北の風に吹かれて~独り漫遊記~

町歩きを中心に、日々の出来事を綴ります。 
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啄木歌碑巡り~2~

2018-10-07 20:31:11 | 釧路&釧根地方
台風25号も温帯低気圧に変わって北海道から離れました。
釧路もすっかり風も収まり、穏やかな夜を迎えています。
JRの運休によりプライベートをキャンセルしてしまったのは残念だったけど、大きな影響が出なかったのは何よりでした。

ということで、釧路市内の啄木歌碑巡りの続きを。


グループ2「啄木来釧の記憶」


続いてのグループ分けは、啄木来釧の記憶を刻むべく、関係団体や個人が個別に建立した歌碑となります。





まずは、市内南大通にあるビルの前。
かつて生命保険会社の社屋として使われていましたが、現在は会社は移転しています。








「小奴(こやっこ)」とは、料亭「しゃも寅」の芸妓で、啄木の76日間の釧路滞在期間を語る上で欠かせない女性。





赤いシャツを着た怪しげな(?)男がカメラを向けている姿が写っていますが、気にしないで先に進んでくださいませ。
(黒にすればよかった・・・)





この碑には、三首の歌が刻まれています。
まず一つは、前回紹介した、佐野碑園に設置されているこの歌。





青で囲んだ

「小奴と いひし女の やはらかき 耳朶(みみたぶ)なども 忘れがたかり」

は、正に小奴について詠んだ歌。
啄木は、日誌の中で「小奴のカッポレは見事であった。」「小奴と云ふのは、今迄見たうちで一番活発な気持のよい女だ。」などと記しています。

黄色で囲んだ

「舞へといへば 立ちにて舞ひにき おのづから 悪酒の酔ひに たふるるまでも」

も、芸妓としての小奴の立ち振る舞いを表現した歌であることが想像できます。





小奴は、啄木離釧の後、母親の経営していた「近江屋旅館」を継承し、名を「近江ジン」と改めました。
「近江屋旅館」は、昭和37年(1962年)11月に閉館となり、小奴こと近江ジンさんはその3年後に亡くなられましたが、この碑は、その「近江屋旅館」のあった場所に、碑文のとおり建立されています。
現在はこのとおり、バス停の名前にもなっています。
(場所はこちら





続いてこちらは、4月に釧路に来て早々に紹介した「港文館」











教科書にも掲載されるほどの有名な歌ですが、このようなエピソードがあるということは、その舞台となった町に来てみないとわからない、大変興味深い話ですね。





続いては、「小奴の碑」からも近い、信用金庫支店の前。





「神のごと 遠く姿を あらはせる 阿寒の山の 雪のあけぼの」

啄木が76日間の滞在の末に釧路を離れる際、船上から見た景色を詠んだ歌とされています。
(場所はこちら





最後は、信用金庫の斜め向かいにある「啄木ゆめ公園」という公園。








ここにもこの歌の歌碑が設置されています。





なるほどそういう由来でしたか。
そういう由来だからこそ、啄木=釧路を最も印象付ける歌と言ってもよい「さいはての~」の歌碑を設置したということなのでしょうかね。
(場所はこちら
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啄木歌碑巡り~1~

2018-10-07 10:38:40 | 釧路&釧根地方
これまで何度か、釧路市内にある石川啄木関係のスポットについて紹介してきました。
その中で、啄木の歌碑についても紹介したことがありましたが、釧路市内には、啄木の歌碑が全部で26基あるとされており、そのうち25基がJR釧路駅より南側、さらにそのうち24基が、幣舞橋よりも南側の「橋南地区」に集中していることから、一度、既に行った場所も含めて、それらを一つ一つ回ってみるのも面白いと思い、行ってきました。

釧路駅よりも南の25基については、その背景などから4つのグループに大別できると考えられることから、ここでも、そのグループごとに纏めていきたいと思います。
※ グループ分けの基準は、「くしろ検定」公式テキストより引用。


