福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

第十八 十縁生句章(「真言宗義章」真言宗各派聯合法務所編纂局 1916)等より・・19

2019-01-19 | 頂いた現実の霊験

第十八 十縁生句章(「真言宗義章」真言宗各派聯合法務所編纂局 1916)等より・・19

(行者の修行が熟してくると様々の不思議がおこるがこれに捉われてはならない。大日経では、こういう不思議現象に実体はないとして、「幻と陽炎と夢と乾闥婆城と響と水月と泡と虚空華と旋火輪」の如しと戒めている。こういう法験には実体はないと見極めてさらに無上菩提を求めるべきである。)

三密の修行、稍や熟するに及びては或は水火を履み虚空に昇る等、種々未曽有の法験現前す。是れいまだ無上真言の悉地にあらず。世間有相の悉地なり。真言行者若しこれらの法験に遇へばややもすれば愛慢の執を生じて進修を退しやすし。進修を退するが故に遂に無上菩提を証することあたわず。大日経の中に心垢浄の方便を説いて曰はく「若し真言門に菩薩の行を修する諸の菩薩、十縁生句を深修し観察して當に真言門において通達し作証すべし、云何が十となる、謂く、幻と陽炎と夢と乾闥婆城と響と水月と泡と虚空華と旋火輪との如し。」(大毘盧遮那成佛神變加持經卷第一入眞言門住心品第一「祕密主若眞言門修菩薩行諸菩薩。深修觀察十縁生句。當於眞言行通達作證。云何爲十。謂如幻。陽焔。夢。影。乾闥婆城。響。水月。浮泡。虚空華。旋火輪。」)

術士あり、種々の人・物・鳥獣等を現じ刀を呑み火を咋ひなどして人を惑はすを幻といふ。これらの所現は皆幻の因縁に属して実体あることなし。真言行人、水火を履み虚空に昇り種々の異相を現ずるの法験を得たる時、須らくこの幻の喩を取りて所生の無自性を観ずべし。熟空塵の三縁合するが故に忽ち荒野に水相を現ず、これを陽炎といふ、真言行人、道場に坐してまのあたり本尊海会微妙荘厳の相を感見せんとき、須らく此の陽炎の喩えに依りて三力和合の因縁を観ずべし。夢中において種々の国土に遊びて種々の苦楽を受く、是れ皆一心の変作にして実境に非ず、是を夢といふ。真言行人三昧に入りて或は十方の佛刹に行き或は六趣の上界に遊びて広大の仏事を行ずることあらんに須らくこの夢の喩えに就いて心外無法の理を観ずべし。一室に明鏡を懸けたるがごときは美醜男女の相等同時に鏡中に映ず、しかも鏡中の相は不可得なり。之を影といふ。真言行人時に或は曼荼羅を感見せん、端厳の相あり、忿怒の相あり、男子の相あり、女人の相あり、須らくこの影の喩えを思ひて定鏡所現の影像の不可得を観ずべし。尋香神あり花香を尋ね行き神通力をもって花下に厳麗の宮殿を現じ多くの眷属と俱に音楽を奏して嬉遊し興尽きぬれば去りて他の村中に入るに前の宮殿はけむりの如くに消えて迹方もなし。之を乾闥婆城といふ。真言行人、道場観に入る時一宇の華頓に開けて密厳華蔵に変じ天楽鳴り天華雨り、微妙の荘厳頓喩ふるに物なからん、須らくこの乾闥婆城の喩えを思ひて所現の密厳の非有非仮有の義を観ずべし。深山空谷の中に於いてこのところに呼ぶ声あらば彼ところに答ふるあり、之を響といふ。響全体空寂なり。真言行人、定中において時に或は諸仏の説法を聞き又魔軍の叫喚を聞き、歓喜恐怖交々起こりて定心を擾さんとするとき、須らくこの響の喩に住して塵佛一如、自心空寂の体を観ずべし。一翰の桂月澗底に落ちて珠玉の如し、猿候これを取らんとして水に溺る、これを「水月」といふ。真言行人、三密寥寥たる時、本尊の浄月来たり照らさんに須らくこの水月の喩えを念じて不取不捨の観に住すべし。天雨濠濠として池水に注ぐ時、大小千万の泡現ず。而も一味の浄水を出でず、之を泡といふ。真言行人無方の神変を待たらん時は須らくこの泡の喩に寄せて一味の浄心を観ずべし。翳眼の人は空裡に花の乱るるを見れども浄眼の者は之を看ず。之を空華といふ。真言行人種々の瑞相を感ずる時須らくこの空華の喩を以て本来不生の大空を観ずべく、人あり闇夜に火烬を旋転するに輪の相現ず、幼児これを見て実の輪ありと思へり。之を旋火輪といふ。真言行人、字輪を観じていささかの妙を自得せば能く一音を転じて無量音とし一義を演べて無量法となすことを得、須らくこの旋火輪の喩を観じて彼の一字輪無相の理に悟入すべし。之を十喩の観といふ。ただ遮情の方便とにみ思ふべからず、 彌彌よ観ずれば彌彌よ深くして其の源底を測り知るべからず、一切如来の普賢色身の功徳、皆この法門によりて得たまへり。故にその実義を究むるに至りては独り如来の知見あるのみ。大疏に曰く「唯し如来のみいまして、乃能くこの十喩をきわめて其の源底に達したまふ」(大毘盧遮那成佛經疏卷第三「 入眞言門住心品第一之餘「故名爲不思議幻。如四諦者。餘一切法門例耳。是故唯有如來。乃能窮此十喩。達其源底」。)とこの意あり。真言行人見聞触知の境に随ひて常に心をこの観門に遊ばしめ深く縁生無性の理を観ずる時は世間の利衰毀誉称賛苦楽の八風に動ぜられんず。菩提心の勢力を得て三妄執を払ひ、本有の万徳を聞きて二利の妙薬は無礙なきことを得ん。故に菩提心論に云はく「妄心若し起こらば知って随ふことなかれ、妄若し息むときは心源空寂なり、万徳ここに具し妙用無窮なり」 (金剛頂瑜伽中發阿耨多羅三藐三菩提心論「妄心若起。知而勿隨。妄若息時。心源空寂。萬徳斯具。妙用無窮」)

 

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