福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

坂東観音霊場記(亮盛)・・・25/31

2023-08-25 | 先祖供養

 

坂東三十三所観音霊場記巻之九

第廿七番銚子飯沼(現在も第27番は飯沼山円福寺(飯沼観音))

下総國海上郡銚子浦飯沼山圓福寺は弘法大師の開基、本尊十一面観自在は海中より出現の像、漁夫両人の感得也。伽藍初建之檀主、海上長者の某也。人王四十五代聖武帝の御宇神亀五年戊辰(728)の春、銚子の浦俄に荒出し漁夫等一の小魚も不得こと已に両三月に曁ける。實に前代未聞の不猟と浦人怪しみ患る所に、五月上旬に至り鼓が淵の澚の方、海上一里余程にして、毎夜に光の出る所あり。其形の大さ鯨に肖て其の光も彼汐を吹くが如し。倏箭の如く天に衝き登り、遥の空中に旋轉して、暁の比に至て物を投が如く飛下り、元の海中へ収り没。此の奇事浦里に蓋(かくれ)なく、夜夜濱邊に群集すれども曽て其の故を知る者なく、唯只管(ただひたすら)に怖れ入りける。虎を暴にする勇士も、河を憑する侠者も、彼に至て質見る者なし。然るに一人の漁夫が夢に青衣を著たる官人来たり。汝常陸の朝来へ往て牛堀の漁夫長蔵を勾引、彼と共に同舩に乗、海中の光出る所に至り、怖れず網を卸して試むべし。實に稀代の獲物有ん。必ず両人の外を交ざれ、と。漁夫夢覚めて怪ながら、夜中に小舟を用意して、急ぎ坂東太郎を漕上る。利根川以東の諸流を呑んで東國無雙の大河なり。仍って坂東太郎と号す。径一里余、縦数十里、海へ落る所を銚子口と云。其の流れ落ちる水音、甲乙あり。故に土俗、鼓が淵と云。明亘て向を見れば同く漁夫躰の者なるが、唯一人舟を颿(はやめ)て漕下る。銚子の漁夫此に借問すれば、彼答て云、我は牛窪の漁夫

長蔵なり、夜前奇なる夢の告げにて、銚子の浜邊へ尋行くべし、と。已に舟を乗過んとす。銚子の漁夫是を聞て、某も夢想の事につき、貴方の許へ参者と相互に夢の符節を合せ、両人彼の夜光の所に至り、意に諸天神祇を念じて網を下して試みけるに、その重さ両人の力に堪ず、流汗兎角して引上れば、十一面観世音菩薩、瓔珞荘厳の妙相を具し、手印持物等は常の如く、左手に紅蓮華軍持を執り、右の臂に数珠を掛け、及び施無畏の手を作る也。別に左の脇に馬脳石を挾むは此の像異相の三摩耶形也。二人身も浮くほどに感涙し、我等何なる宿縁有てか、斯る叵有(ありがた)き尊像を得奉ると。頓て浦里に告て拝さしむ。此地たるや東南は海、北は坂東太郎の大河、晝夜に響の浪の音は、無明の睡をも覚べきに、還て殺生造悪の媒とす。海面の忽ち曇、忽ち晴は無常迅速の理と知べきに、却って有猟不猟の事を占ふ老若共に寝ても寤ても殺生無慈の業耳を計る。斯る邊鄙穢悪の大悲の像を流現し玉へるは、實に無刹不現の誓ひ、惟仰で信ずべし貴むべし。

銚子の濱邊に𦾔大沼あり。沼の水、盈減有て汐の如し。漁夫等、沼に就いて假屋を造り海中感得の像を安置す。然るに一夜大に風起こり雨降て沼の中雷の如く鳴り響く。浦人膽を寒し、神(たましひ)を飛ばす。翌日雲晴て沼を見るに、交飯(赤飯)を盛たる瑠璃の鉢、沼の中水上に充満たり。倏ち亦水鳴浪逆立て件の器皆水底に沈入る。尒後亦先の如く沼荒て青色の衣冠を著たる人、瑠璃の鉢に精飯を盛副(もりそゆ)るに冷煖の鈴一箇大悲の像前に捧て去る。乃ち浦人是を評して曰、右皆龍神の所為ならんと。沼の中の飯器の浮出けるを、遂に名付けて土地を飯沼と云。此沼自ら埋り陸と成ぬ。今の伽藍の境地即ち是なり。彼の飯沼の米五七粒、冷煖の鈴瑠璃の鉢本尊持物の馬脳石、于今遺て當寺の什寶なり。

