横田南嶺老大師の「人生は礼拝行」との法話がありました。
大要以下のようなものです。
「公案を頂いて老師に参ずるとき何度も礼拝する、公案の答を持って行っても老師はにべもなく鈴を鳴らして追い払われるのみ、これを繰り返しているうちに、公案に答えることよりも老師に参ずる時の礼拝にこそ深い意味があるのだと悟った。
これを人生に当てはめると得るものがなくても拝むことそのものが人生ではないのか。
法華経の神髄が「常不敬菩薩品」の二十四文字(注1)にあるといわれるのもその意味であろう。」
(注1)「我深敬汝等 不敢軽慢 所以者何 汝等皆行菩薩道 當得作仏」(我は深く汝等を敬い、敢えて軽慢せず。所以は何ん、汝等は皆菩薩道を行じて、当に作仏することを得べければなり)。
人生には有為転変がありますが如何なる時も結果如何を問わず日々拝んで過ごせば、そこにこそ人生の奥深い真実がある、人生は拝むことそのものである、拝んだことの結果、拝んだことによるお陰はそもそも拝めたことそのものである・・ということでもあるのでしょうか。