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幣舞橋を渡り、ロータリーを過ぎて春採湖方面へ向かう「富士見坂」という坂。
阿寒湖に近い「阿寒富士」を見渡せるというところから坂の名前がついたとされています。
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その「富士見坂」を登って行くと、右側に一つの銅像が建っています。
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それがこの像。
すみません、雪が残っていることからもお察しかと思いますが、撮ったのは釧路に来て間もない4月上旬です。
それはさておき、この人物は誰かというと、「嵯峨久」という、「釧路漁業の父」と呼ばれている人物です。
明治時代までの釧路の漁業は、無動力の帆船によるものが主流でしたが、大正時代の初旬に手漕ぎマグロ漁船の遭難事故が発生したことから、やがて漁船の動力化の機運が高まってきました。
そんな折りの大正3年(1914年)、秋田出身で、樺太や沿海州で漁業に従事した後に釧路に移住していた嵯峨久が、発動機新造船を釧路に導入して成功をおさめ、翌年には、「釧路鮪流網組合」を設立して組合長となり、釧路をマグロ漁で活性化させるきっかけを作りました。
この他にも、大正13年(1924年)には、生産者市場の開設を唱えて共同市場を開設したり、私財を通して、現在の釧路港副港地区(この辺り)に「嵯峨漁港」を開設するなど、正に現在に至る漁業基地釧路の礎を築いた人物なのです。
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そんな嵯峨の功績を称えて、昭和3年(1928年)に銅像の建立が決定し、同5年(1930年)に除幕されました。
太平洋戦争でその銅像は供出されてしまいましたが、昭和36年(1961年)に、最初の像の作者であった松村秀太郎の手で再建され、同年8月27日に落成しています。
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そんな銅像の右手に握られている物。
これは実は双眼鏡でして、銅像が現在地に建立されているのは、この地から釧路の港を見下ろすという意味合いがあるとされています。
そんな目的の象徴として、この双眼鏡も作られたということなのでしょう。
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なんだけど・・・、銅像から先を見ると、ご覧のとおりよく見えませんね・・・。
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ということで、急斜面のギリギリまで進んでみましたが・・・、ウーン、お住いの皆さんには大変申し訳ありませんが、マンションが・・・。
ま、それは言っても仕方がないですね。この銅像と、建てられた目的を知っておくだけでも、釧路の歴史に関する学習としては十分だと思います。
(この銅像の場所はこちら)