4、登壇受戒
・(大師二十歳、延暦十二年、西暦七九五年。)・・槇尾寺(和泉市槙尾山町、西国四番)、ここで勤操大徳に従い出家され、名を教誨とされる。後に自ら如空と称される。(高野大師御廣伝)
・(大師二十二歳、延暦十四年、西暦七九八年、四月九日)・・東大寺戒壇院、唐僧泰信を戒師として具足戒を受けられ空海とされます。(高野大師御廣伝)
・延暦十六年(西暦七九七年)『三教指帰』を著され「軽肥流水を看ては電幻の歎き忽に起こり、支離懸鶉を見ては 因果の哀しみ休せず。だれかよく風を繋がん(現世で不条理な運命に泣いている人々を見れば因果の哀れさに心が休まる時がない。出家の志は風を止めることができないように誰も止めることはできない)」と書かれました。
・(大師二十歳、延暦十二年、西暦七九五年。)・・槇尾寺(和泉市槙尾山町、西国四番)、ここで勤操大徳に従い出家され、名を教誨とされる。後に自ら如空と称される。(高野大師御廣伝)
・(大師二十二歳、延暦十四年、西暦七九八年、四月九日)・・東大寺戒壇院、唐僧泰信を戒師として具足戒を受けられ空海とされます。(高野大師御廣伝)
・延暦十六年(西暦七九七年)『三教指帰』を著され「軽肥流水を看ては電幻の歎き忽に起こり、支離懸鶉を見ては 因果の哀しみ休せず。だれかよく風を繋がん(現世で不条理な運命に泣いている人々を見れば因果の哀れさに心が休まる時がない。出家の志は風を止めることができないように誰も止めることはできない)」と書かれました。