のお金を要求する。
③信者らに、宗教団体の代表に対する、絶対的帰依と従属を要求する。
④人類が滅亡する、輪廻転生ができないなど、構成員に恐怖感を執拗にあおる傾向が強く認められる。
⑤信者らが共同生活をしている。
⑥関連会社をもち、信者らにただ働きさせている。
⑦家族からのクレームに関し誠実に対応しない。あるいは平気でウソをつく。

・脱会支援においては、「教団がいかにおかしいか」を知ることも大切だが、信者が「どうしてその教えを求めずにおられなかったのか」を考えることも同じくらい大事なのである。

・スクールカウンセラーをしている友人が言っていた言葉が忘れられない。不登校の問題について話していたときに、彼は「学校に行けないというのは人間としてまっとうで、極めて正常なことだ」と言ったのだ。たくさんの個性のある人たちが同じ空間で画一的な教育を受け、集団で行動することを要求される学校は、「行けなくなって当たり前」だと言う。そして学校に行けない子供に「学校に行かなければ生きていけないぞ」と脅すのをやめろと厳重注意された。そんなことは本人も悩んでいることであって、こちらから言うことではない。逆に「学校に行かなくても人間は生きていける」ということを伝えてあげてほしいと。

・必要なのは私たちがちゃんと迷ってゆらぐことなのだ。真剣に聴こうとすれば相手も真剣に話してくれる。理解したいという思いで聞けば理解してもらおうと思って向き合ってくれる。自分が当たり前に受け入れていた人生観が、揺さぶられるくらいに向き合わなければ対話は成立しない。それはカルトの論理にこちらが立つということではない。「真理」と求めずにおられない人間の思いを理解するということだ。そうして私がちゃんとゆらぐことで、ようやく相手もゆらぐ。信者は自分の言葉が私たちを揺るがしていると気づいたときに、私たちの存在によって揺らぐことが出来る。論破して気付かせるのではなく、信者自身がゆらげるための土台になるのが私たちの役目であるあなたの目の前の信者を洗脳されたロボットとして扱うのではなく、悩んで迷ってきた一人の人間として信頼するということだ。

・脱会後の回復
①「生活の回復」
②「喪失感の回復」
③「正しさ依存からの回復」(脱却)

・どうやって勧誘されるのか
①春の一斉勧誘(新入生がキャンパスに現れる時期)
②通年の個別勧誘
 教室や食堂で一人でいたり、一人でキャンパスを歩いている学生に声かけ
③SNSを使った勧誘

・『「カルト」はすぐ隣に-オウムに引き寄せられた若者たち』江川紹子著

感想

統一教会関連の本 3冊(本の紹介&友だちの弟が統一教会脱会へ)
1)「愛が偽りに終わるとき」 山崎浩子著
   統一教会に入ったこと、脱退したこと
2)「我らの不快な隣人-統一教会から救出されたある女性信者の悲劇-」 米本和弘著書
   脱洗脳が上手く行き時と行かない時、韓国で暮らす女性それぞれの人生
3)「Nの肖像 - 統一教会で過ごした日々の記憶-」  仲正 昌樹
   統一教会に入会し、ドイツにも派遣され、韓国での集団結婚式にも出たが疑問に思い脱退した金沢大学の教授

 前から、宗教に入る方/宗教を学ぶ方は人生なんのために生きているのかを真剣に考えている人が多いのではないかと思っていましたが、この本を読みその考えを強くしました。
 ところが入るときにその宗教がどのような宗教で社会からどう評価されているかを知らずに入られている方が多いように思います。
 新興宗教の方が勧誘が積極的です。既存宗教はそれに比べると弱いようです。
 カルト宗教に誘われて入った人は、振り込め詐欺に遭遇したようなものかもしれません。振り込め詐欺だと騙されてすぐにわかりますが、カルト宗教はそれがなかなかわかり難く、分かった時点では「もう遅い」「この宗教の中でしか生きられないと思い込む」状態の人も多いかもしれません。
 無理やり脱会させても、その後やる気をなくしてしまうケースもあるようです。
す。
 事前にこのような本を読み、カルト宗教に対する免疫力を高めておくことが、自分がそういう宗教を選択しないよい方法かもしれません。
 誘われた宗教によって人生が変わることがなく、自分が選択できる知識と判断力を持ちたいと思いました。

何事にも白黒つけたい人は要注意「これでもう迷わずに生きていけると思った」 ごく普通の人がカルト宗教にハマる怖すぎる瞬間
瓜生 崇真宗大谷派玄照寺住職/PRESIDENT Online