・ホロコーストの体験は、人間として、国際法の教授として、人権法律家として、そして国際判事としての私に大きな影響をもたらした。そのときは自分では気がついていなかったとしても、過去の体験が、人権や国際法に私を惹きつけたことは、当然のことだったようにも思える。いずれにしても、過去の体験のおかげで、私はよりよい人権法律家になることができた。それが、たとえ、人権侵害の犠牲者になるということがどういうことかを理性だけでなく感情の面でも理解できるだけだとしても、私には、身体で感じることができるのだ。
・ある日、母がとても興奮した様子で帰ってきた。女友達と一緒に有名な占い師のところに行ってきたと話した。中へ入る前に母は結婚指輪をはずしていたし、母は実際の年齢よりもずっと若く見えたから-そのとき母は27歳だったのだが-占い師はカードをじっと見つめてから、母が既婚で子供が一人いると言い当てたのにはびっくりしたという。占い師は、母の家族のことをよく知っていただけでなく、息子はグリュックスキント、つまり幸運に恵まれた子供であると言った。その子は将来待ち受けているものから、何の傷も追わずに脱することができると。・・・
そのときはだれにもわからなかったけれど、その後何年もの間、特に離れ離れになっている間、占い師が僕について言ったことが母の希望をつなぐことになったのだ。そのことは、ずっとあとになってわかったのだが。戦後友人だちが、「トミーが生き延びることができたはずがない」と言って、母に探すのをあきらめさせて、それ以上自分を苦しめないように説得しようとしたときでさえ、母は自分には息子が生きていることがわかると言ったのだ。母は何年もあとに、占い師が語ったことはすべて現実になったと言い張った。
・家族みんなでポーランド人に成りすまして、ずっとそれを続けられるとは思えなかったし、家族が離れ離れになることは考えられなかった。僕たちはキエルツェに向かってさらに進むことにした。
僕たちは、僕たちであるために非難されていたのだから、見通しは明るくなかった。状況がよくなるように願う以外にできることはあまりなかった。その希望を僕たちは失わず、それから何年もの間、その希望が僕たちを支え続けた。
・僕たちは、1944年8月にアウシュビッツに送られるまでの約4年間、キエルツェに住んでいた。「住んでいた」というのはおそらく適当でなく、僕たちは、このくたびれた産業都市のゲットー(ユダヤ人強制移住地区)とふたつの労働収容所に閉じ込められていた。
・僕は司令官を見上げてこう言った。「大尉殿、僕は働けます」。司令官は僕をちょっと見て、「まあ、いずれわかることだ」と言い、僕と父にもといた列に戻るように指図した。
ウツェクとサレンカはほかの30人ほどの子供たちと一緒に、まず近くの家に閉じ込められ、それから午後遅くになってからユダヤ人墓地に連れていかれてそこで殺されたこととを、あとで知った。兵士たちは、子供たちを殺すのに手榴弾を使ったことをあとから聞いた。
・まもなく、僕も仕事を見つけた。両親は、ドイツ人の司令官は僕が働けると言ったため殺さなかったのだから、いつか彼がヘンリクフに視察に来て僕のことを聞くのではないかと恐れていた。
・僕たちの乗って列車がアウシュビッツ強制収容所の近くに着いたのは、1944年8月初めの、よく晴れた朝だった。あとでわかったのだが、そのとき僕たちはアウシュビッツから3,4km離れたところにあるビルケナウに向かっていたのだ。ガス室や火葬場が作られ、何百万人もの人が死んだのはこのビルケナウであった。
・男性は一方に、女性は反対側に整列するように命じられた。母とはここで別れ、数か月後にちらっと見かけた以外、2年半あとの1946年12月29日に再開するまで会うことはなかった。
・こうして僕には新しい名前ができた。B2930という名前が。・・・今でも左腕に残っている(入れ墨)。