グループその1「啄木ゆかりの跡地」





まず最初は、かつての「釧路停車場」があった「釧路市交流プラザさいわい」前。
昭和58年(1983年)に、釧路観光連盟が、啄木の足跡を跡づけることを目指して建立したもので、明治41年(1908年)1月21日の夜に旧釧路新聞社の記者、編集者として赴任した啄木が降り立った場所とされています。





「浪淘沙(ろうとうさ) ながくも声を ふるはせて うたふがごとき 旅なりしかな」

「浪淘沙」とは、「浪が砂を洗う」という意味だそうですが、唐の詩人である「白楽天」が、海辺の商人の妻が遠く故郷を離れた夫を思うという内容の詩で用いており、漂泊の憂いや、人生の流れの空しさを表現しているとされています。
このことを意識しての歌だとすれば、啄木自身の流浪の日々を表現しているものなのかなという気がします。
ここが「釧路停車場」の跡地ならば、ここに設置される歌碑は、有名な「さいはての 駅に降り立ち雪あかり さびしき町にあゆみ入りにき」であるべきなのではと思うかもしれませんが、その歌碑は別な場所に設置されていることから、「停車場」→「旅の舞台」→「啄木の流浪の日々」ということで、この歌が選定されたという解釈もできるのかもしれません。





続いては、右側のガソリンスタンドに注目。





なんとなんと、スタンドの敷地内に歌碑があります。

「十年(ととせ)まへに 作りしという 漢詩(からうた)を 酔へば唱へき 旅に老いし友」

ここで歌われている「老いし友」とは、釧路新聞社の理事で後に市長となり、啄木来釧の夜に自宅をあてた「佐藤国司」という人物を指すと言われています。





ここは、啄木が記者として赴任した「釧路新聞社」の跡地です。
(場所はこちら





続いては、まずは歌碑から。

「こほりたる インクの罎(びん)を 火に翳し 涙ながれぬ ともしびの下」

新聞社での勤務後、下宿に戻った啄木が、凍ったインクを火に翳すも、寒さのため溶けなかったという情景を、釧路の厳しい冬の寒さの象徴として表現したとされています。 





そう、歌の舞台となったとされる啄木の下宿が、この碑の場所にあったとされているのです。








現在地にある建物。
ホテルは今は営業していませんが、上層階はマンションとなっています。
(場所はこちら





続いてこちら。

「火をしたふ 虫のごとくに ともしびの 明るき家に かよひ慣れにき」

料亭に通う啄木自身を詠んだ歌とされています。





この碑がある場所は、啄木の釧路での日々を語る上で欠かせない、料亭「しゃも寅」のあった場所とされています。
(場所はこちら








このように、歴史を感じさせる散歩道として位置付けられています。





続いてこちら。

「あはれかの 国のはてにて 酒のみき かなしみの滓(おり)を 啜(すす)るごとくに」





「しゃも寅」と同様、啄木が通ったとされる料亭「喜望楼」があった場所に設置されているもので、啄木は、函館で所属していた「苜宿社(ぼくしゅくしゃ)」の同人である「大島経男」という人物に宛てた手紙の中で、「生まれて初めて酒といふもの飲み習ひ候わぬ」と記しており、その心情を詠んだ歌ということなのかなと思います。
この碑は、以前紹介した佐野碑園に設置されています。





このグループの最後は、

「一輪の 赤き薔薇の 花を見て 火の息すなる 唇をこそ思へ」

という歌。
この歌碑は、以前紹介した本行寺の入口に設置されており、「歌留多(かるた)寺」と呼ばれた本行寺での歌留多会で知り合った、梅川操という女性を詠んだとされています。
梅川操は、病院の看護婦でしたが、大変頭が良く、非常に警戒心の強い性格であったと言われていますが、この女性と、啄木の同僚であった釧路新聞の記者とが微妙な関係になり、そのことが、啄木の離釧の間接的な要因となったと言われていますが、その同僚を詠んだとされる歌の歌碑も別にあるので、その件はその歌碑を紹介するときにあらためて。
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