聖武帝の天平年中行基大士勅を蒙り諸州に國分寺を建玉ふ

時に當國葛城郡に在して、此地の奇特を聞及れ、手親ら一の寶龕を造り爰に送て大悲者へ献じ玉ふ。漁夫等是を喜所に僅に数分の差にて尊像龕戸を入り玉はず。大士是を聞いて此に錫を飛ばし、像に対して作礼持念し玉へば、尊像忽ち光明を放ち御首を低て寶龕に入玉ふ。大士を始め拝見の道俗、特に渇仰の信を増しける。嗚呼貴哉繪木の形像、是法然真佛の法門、誰か此に疑念を懐んや。今尚尊像其代の侭にて、帳中に首を低て在し玉ふ。此像の海より出現の時、左の脇に馬脳石を抱玉ふ。凢情を以て冥應叵議(はかりがた)けれども、今敬んで謂に、石の性は重して水に沈み、衆生は罪重して苦海に沈む。斯の石の如く罪重の苦海に沈む衆生を洩らさず浄土の岸へ濟上んとの救世の悲願を示し玉ふ乎。馬脳は七寶の随一なればば、凢夫所具の佛性を表する乎。摩婆羅伽隷、此には碼碯と云ふ。此の寶色馬の脳の如し。因て以て名と為す。又、馬脳堅實なるに取る。赤白色あり、琢て器と成すに文有り。纏絲の如し。花厳音に云く、按ずるに馬脳は梵音に之を阿湿嚩掲波(あしゅうばきゃば)と謂ふ。阿湿嚩此は馬と云ふ。掲波は脳なり。蔵也。若し阿湿嚩掲波と言は、

此には石蔵と云。此の寶、白石の中より出つ。故に應に石蔵寶と言也。

 

巡禮詠歌「類なき 恵みを何と飯沼の ふかき誓は 汲人ぞしる」上の句は大悲の尊像出現の所由は無比不可思議の方便にして、凢舌を以て叵演(のべがたし)言となり。下の句は沼の深を弘誓の海に譬ふ。汲人ぞ知るとは、此の像専信の者を指す。知る人ぞ知るの佳語あり。其の古歌の意味にて解べし。

當寺本尊感得の漁夫二人同じく剃髪し、飯沼の清六は観清、朝来(いたこ)の長蔵は音長と名付相共に大悲堂に居住して生涯、香華燈の供僧と成る。然るに両人大悲の冥加にや、諸人の病を加持するに、十に八九不痊者なし。中にも飯沼の観清は鬼瘧(おこり)を呪するに玅あり。是の故に土人瘧除法師と云。今境内に此の木像を安んず。瘧を疾む者祈るに必ず験あり。

始め本尊御首を低れて自ら寶龕に入玉ふ時、左の脇の馬脳石を放て寶龕の戸外に置玉ふ後に本尊の靈告に依て是を瀧蔵権現と祭り、舩中守護の神社と崇む。銚子の浦鹿嶋の灘は、東海廻舩の大難所なり。故に舩頭皆當寺に帰依して、海上無難の加護を祈る。唐人は舩神をぼさとと云。是媽祖の神霊なり。本唐の福建林の女、海中へ没して靈魂神と成、誓て渡海の舩を守る。仍って天妃の尊号を諡す。素是観音の化身なり。故に唐人菩薩祭と称す(華夷通商考に出)。唐人は菩薩と云ひ、和人は舩玉と云ふ。或舩頭の曰、舩玉明神の告は舩に依て吉凶換る。舳に勇に凶あり吉あり。艫(へさき)に勇に凶あり、吉あり。夜前舩玉舳に勇玉ふ。我舩に於いては凶に告げなりと、快晴の日に舩を出さず。舩中の旅客怪む所に、果たして猛風起て波浪怒り、晴天曇て暴雨頻なり。舩玉神霊の勇声は恰も松虫の鳴が如し。啼くと云は忌辞なれば、聞好いさむと云。松虫轡虫の聲に似たれば舟夫の外は聞けども知らずと也(佛神感應録)。

真言家は舩祭の法有り。弘法大師唐より渡天の時、文殊より相傳の大事也。即ち五帝龍王を祭る也。又寶鑰(秘蔵寶鑰)の序文に曰、阿遮一睨すれば業壽の風定まり、多隷三喝すれば無明の波涸れぬ(此の文を舩中の守札とす也)(訳。不動明王がひとにらみすれば、過去世からの業もなくなり、降三世明王が吽字を三回唱えれば、根源的な無明はなくなる。)

大同年中、弘法大師東國を徧歴し玉ふ時、此の地に至って此の像を拝せられ、殊勝の尊容に在せども、惜哉海中出現の侭にして尊像荘厳全からずと。手親ら座光等を

具へ玉ふ。爰に海上氏の富家あり。國中是を海上長者と云ふ。厚く此の尊像に帰依して、金銭材穀を寄捨し、大悲の御堂構営を企ける。長者幸いに大師を請して結界地鎮の法を修し、遂に梵刹を拓き、蓮宮を造る(本尊出現より数十年の間、漁夫が所造の假屋に立せ玉ふ。弘法大師に至て始めて地を結界して、佛閣を造改む。故に大師を開基の祖と稱する也)。是當地精舎の初建にして修瑜伽道場の濫觴なり。是の時、大師彫刻の佛菩薩、書寫の経巻等、千歳の于今相傳る也。

 

 

 

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