・シュピゲールは自分が生きながらえるために、仲間のユダヤ人をゲシュタポに密告した。カポたちはナチス親衛隊の代理に成り下がり、仲間の被収容者の死を早めていると知っていながら、彼らを殴り、疲れ果てるまで働かせ、食事の配給を奪い取っていた。自分自身が生き残れる可能性を高めるために、強制収容所は密告者にもカポにもならない者の倫理を試す場所であっただけでなく、残酷な者ほど生き残れる実験室でもあったのである。
・父は定期的な選抜がどのように行われるかを見ていて子供が一番危ないということを知り、僕はできるだけ後ろのほうに、バラックの入り口の近くに立つようにした。点呼が終わって、選抜が行われそうな気配がみられたら、バラックにこっそり入って、そこに隠れるようにした。この方法で僕は何度も救われた。
・アウスビッツの空気は、火葬場の煙突から出る煙のせいでいつも悪臭が漂っていた。匂いも煙も、ビルケナウに新しく人々が運ばれて来たときが一番ひどかった。駅のプラットホームで行われる最初の選抜で落ちた人々がそのままガス室に送り込まれたからだ。夜に火葬場が稼働しているときは、その上の空が赤茶色になった。
・アウシュビッツ死の行進
「僕があきらめたら、「やつらが勝つ」と自分に言い続けた。僕にとって、生き続けることこそ、ヒトラーやナチス親衛隊、そしてナチの殺人機構を相手に戦うゲームだった。
・僕も、あと一日か二日のうちに死んで貨車から投げ捨てられるだろうと思い始めたころ奇蹟が怒った。列車が、何度も止まりながらチェコスロバキアをゆっくりと進むうちに、線路の上にかかる橋の上に大人や子供たちが立っているのが見えるようになった。彼らは僕たちに手を振って、大きな声で何かを言い、それから、パンがいくつも貨車に落ちてきた。・・・もしもチェコのパンがなかったら、僕たちは生き延びなかっただろう。
・医者は足の指を2本しか切断しなかったけれど、両足の他の指も、それほどひどくはないものの凍傷にかかっていた。その後数週間、彼らは他の指を救おうと頑張ってくれた。
・手術を受けてまもなく、ほかの患者を見舞いに来ていたある男性が、僕のベッドの横で立ち止まった。・・・彼はノルウェー一で、オッド・ナンセンという名前で、やはりノルウェー人の友人がこの病棟の、僕の近くのベッドにいるということだった。ナンセンさんは、数日後にまた来て、クッキーと大きな字の書かれた絵本と、鉛筆をくれた、「字を読むこと、書くこと、絵を描くことを覚えないと」と、彼は行った。それ以来、尋ねてくるたびに食べ物、たいていはお菓子を持ってきてくれた。・・・ときどき、ナンセンさんは、病棟の看護兵に何か(たいてタバコの葉か巻タバコ)を渡して、僕の面倒をよくみるようにと言っていた。
・ずっとあとになってから気づいたことだが、おそらくナンセンさんは命を救ってくれたのだ。バラックの看護兵に紙タバコや葉タバコを賄賂として渡して「末期の病気」の患者のリストに僕の名前が載らないようにしてくれていたのだ。
・そのうち、ナチス親衛隊の警備兵たちは、収容所だけが連合軍の空襲を逃れられる場所だと気がついた。そして、オラニエンブルグで空襲警報が鳴ると、警備兵たちの家族が収容所にやって来るという話だった。
・ユダヤ人孤児院は僕にとって、ひとつの人生からもうひとつの人生への中間点になった。
・孤児院の子供たちのほとんどは、戦争中ポーランドの家庭や修道院にかくまわれていた。その間、ものすごくひどい状況の中で生活していた子供もいた。同い年で親友になったタマラという女の子は、二年間ある家の天井の低い屋根裏に隠れていたが、その屋根裏の部屋は狭くて、歩くことも、立ち上がることさえできなかった。解放されたときには、彼女の足はひどく変形してしまっていた。
・院長先生が手紙を振りかざしながら部屋から走り出してきた。その手紙を見ると、すぐに間違いなく母の書いた字だと分かった。手紙は「私の大事なトミー君へ」と始まっていた。まさにそのとき、その場所で、母が生きていることがわかった。「お母さんが生きている!」。僕は何度も何度も自分にそう言った。それは、人生で一番幸せな瞬間だった。
