福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

今日は疫病により法勝寺で仁王経を転読した日

2024-12-06 | 法話

 

 

史料綜覧巻五 / 建治三年(1277)十二月六日庚申条

「六日庚申 自来十日三箇日 法勝寺に於いて仁王経(注1)を転読すべきの由宣下さる(注2)。 今秋己来 天下病患流布の故也<或記には春夏よりと云ふ> 死人道路に満つる者。(注3)」

  • 仁王経について

密教大辞典によると以下のようにあります。

「・・・大師が弘仁元年十月二十七日に上表せる「国家の為に修法を請ふ表」の中に「・・其の将て来る所の経法の中に仁王経・守護國界主経・佛母明王経(佛母明王大孔雀経)等の念誦の法門あり。佛、国王のために特に此の経を説きたまふ。七難を摧滅し四時を調和し、國を護り、家を護り、己を安むじ、他を安むず。此の道の秘妙の典なり。」といわれ、仁王経護国品に「爾時世尊、波斯匿王等諸大國王に告げたまはく、「諦聽諦聽、我汝等が為に護國の法を説かん。一切の國土、若し亂んとする時、諸災難あり、賊来りて破壊せん。

汝等諸王、応に當に此般若波羅蜜多を受持讀誦すべし。道場を厳飾し百の佛像を置き、百の菩薩像・百の師子座を置き、百の法師を請じ、此經を解説せしめよ。諸座の前に種種の燈を燃やし、種種の香を焼き、諸の雜花を散じ、廣大供養し衣服・臥具・飮食・湯藥・房舍・床座、一切を供事して、毎日二時に此經を講讀せよ。若しは王・大臣・比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷、聽受讀誦して如法修行せば災難即滅す」と説き、

奉持品に「佛、波斯匿王につげたまわく「我滅度の後、法滅んと欲する時、一切有情は惡業を造るが故に、諸國土をして種種の災を起らしむ。諸國王等は、自身・太子・王子・后妃・眷屬・百官・百姓・一切國土を護せんがためには、即ち當に此の般若波羅蜜多を受持すべし、皆安樂を得ん。我是の經を以て国王に付囑し、比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷に付せず。所以いかん。王の威力なければ建立不能なるがゆえなり。是の故に汝等、常に當に受持讀誦解説せよ。大王よ、吾今、所化するところの大千世界に百億の須彌、百億の日月あり。一一の須彌に四天下あり。此贍部洲に十六の大國、五百の中國、十萬の小國あり。是の諸國中に若し七難起れば、一切國王は除難のためのゆえに、此般若波羅蜜多を受持解説せよ。七難即滅し國士安樂ならん。」と説けるを本拠とす。

この法は弘法大師上表されて国家平安の為、弘仁元年十一月一日より高雄山寺にて修せれ、その後天長二年に東寺講堂創建以後は毎度同講堂にて修せられたるが如し。東寶記に「仁王経毎度講堂に於いて之を修せらる。法三宮御記(法三宮真寂撰「不謹鈴等記」)には、真言最初場、公家御祈、大師始令行之、霊験尤有之、真言最初場、公家御祈、大師始めて之を行ぜさせらる。霊験尤もこれあり。護摩壇・実恵大徳、十二天・真濟、聖天・真雅。」(「東寺沿革略史」に「淳和帝の天長年中、高祖大師勅に依りて、親しく導師となり、大師の長足実恵大徳は護摩壇師となり、真済大徳は十二天供師となり、真雅僧正は聖天供師となりて、帝威倍増、海内無事、五穀成就、万民豊楽の為めに講堂に道場を荘厳して、仁王護国の秘法を厳修し奉る。」)

 

(注2)天皇は後宇多天皇。鎌倉幕府将軍は惟康親王、執権は北条時宗。

文永の役(1274年)直後の建治元年には 時宗が蒙古襲来に備え九州探題(鎮西探題)を設置しています。

(注3)

建治四年には疫病で建治から弘安へ改元しています。当時は蒙古対策と疫病飢饉対策と大変だったことが分かります。改元の日より半月前の建治四年1278二月十三日には、日蓮上人が松野氏にあてた手紙の中に「日本国数年の間、打ち続きけかちゆきて衣食たへ、畜るいをば食いつくし、結句人をくらう者出来して、或は死人・或いは小児・或いは病人等の肉を裂取りて、魚鹿に加へて売りしかば、人是買くへり、また去年の春より今年の二月中旬まで疫病国に充満す。十家に五家、百家に五十家、皆やみ(病み)死、或いは身はやまねども心は大苦に値へり」とあるようです。

 また、中原師守の日記「師守記」には、改元の年の弘安元年1278六月二十二日の条に「被立廿二社奉幣使、依天下疫疾事也」とあります。

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