結論は「太子が子孫を絶やす算段をされたから」となります。
徒然草第六段「わが身のやんごとなからんにも、まして、数ならざらんにも、子といふものなくてありなん。」に以下のようにあります。
「前中書王(兼明親王(914~987)子は源伊陟)・九条太政大臣(藤原良経、子は六人)・花園左大臣(源有仁、子は四人)みな、族絶えん事を願ひ給へり。染殿大臣(藤原良房(804~872)子は明子。養子に基経)も、「子孫おはせぬぞよく侍る。末のおくれ給へるは、わろき事なり」とぞ、世継の翁の物語には言へる(大鏡、実際には記述はない)。聖徳太子の、御墓をかねて築かせ給ひける時も、「こゝを切れ。かしこを断て。子孫あらせじと思ふなり」(「聖徳太子傳暦・太子47歳の条」に「此の処必ず断、彼の処必ず頸歟 令応絶子孫之湲」)と侍りけるとかや。」