・僕は飛び降りて母のところに走っていった。・・・「パパは?」と、僕はようやく聞いた。母はすぐに答えず、ただ頬に涙を流しながら、首を横に振るだけだった。その瞬間、僕には父が線背負うと生き延びなかったのだとわかった。僕と母にとって、戦争はようやく終わった。
・もちろん僕は、ムティ(母)がどうやって僕をオトフォッツクで見つけたのかを知りたかった。
どうやら、孤児院の指導員のローラは、言ったとおりに、僕をパレスチナへの移住を望んでいる子供のリストに載せてくれたらしい。このリストが、パレスチナのユダヤ人機関に送られた。そのころ、アメリカにいる叔父のエリックが、ユダヤ人機関が運営している捜索所に僕の名前を知らせていた。当時、何百万人もの人々が離れ離れになった親戚や友達を探していたにもかかわらず、ユダヤ機関の職員の一人が、事務所に届く膨大な数の捜索願の中に、ドイツにいるゲルダ。ビュルゲンタール夫人が子供を探しているという手紙があるのに気がついた。彼は、その子供ととまったく同じ名前を、数日前にパレスチナへの移住を望むポーランドの孤児院の子供リストで見たことを、どういうわけが思い出したのだ。まだコンピューターのない時代、捜索は手作業で行っていたことを考えると、ユダヤ機関のこの職員がこのように母と僕を結びつけることができたのは、ほとんど奇跡としか言いようがない。ムティが、僕たちがどうやって再開したかを語るたびに、それは「運命で決まっていたのよ」と言うのも。驚くことではなかった。「だって、キエルツェの占い師が、そう予言したんだもの」と、彼女は堂々と言うのだった。
ユダヤ機関はすぐにアメリカにいる叔父に連絡をし、叔父は母に知らせた。・・・
それから10年ほどたって、ムティは初めてイスラエルと訪れたとき、ユダヤ機関本部と書かれた建物の前を通った。彼女はためらわずに建物に入り、だれか責任者と話をしたいと言った。そして、自分と息子を再開させてくれたことに対して、ユダヤ機関に感謝を言いたいとのだおt説明した。・・・母は喜んで迎えられ、再開した家族がユダヤ機関にお礼を言いにきたのは、母が初めてだったということである。
・ナンセン様
突然の手紙で失礼します。数日前に、ノルウェーで今一番人気の本は、あなたが3年間ザクセンハウゼンに収容されていたときに書いた日記だという記事を読みました。僕もザクセンハウゼンにいました。名前はトミー・ビュルゲンタールと言い、その当時10歳でした。僕は診療所にいて、そこで足の指を2本切断しました。
それから、僕は、そこで出会ったノルウェー人について、その人がとても親切にしてくれたこと、僕のことをいろいろ助けてくらたこと、それなのに、その人の名前も住所も忘れてしまったことを書いた。
ナンセンと言う名前は、ぼくにはとても聞き覚えあり、この手紙を書くことにしました。・・・
僕には、その日記を書いた作者の住所はわからなかったので、「ノルウェーのオッド・ナンセン様」とだけ書いて送った。・・・
ある日、呼び鈴がなった。ドアを開けると、そこにはノルウェーの軍用車に乗ってきたノルウェーの兵士が立っていた。・・・兵士の一人が手紙を渡してくれた。その手紙は、「親愛なる、親愛なるとみー!」と始まっていた。
君の手紙が、どれほど私やほかのたくさんの人びとに幸せを運んで食らたことでしょう。・・・
・1949年にオッド・ナンセンの本がドイツ語に訳されると、序文には、本の収益はドイツ難民を援助するための基金に寄付すと、書かれていた。それを読んで、僕はなぜナチの強制収容所で3年も過ごした人が、ドイツ難民のことを心配するのだろうと考えた。けれど、時間が経つにつれ、ドイツ難民に人道的に接することが大事なのだと考えるようになった。それは、感謝されたいからとか自分たちがどんなに寛容な精神の持主かを見せたいからではなく、僕たちの経験をした人こそが、だれであれ助けが必要な人々に共感することができるからだ。そして、ナチが行った犯罪を命令したドイツ人や、実際にその罪を犯した人々は当然罰せられるべきだが、一般のドイツ人がただドイツ人だというだけで罰せられるべきではないと強く思うようになった。
