日本書紀・持統天皇4年(690)のところに、筑後国上陽郡(今の八女市)の住人大伴部博麻という稀代の愛国者の事が記録されています。
持統天皇の大伴部博麻に対する詔勅です。
「乙丑(いっちゅう)に、軍丁筑後国上陽郡の人、大伴部博麻(おおとのべのはかま)に詔して曰く『天豊財重日足姫天皇(あめとよたからいかしひたらしひめのすめらみこと、斉明天皇)の七年に百済救済の戦役でお前は唐軍の捕虜となった。天命開別天皇(あめみことひらかすわけのすめらみこと、天智天皇)の三年になって土師連富杼(はじのむらじほど)、氷連老(ひのむらじおゆ)、筑紫君薩夜麻(きくちのきみさちやま)、弓削連元宝児(ゆげのむらじげんぽうじ)の四人が唐の計略を報告しようと考えたが(互いに捕虜の身の上で)衣服も食糧もないため報告できないことを悔やんでいた。そのとき大伴部博麻は土師連富杼(はじのむらじほど)らに語って『私もあなたたちと共に本国に帰還したいが、衣糧がないため一緒に行けない。私が奴隷に身売りするのでどうか衣糧にあててほしい』といった。富杼らは博麻の計画通りに日本の朝廷に通達することが出来た。お前ひとりその後、長く他国に留まり、今年で三十年になる。私はお前が朝廷を尊び、国を愛し、自分の身を売って忠心を現わしたことを喜ばしく思う。(「汝ひとり他界に淹滞〈えんたい=長い間とどまる〉すること今において三十年なり。朕、その朝を尊び国を愛し、己を売りて忠を顕せることを嘉〈よみ〉す・・「尊朝愛国(そんちょうあいこく)売身輪忠(ばいしんゆちゅう)」として八女市の碑に刻まれています。」)。それゆえ務大肆(従七位下)の位とあしきぬ五匹、綿十屯、布三十端、稲千束、水田四町を与える。この水田は曽孫まで傳よ、また三族の課役を免除しその功績を顕彰する。』」
7世紀、朝鮮半島では高句麗、新羅、百済の三国時代が続いていましたが、660年唐が新羅と手を組み、百済を攻め滅ぼします。中大兄皇子は662年、唐に対して百済復興のため大軍を百済に送り込みます。 663年、朝鮮半島南西の白村江にて日本・百済連合軍と唐・新羅連合軍の戦いが起こり、日本・百済連合軍は大敗します。
この時捕虜となった者に筑紫の国の大伴部博麻というものがいました。彼は唐の都に送られました。
折しも長安には、遣唐使で来ていた、土師連富杼(はじのむらじほど)、氷連老(ひのむらじおゆ)、筑紫君薩夜麻(きくちのきみさちやま)、弓削連元宝児(ゆげのむらじげんぽうじ)の四人も、捕虜になっていたのです。ある日4人は、唐が近く大軍を起こして日本を伐つ計画があるという風評を耳にしました。一刻も早く祖国に急報しなければならないと、4人はあせりましたが捕虜の身ではお金もなく方策がありません。そこで大伴部博麻は自分の身を売って金策し、4人に日本へ帰ってもらいました。
四人は博麻を売った金を旅費に当て、日本に帰り、一切を朝廷に申し上げました。そのとき日本は天智天皇の御代になっていましたが、急報を受けた朝廷は大変驚き、筑紫に水城(みずき)を、讃岐の屋島には城を、河内と大和のさかいにも高安の防城を構築して防備をかためました。
奴隷の身となった博麻は、つてをたより、持統天皇の4年9月、30年ぶりで故国の土を踏むことができました。そのことが朝廷に伝わると、持統天皇は、博麻に「汝独淹滞他界。於今舟年矣。朕嘉厥尊朝愛朝愛国売己顕忠」(汝ひとり他界に淹滞〈えんたい=長い間とどまる〉すること今において三十年なり。朕、その朝を尊び国を愛し、己を売りて忠を顕せることを嘉〈よみ〉す)」としていうさきの詔勅を下されました。
「愛国」の語の始まりはここにあるとされます。結果的には大国唐の侵入を受けずにすんだのは、以前にも百済の乞いで出兵したとき、“日本あなどり難し”の思いを起こさせたことや、急報に接して国内防備を固められたこと、などによりるのではないかとさされています。文久年間にこの大伴部博麻を顕彰する碑が地元(福岡県八女市)に建てられ、現存しているようです。
(参考。日本書紀の該当部分。「持統四年十月乙丑(690、十月二十二日)、詔軍丁筑紫國上陽郡人大伴部博麻曰「於天豐財重日足姬天皇七年、救百濟之役、汝、爲唐軍見虜。洎天命開別天皇三年、土師連富杼・氷連老・筑紫君薩夜麻・弓削連元寶兒、四人、思欲奏聞唐人所計、緣無衣粮、憂不能達。於是、博麻謂土師富杼等曰『我欲共汝還向本朝。緣無衣粮、倶不能去。願賣我身以充衣食。』富杼等、依博麻計、得通天朝。汝獨淹滯他界、於今卅年矣。朕、嘉厥尊朝愛國・賣己顯忠。故、賜務大肆、幷絁五匹・綿一十屯・布卅端・稻一千束・水田四町。其水田、及至曾孫也。免三族課役、以顯其功。」)
