今朝いつものように修法をして字輪観のところへきて自分の身も心も無限だったのだ、と改めて思い至りました。字輪観では自分の心・体の上にそれぞれ順逆に阿字諸法本不生不可得・嚩字言説不可得・囉字塵垢不可得・訶字因業不可得・佉字等空不可得と瞑想して行きます。昨年九月も同じように突然ありがたい瞑想に耽れたのですがその時は、心身共に無限無尽の縁にとりかこまれているというありがたさでした。今回は少し違って、衆生の個々の心身が即ち大日如来である、と繰り返しおしゃっている御大師様のお言葉が少し生で感じられる気がしたのです。誠に恐れ多いことですが・・・。
御大師様は「奇哉の奇、絶中の絶なるはそれただ自心の仏か(十住論)」「刹塵の渤駄はわが心の仏なり。海滴の金蓮はまたわが身なり(自心は無数の仏達であり、自身は両部の仏達である。「秘蔵宝鑰」)「座を起たずして金剛すなわちわが心、三劫を経ずして法身すなわちわが身なり(「大日経開題」)」・・」等とくりかえし衆生の心身が仏であるとおっしゃっています、いままでは全くこの実感は湧きませんでしたが今日ほんの少しだけ実感めいたものがわきました。記念すべき日です。
あすからお彼岸で、彼岸会法要をするとお墓に五輪塔を立てます。この五輪塔がまさにこの心身が大日如来であることを死者と生者に説法しているのです。