・1970年に『トミー』という本がノルウェーで出版された。
ナンセンさんは、すぐに本を送ってくれた。
・ホロコーストで自分たちの身に興ったことを忘れずにいることは重要だけれど、僕たちにしたことの責任を、犯罪人の子孫に負わせないことも同じくらい重要だと説明しても、アメリカにいる私たちの親族や友人は、その意味を理解してくれなかった。そうしなければ、憎しみと暴力の悪循環は決して終わらないのだ。
・僕はドイツにいても自分は決して過去と決別することはできないだろうと思うようになり、いつか国外に移住したほうがよいと考えるようになっていた。
それに、アメリカにいる叔父や叔母が、いつもムティと僕にドイツを出てアメリカで暮らすように勧めていたので、将来についていろいろと考えさせられた。
・ムティがジャック・ローゼンホルツ氏と結婚して、彼と一緒にイタリアに行くことにしたので、僕にってはドイツを離れてアメリカに行きやすくなった。
・第二次世界大戦が終わり、収容所から解放されてから60年の間、どうして、そしてどうやって自分は収容所で生き残ることができたのだろうと、しばしば考えた。・・・。そして、いつも到達する結論を一言で表すならば、私は幸運だったということになる。けれど、幸運という短い言葉だけでは、私を生き残らせてくれた、いろいろな出来事の連鎖を言い表すことはできない。まず、キエルツェのゲットーや労働収容所では、父と母と一緒にいて、両親は私の面倒をみてくれただけでなく、生き残るために必要な基本的なことを身につけさせてくれた。アウシュビッツでも初めのころは、母と分かれたあとも父と一緒だった。父は私を守り続けてくれただけでなく、どうしたらガス室に行かずにすむかを教えてくれた。もちろん、アウシュビッツに着いたときに、死の選抜を受けることなく中に入れたのは大きな幸運だった。あのときに選抜が行われていたら、私は間違いなく収容所に入ることはできず、私の話もそこで終わっていただろうから。
アウシュビッツで一人になったとき、ザクセンハウゼンで私は少し成長していたから、本当の意味で収容所の子供、つまり、生き残るために必要な要領を身につけた子供になっていた。・・・
ドイツ語もポーランド語もなまりなく、上手に話せたこと、そしてユダヤ人に見えなかったことも、生き延びるためには好都合だったと思う。ドイツ語が話せたおかげで何度も助かっただけでなく、少なくとも私は、自分の「ドイツ人ぽい」顔つきのおかげで助かったと思っている。もしかしたら、私を見て、ナチの将校たちは自分の子供のことを思い出したのかもしれない。それで、キエルツェの収容所の司令官は、私が働けると言ったとき、私のことを生かしておこうと決めたのかもしれないのだ。ポーランド語を話せたことも、何度も大いに役立った。間違いなく、これらのことが組み合わさって、生き残る上で約二立ったのだ。そして、それらは、ほとんどが偶然のことだった。
・人権保護裁判官、あるいは調査官として行動しながら、私はわれわれ人間の何がそれほど残酷で残忍な-私は、人間が犯すこうした恐ろしい行為を説明するのに、あえて「非人間的」という言葉は使わない-行動に駆り立てるのだろうと考えていた。恐ろしいことに、多くの場合こうした行動をとるのはサディストでもない普通の人びとで、夜になれば家族のいる家に帰って手を洗い、まるでほかの人と同じような仕事をしてきたかのように、家族と一緒に夕食をともにするのだ。
・収容所の体験は、言うまでもなく、その後の私の仕事、そして人生に対する姿勢に影響している。
