以下「国民の遺言」によります。
「陸軍工兵上等兵 川口熊市命。鉄道第六連隊 昭和十二年十一月二十日支那山西省蘆家荘にて戦死。三重県阿波村出身。(以下は、この父のことを長男の川口忠信が回想した文章です)
「僕の父は僕がまだ生まれてない時、中国で戦死しました。それで父も僕の顔を見ず、僕も父の顔を写真でしか知らないのです。父がいないため、母は大変苦労をされました。学校の教員になり伊賀上野で家を借りて勤めに出られたりしましたが、やがて郷里の阿波村に帰り村の小学校に勤めていられたのです。
その頃の事です。丁度僕が二年生の冬のことです。乱暴だった僕は、学校の近くにあった炭がまの上で遊んでいて、かまの中に落ちて大火傷をしました。母は夜も眠らないで僕を看病してくれました。
こんなに苦労多く、父亡きあとの負担も多かったのか、病気になり、とうとう肺炎で昭和二十二年五月十五日に母は祖父母のもとで息を引きとったのです。この五月十五日は何と不思議なことに僕の誕生日なのです。生まれ乍に父を知らず。母にはわずか十年で死に別れなければならなかった僕は何と不孝な宿命をになっていたのでしょう。母が死んだ後、僕は祖父母のもとで手伝を一心にして、やっと中学の三年生になりました。祖父母のおかげです。しかし、楽しい時も僕の自慢話を聞いてくれる父がいません。悲しい時も僕を慰めてくれる母がいません。そっと川辺にたたずんで、
「お父さあん」
「お母さあん」
と呼んで、涙が僕の心をおさえ、言いたいことは冷たい星空に向かって話しました。
お父さん、お母さん、どうか天から僕をお守り下さい」