持統天皇の大伴部博麻に対する詔勅です。
「乙丑(いっちゅう)に、軍丁筑後国上陽郡の人、大伴部博麻(おおとのべのはかま)に詔して曰く『天豊財重日足姫天皇(あめとよたからいかしひたらしひめのすめらみこと、斉明天皇)の七年に百済救済の戦役でお前は唐軍の捕虜となった。天命開別天皇(あめみことひらかすわけのすめらみこと、天智天皇)の三年になって土師連富杼(はじのむらじほど)、氷連老(ひのむらじおゆ)、筑紫君薩夜麻(きくちのきみさちやま)、弓削連元宝児(ゆげのむらじげんぽうじ)の四人が唐の計略を報告しようと考えたが(互いに捕虜の身の上で)衣服も食糧もないため報告できないことを悔やんでいた。そのとき大伴部博麻は土師連富杼(はじのむらじほど)らに語って『私もあなたたちと共に本国に帰還したいが、衣糧がないため一緒に行けない。私が奴隷に身売りするのでどうか衣糧にあててほしい』といった。富杼らは博麻の計画通りに日本の朝廷に通達することが出来た。お前ひとりその後、長く他国に留まり、今年で三十年になる。私はお前が朝廷を尊び、国を愛し、自分の身を売って忠心を現わしたことを喜ばしく思う。(「汝ひとり他界に淹滞〈えんたい=長い間とどまる〉すること今において三十年なり。朕、その朝を尊び国を愛し、己を売りて忠を顕せることを嘉〈よみ〉す・・「尊朝愛国(そんちょうあいこく)売身輪忠(ばいしんゆちゅう)」として八女市の碑に刻まれています。」)。それゆえ務大肆(従七位下)の位とあしきぬ五匹、綿十屯、布三十端、稲千束、水田四町を与える。この水田は曽孫まで傳よ、また三族の課役を免除しその功績を顕彰する。』」
7世紀、朝鮮半島では高句麗、新羅、百済の三国時代が続いていましたが、660年唐が新羅と手を組み、百済を攻め滅ぼします。中大兄皇子は662年、唐に対して百済復興のため大軍を百済に送り込みます。 663年、朝鮮半島南西の白村江にて日本・百済連合軍と唐・新羅連合軍の戦いが起こり、日本・百済連合軍は大敗します。
この時捕虜となった者に筑紫の国の大伴部博麻というものがいました。彼は唐の都に送られました。
折しも長安には、遣唐使で来ていた、土師連富杼(はじのむらじほど)、氷連老(ひのむらじおゆ)、筑紫君薩夜麻(きくちのきみさちやま)、弓削連元宝児(ゆげのむらじげんぽうじ)の四人も、捕虜になっていたのです。ある日4人は、唐が近く大軍を起こして日本を伐つ計画があるという風評を耳にしました。一刻も早く祖国に急報しなければならないと、4人はあせりましたが捕虜の身ではお金もなく方策がありません。そこで大伴部博麻は自分の身を売って金策し、4人に日本へ帰ってもらいました。
四人は博麻を売った金を旅費に当て、日本に帰り、一切を朝廷に申し上げました。そのとき日本は天智天皇の御代になっていましたが、急報を受けた朝廷は大変驚き、筑紫に水城(みずき)を、讃岐の屋島には城を、河内と大和のさかいにも高安の防城を構築して防備をかためました。
奴隷の身となった博麻は、つてをたより、持統天皇の4年9月、30年ぶりで故国の土を踏むことができました。そのことが朝廷に伝わると、持統天皇は、博麻に「汝独淹滞他界。於今舟年矣。朕嘉厥尊朝愛朝愛国売己顕忠」(汝ひとり他界に淹滞〈えんたい=長い間とどまる〉すること今において三十年なり。朕、その朝を尊び国を愛し、己を売りて忠を顕せることを嘉〈よみ〉す)」としていうさきの詔勅を下されました。
「愛国」の語の始まりはここにあるとされます。結果的には大国唐の侵入を受けずにすんだのは、以前にも百済の乞いで出兵したとき、“日本あなどり難し”の思いを起こさせたことや、急報に接して国内防備を固められたこと、などによりるのではないかとさされています。文久年間にこの大伴部博麻を顕彰する碑が地元(福岡県八女市)に建てられ、現存しているようです。
(参考。日本書紀の該当部分。「持統四年十月乙丑(690、十月二十二日)、詔軍丁筑紫國上陽郡人大伴部博麻曰「於天豐財重日足姬天皇七年、救百濟之役、汝、爲唐軍見虜。洎天命開別天皇三年、土師連富杼・氷連老・筑紫君薩夜麻・弓削連元寶兒、四人、思欲奏聞唐人所計、緣無衣粮、憂不能達。於是、博麻謂土師富杼等曰『我欲共汝還向本朝。緣無衣粮、倶不能去。願賣我身以充衣食。』富杼等、依博麻計、得通天朝。汝獨淹滯他界、於今卅年矣。朕、嘉厥尊朝愛國・賣己顯忠。故、賜務大肆、幷絁五匹・綿一十屯・布卅端・稻一千束・水田四町。其水田、及至曾孫也。免三族課役、以顯其功。」)