・ホロコーストの犠牲者の(銀行)口座の相続人を見つけることができたときは、チューリッヒの私たちの事務所にはいつも喜びがあるふれた。けれど、私たちが口座の所有権を認定する前に、相続するべき人が亡くなってしまったことを知ったときは悲しかった。多くの口座は相続人を見つけることができなかった。
・1990年代後半、私はクリントン大統領から、ワシントンにある合衆国ホロコースト記念協議会委員に任命された。そして、まもなく協議会の良心委員会の委員長になった。委員会の役割は、大量虐殺や仁るに対する犯罪を防ぐ努力を喚起し支援することで、自分たちのホロコースト体験を現在の現実と結びつけることである。
トーマス・バーゲンソール氏は、10歳でアウシュビッツ強制収容所に送られ、両親と生き別れになりながらも奇跡的に生き残った体験から、国際人権法の専門家を志しました。そして、人権法律家、教育者、国際司法裁判所判事として、ホロコーストのような人類の悲劇が繰り返されないよう尽力してきました。カンボジア、ルワンダ、ダルフール、バルカンなどで起きた恐ろしい人権侵害により、バーゲンソール氏の願いは度々打ち砕かれましたが、それでも氏は前向きな気持ちを失うことなく、国際法と人権の国際的保護のため、国際人権家として働きかけ続けています。
日本では、近現代の歴史認識をめぐる問題がいまだに揺れ動いており、繰り返し物議を醸しては、国内のみならず国際問題に発展しています。本講演では、歴史を風化させず継承することの重要性、また歴史の記憶の問題を私たちはどのように捉えればよいのか、バーゲンソール氏と共に考えます。
1934年チェコスロバキア生まれ。第二次大戦中、10歳でアウシュビッツ強制収容所に送られ、両親と離ればなれになるが、奇跡的に解放される。父親は収容所内で死亡したが、母親とは終戦後に再会。親戚を頼って17歳で渡米した。ニューヨーク大学法科大学院およびハーバード大学法科大学院にて博士号取得。専門は国際法と国際人権法。ジョージア州アトランタのカーター・センター人権プログラム・ディレクターなどを経て、2000年から2010年まで国際司法裁判所判事を務める。前・米州人権裁判所判事、国連人権委員会委員。強制収容所を一人で生き抜いた経験をつづったA Lucky Child(邦題:『アウシュビッツを一人で生き抜いた少年』朝日文庫、2012年、池田礼子・渋谷節子訳)は、世界数カ国で出版された。
2023年05月31日07時28分
感想;
2023年05月29日に89歳で亡くなられていました。
生き延びられたのは、生き延びるために必死で努力したことと、多くの幸運が重なったこと、そして助けてくれた人がいたことでした。
ヴィクトール・フランクルが(『夜と霧』の作者で、
ロゴセラピーを始めた)、強制収容所で何かその人の生きる希望を持ち続けることが過酷な状況で必要だと言っています。
希望を失うと強靭な体力がある人でも早く弱ってガス室に送られてしまったどうです。
希望を持ったから助かると言うことはないのですが、希望を持ち続けた人の方が生き残れたと。
ただ約600万人のユダヤ人が強制収容所で殺されました。
それ以外にもロマ人、反政府活動をした人々も収容されていたようです。
アメリカに行き、高校に入り、奨学金を得た大学に入って学びました。
奨学金がなければ、大学で学ぶことが出来ませんでした。
奨学金が学びたい人の大きな支援になっているのですが、日本の奨学金はほとんどがローンになっています。
・普通の人が残酷なことをしてしまうのです。
・残酷な人の子孫にまでその責任を負わせることはしない。
この二つの言葉は人の弱さと怖さ、そして未来のためにどうすべきかを教えてくれているように思いました。
敵(かたき)を取ると、その子孫がまた敵を取ります。悪の連鎖が続くのです。
どこかで断ち切らないといけないのです。