地蔵菩薩三国霊験記 13/14巻の7/9
七、清和院の像
洛陽清和院は清和天皇の御開基なり。本尊は観音菩薩なり。堂中に延命地蔵尊を安んず。即清和皇帝の御長を模して六尺二分(約182㎝)なり。叡山一階僧正一刀三礼の刻彫なり。腹心に金泥の法華経八軸を篭られたり。御眼の瞳仏舎利なり。材木は鞍馬寺の毘沙門と一つ木なりとぞ。彼の縁起の中に毎月五日ずつ影向ましまして佛法擁護し玉ふと云々。地蔵毘沙門は一体分 . . . 本文を読む
地蔵菩薩三国霊験記 13/14巻の6/9
六、光勝寺の像
紫雲山光勝寺、四条坊門堀川通東入、極楽院空也堂(現在も蛸薬師通堀川東入亀屋町288に在り)の開基は延喜帝第二の皇子寛平法皇の御孫空也上人の草創なり。行状元亨釈書幷に彼の縁起を尋ねて知るべし。地蔵御座すは定朝法師の作なり。子細ありて人王六十六代一條院の御宇に平定盛入道の安置し玉ふなり。此の本尊は修羅の苦を除き玉ふ方便を現じ玉ふ奇瑞古今新た . . . 本文を読む
地蔵菩薩三国霊験記 13/14巻の5/9
五、汁谷福田寺の像
洛東汁谷東臺山福田寺(現在の京都市下京区の時宗 東岡山 福田寺)は往昔尊氏将軍文和四年(1355年)十一月二十八日に加賀爪甲斐の権の守行貞隠岐守秀村二人の寄進せるらるる地なり。古は六條の末東山汁谷妙法院御門跡の境内なりしが天正の比(1573年から1592年)洛中の寺院を遷す事ありて唯今の地になりき。凢そ當寺の本尊は参議小野篁の作なり . . . 本文を読む
地蔵菩薩三国霊験記 13/14巻の4/9
四、祇園仲源寺の像
祇園仲源寺(仲源寺は、今も京都市東山区にある浄土宗の寺院。山号は寿福山。本尊は地蔵菩薩。目疾地蔵とも称されて眼病に霊験があるとして信仰されている。観音堂は洛陽三十三所観音霊場第16番札所)の地蔵尊は人王六十六代彼の一條院の御宇(在位:986年〈寛和2年〉- 1011年〈寛弘8年〉)法橋定朝の作なり。抑々當寺の濫觴を尋ねるに人王八十五 . . . 本文を読む
地蔵菩薩三国霊験記 13/14巻の3/9
三、紙屋川地蔵院
長安城北野大将軍地蔵院(京都市北区大将軍川端町2. 地蔵院(椿寺))の本尊は往昔行基菩薩一刀三礼して御長六尺二分(約182㎝)に刻み給所なり。靈験無双の御佛なり。古は内野と云所にありて堂舎歴々として僧衆群居り明徳の比(1390年から1394年)数度の乱逆により哀しむべし焦土となんぬ。せれども佛の威神の力、火も焼くことあたはず、刀杖も加 . . . 本文を読む
地蔵菩薩三国霊験記 13/14巻の2/9
二、六地蔵の権興(起こり)
大相国禅門浄戒(平清盛)は位進み家榮へて一天を掌の中にし、四海泰平を吟じければ此の間の兵乱に罪障のほども怖ろしく思はれければ、御長六尺(182㎝)の地蔵を造立し奉り六十六箇國の亡魂を弔ひ、同じく相応の寺を立て軍類兵難の苦患を助ばやと思立玉ひけるが亦打ち反して思惟し玉ひけるは、其の寄附の地は王土なり。入道の私領にはあらず。世の . . . 本文を読む
地蔵菩薩三国霊験記 13/14巻の1/9
地蔵菩薩三国霊験記巻十三
一親の為に身を賣事
二六地蔵の権興(起こり)
三紙屋川地蔵院
四祇園仲源寺の像
五汁谷福田寺の像
六光勝寺の像
七清和院の像
八清水寺、将軍地蔵の事
九満米法師の事
地蔵菩薩三国霊験記巻十三
一、親の為に身を賣事
平の京五條坊門大宮の旁に藤原源五之任とて俗一人ありき。親の譲り抜群にして家具 . . . 本文を読む
地蔵菩薩三国霊験記 12/14巻の6/6
六、印佛利益の事
古近江國蒲生と申す所に(滋賀県東近江市)京四条東洞院よりくだりて住みける女房あり。心賢くなさけもふかければ國中には名を得たる女人なり。されば夫にをくれて尼となりければ四条の尼公とぞ申し呼びける。徳孤ならず(「論語」里仁)して人皆かしずき侍る。世に隠れ無き地蔵信者なりき。家中の人にも地蔵を信ずる人をばありがたきこととに思て大方の科もゆる . . . 本文を読む
