当別町内を散策したときの記事を何本かアップしたいと思いますが、まずは、色々な場面でエピソードが出てくる一族の関係施設から。
戌辰戦争で勝利した新政府軍は、関西から関東、東北、北海道までの幕府勢力を討滅する処分を取りましたが、かの伊達政宗に通じる伊達家一族が統治する仙台藩も大きな滅封を命じられたことから、北海道開拓に活路を見出そうとしました。
現在の宮城県大崎市に当たる岩出山の出身で、政宗の直径子孫に当たる伊達邦直が当別町へ入植し、これが、現在に至る当別町の開拓の礎となっています。
これは、「桃園」という号を持つ歌人でもあった邦直の、
「あそ山の しげる木立を ふみわけて 住み見し月の 今も替らず」
という歌。
この「あそ山」というのは、熊本県の阿蘇山のことではなく、町の北にある溶岩円頂丘の「阿蘇岩山」(アイヌ語で「柴の多い山」を意味する「アソ・イワ」が由来)のこととされています。
そんな伊達家にまつわる歴史資料が保存されている「当別伊達記念館」。
伊達邦直は、滅封によって家臣たちが路頭に迷うことを憂いて北海道開拓に志願し、石狩国空知郡、現在の奈井江町辺りの支配を命ぜられますが、そこは内陸で物資の輸送が困難であったことから、開拓使との協議により、日本海に面した、現在の石狩市聚富(しっぷ)と呼ばれる地域の荷揚場を使用することが認められました。
しかし、その聚富もまた、土質が悪く作物が育たないことから、近隣で代替地を検討した結果、当別町が適しているという結論に至り、許可を得たことから、明治5年(1872年)、邦直は当別町に入植することとなり、開拓使当別詰所設置に伴い、開拓七等属・開拓使勧業課当別在勤を命ぜられることとなりました。
記念館の隣には、「伊達邸別館」が設置されています。
明治13年(1880年)建築のこの別邸は、多くの名士来村の折の宿泊、懇談と村政執行のための諸会議に使用され、昭和55年(1980年)に当別町に寄贈され、修復工事などが行われ、昭和57年(1982年)11月にから一般公開されています。
洋風の部屋があったかと思えば、江戸時代を思わせる作りの部屋と、展示されている人物の姿が混在しているというのが大変興味深く感じられました。