福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

般若心経講義 高神覚昇  その3

2013-08-24 | 法話
書物の題とその内容 およそ「題は一部の惣標そうひょう」といわれるように、書物の題、すなわちその名前というものは、その書物が示さんとする内容を、最もよく表わしているものです。もっとも今日、店頭に現われている書物のうちには、題目と内容とが相応していないどころか、まるっきり違っているものも、かなり多くありますが、お経の名前は、だいたいにおいて、よくその内容を表現しているとみてよいのです。たとえば、経典のうちでも、特に名高いお経に、『華厳経けごんきょう』というお経があります。これはわが国でも、奈良朝の文化の背景となっている有名なお経なのですが、ちょうど『心経』を詳しく『般若波羅蜜多心経』というように、このお経を詳しくいえば、『大方広仏華厳経だいほうこうぶつけごんきょう』というのです。さてこのお経は仏陀ぶっだになられた釈尊の、その自覚さとりの世界を最も端的に表現しておるお経ですが、その「大方広」という語ことばは、真理ということを象徴した言葉であり、「華厳」とは、花によって荘厳しょうごんされているということで、仏陀への道を歩む人、すなわち「菩薩ぼさつ」の修行をば、美しい花に譬たとえて、いったものです。で、つまり人間の子釈尊が、菩薩の道を歩むことによってまさしく真理の世界へ到達された、そうした仏陀のさとりを、ありのままに描いたものが、すなわちこの『華厳経』なのであります。
 法華経のこと ところで、この『華厳経』といつも対称的に考えられるお経は『法華経ほけきょう』です。平安朝の文化は、この『法華経』の文化とまでいわれているのですが、この『法華経』は、くわしくいえば『妙法蓮華経みょうほうれんげきょう』でこれは『華厳経』が、「仏」を表現するのに対して、「法」を現わさんとしているのです。しかもその法は、妙法といわれる甚深微妙じんしんみみょうなる宇宙の真理で、その真理の法はけがれた私たち人間の心のうちに埋もれておりながらも、少しも汚されていないから、これを蓮華れんげに譬えていったのです。
 いったい蓮華は清浄しょうじょうな高原の陸地には生はえないで、かえってどろどろした、汚きたない泥田どろたのうちから、あの綺麗きれいな美しい花を開くのです。「汚水どろみずをくぐりて浄きよき蓮の花」と、古人もいっていますが、そうした尊い深い意味を説いているのが、この『法華経』というお経です。自分の家を出て他所よそへ「往ゆく」その時のこころもちと、わが家へ「還る」その気もち、真理を求めて往くそのすがたと、真理を把つかみ得て還るその姿、若々しい青年の釈尊と、円熟した晩年の釈尊、私はこの『華厳経』と『法華経』を手にするたびに、いつもそうした感じをまざまざと味わうのです。
 右のようなわけで、お経の名前は、それ自身お経の内容を表現しているものですから、昔から、仏教の聖典を講義する場合には、必ず最初に「題号解釈だいごうげしゃく」といって、まず題号なまえの解釈をする習慣ならいになっています。で、私も便宜上、そういう約束に従って、序論はしがきとして、この『心経』の題号なまえについて、いささかお話ししておきたいと存じます。
 般若ということ さていま『般若波羅蜜多心経はんにゃはらみたしんぎょう』という字の題を、私はかりに、「般若」と、「波羅蜜多」と、「心経」との、三つの語に分析して味わってゆきたいと存じます。まず第一に般若という文字ですが、この言葉は、昔から、かなり日本人にはなじみ深い語ことばです。たとえば、お能の面には「般若の面」という恐ろしい面があります。また謡曲うたいの中には「あらあら恐ろしの般若声はんにゃごえ」という言葉もあります。それからお坊さんの間ではお酒の事を「般若湯はんにゃとう」といいます。またあの奈良へ行くと「般若坂」という坂があり、また般若寺というお寺もあります。日光へゆくとたしか「般若はんにゃの滝たき」という滝があったと思います。こういうように、とにかく般若という語は、われわれ日本人には、いろいろの意味において、私どもの祖先以来、たいへんに親しまれてきた文字であります。しかし、この般若という言葉は、もともとインドの語をそのまま写したもので、梵語サンスクリットでいえばプラジュニャー、巴利パリー語でいえばパンニャーであります。ところで、そのプラジュニャーまたはパンニャーを翻訳すると、智慧ちえということになるのです。智慧がすなわち般若です。しかし、般若を単に智慧といっただけでは、般若のもつ持ち味が出ませぬから、しいて梵語の音をそのまま写して、「般若」としたのであります。こんな例は、仏教の専門語にはたくさんありますが、いったい一口に智慧といっても、その智慧には、いろいろな智慧があります。「智慧のある馬鹿に親爺おやじは困りはて」という川柳がありますが、あの智慧のある馬鹿息子むすこがもっているような、そんな智慧は決して、般若の智慧ではありません。元来、仏教ではわれわれ凡夫の智慧をば仏の智慧と区別して、単に識しきといっております。
 愚痴と智慧 その識とはつまり迷いの智慧のことです。愚痴という智慧が、この識です。愚痴の痴はやまいだれに知という字ですから、つまり智慧が病気にかかっているわけです。したがって、それはもちろんほんとうの智慧ではありませぬ。いったいものの道理を、真に辨わきまえないから、いろんな悶もだえ、悩み、すなわち煩悩ぼんのうが出てくるのですが、愚痴は、つまりものの道理をハッキリ知らないから起こるのです。で、人間が仏陀になることを、識を転じて智を得るといっておりますが、それは結局、迷いを転じて悟りを開くということと同じ意味で、要するにわれわれ迷いの人間が、悟れる仏陀ほとけになるということです。ところで、ここにいう般若の智慧とは、決して愚痴といわれ、識といわれる、人間のもっているあさはかな智慧ではないのです。それは知らざるもの、眠れるもの、迷える人間の智慧ではなくて、知れるもの、目覚めたるもの、悟れる人の智慧です。それは宇宙の真理を体得した、仏陀(覚者)のもてる智慧です。真理の智慧、真理を悟った智慧、それがとりも直さず般若の智慧であります。
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