今日は高野山明王院学僧忠義の示寂された日
以下密教大辞典等に依ります。
忠義・・高野山明王院の学僧。讃岐の人。高野山明王院勝義の室に入り事相を研磨。かって御社に詣でて印言黙祈す。傍に一客僧あり、大般若経筐に踞す、忠義師は大般若経筐を拝して後、客僧に告げて言ふ、『子の踞するものは大般若経筐なり』と。客僧云く『大般若経の上に大般若経を重ぬ、何の妨げかあらん』と。忠義師即ち客僧の膝上に踞す、客僧痛に . . . 本文を読む
地蔵菩薩三国霊験記 12/14巻の5/6
五、僻む者は必ず罰を蒙る事
伊賀國河井と申す旁に(河合村は三重県阿山郡にあった村。現在の伊賀市の北部)藤原則春(のりはる)と云ふ有徳の仁あり。本は京都の高家の人にてありけれども乱世にをちぶれて地下に交りけるこそ本意なきことなり。されば源遠くなるままに末孫は土民の縁となる。然りと雖も一跡の地頭となるほどに公方にも知られたる人にぞ侍りける。されば心賢くして . . . 本文を読む
扶桑略記(高野春秋には二十二日となっていますが扶桑略記では道長の参拝は二十三日となっています)
(治安三年1023十月)「同十七日、入道前大相國紀伊金剛峯寺に詣ず・・二十三日払暁、廟所に詣ず。是に於いて山窟雲晴漢天雨晴なり。法華経一部般若理趣経丗部を供養す。權小僧都心誉講師となる。今事情を案ずるに弘法大師は密教の祖師、智証大師の外舅なり。今講師は智証大師の門徒、顕密に兼長す。屈す . . . 本文を読む
地蔵菩薩三国霊験記 12/14巻の4/6
四、灯明の功徳、身より光を放つ事
豊後の郡司の妃、宿縁多幸にして何心もなき五歳の時、御乳(乳母)が膝の上にあそびけるに客人来たりて、南無地蔵と申しけるを聞き、初めて口真似しけること日夜に止ることなし。去る程に父母不思議の思を成して地蔵の形像を造り奉りあたへけるほどに、妃いよいよ悦て礼拝し恭敬し奉る事かぎりなし。其の後灯明を奉ることを見習 . . . 本文を読む
地蔵菩薩三国霊験記 12/14巻の3/6
三、佛の大慈は親子を念ふに似たると示し給事
上野國小原の御庄中里(現在の群馬県神流町か)と申すに古き堂舎一宇屁べり。本尊は通身の地蔵菩薩にて在す。往昔には霊験まして人の渇仰もありき。さるほどに寄附の田地も巨多なりしを近年世末代になりもてゆきて、寺領も人に給はりければ、寺舎荒廃して棟梁苔に埋もれ、人の敬ふ荘厳こそかつて絶え果て便宜のよきさまなるときは狼藉 . . . 本文を読む
地蔵菩薩三国霊験記 12/14巻の2/6
二、家内の病悉除の靈験
中古平の京西七條に源蔵師親と申す有徳の仁侍りき。七珍求るに皆家内にそなはり万宝尋れば悉く庫の内に篭たり。されば数万の商人は重宝を売りて門を出で、百千の家属は利物を荷って内に入り何の乏しきことなくありけれども涌出の宝を一つも所持せざりければ長者の名は許されざりき。内々清水寺観音と地蔵菩薩とを深く信じたてまつりければ此の佛の利生にて . . . 本文を読む
二宮尊徳は安政三年1856十月二十日、七十歳で下野国今市村(現在の栃木県日光市)の報徳役所にて没しています。
経世済民を目指して報徳思想を唱え、報徳仕法と呼ばれる農村復興政策を指導したとされます。
数々の名言を残されています。ウキぺデアには以下のような言葉が紹介されていました。
積小為大(せきしょういだい) ...
大事を成さんと欲する者は、まず小事を務むべし。 ...
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