福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

観音經功徳鈔 天台沙門 慧心(源信)・・10/27

2024-11-20 | 諸経

観音經功徳鈔 天台沙門 慧心(源信)・・10/27

十、劉澄水難を遁るる事幷風難の事。姫殺害を遁るる事。二鬼羅刹の事。亡魂の事。

大唐に劉澄と云人は広州といふ國に行くとき舩に乗り海中にて大風に値ふなり。其時船中にて観音の名号を唱ふれば風静まり波平たり。たちまちに二人の船頭が来てともに立ちてふねををして安穏に岸に著くなり。たち還てあとを見れば舩もなく人も無し。又餘のふねどもは皆海中に沈むなり。ありがたきことと思ひて即ち出家して観音に帰依するなり云々。道冏(どうけい)と云人孟津といふ浦を三人連れでとをるに氷の上を渡るに氷砕けて前に行くものもしずみ後にゆくものも沈むなり。道冏は一心に観音を念ずれば氷は板を蹈ごとく安穏にして向岸にいたるなり。餘に殊勝に思ひその夜は終夜一心に観音を念じ奉る。正しく我が持尊の観音の頂より赤色の光明を放ち道冏の頂を照らし玉ふなり。此等は事相の水難を遁るる証拠なり。

さて観解の水難とは此れも前の火難のごとく三つあり。果報・悪業・煩悩の三なり。一には果報の水難といふは劫末三災の中の水難なり。このときも観音の力によって遁るべきなり。二には悪業の水難といふは生死の大海なり。我等衆生は煩悩の水に溺れて生死の大海に沈むなり。而るに事相の水に溺るるは唯一旦の難義なり。三、煩悩水にをぼれて生死の大海にしずまん事は難義の中の難義なり。仍って観音を念じ奉ってたちまちに生死の大海をわたり安養浄刹の彼岸にいたるべきなり。

「若有百千萬億衆生。爲求金銀琉璃車渠馬瑙珊瑚虎珀眞珠等寶。入於大海。假使黒風吹其船舫。飄墮羅刹鬼國。其中若有乃至一人。稱觀世音菩薩名者。是諸人等。皆得解脱羅刹之難。以是因縁名觀世音。」是は風難の文なり。寶を求めんが為に龍宮へ入るに付いて天台の釋に、海に七の假寶あり、百二十の真寶ありと釈し玉へり。假寶は所用にあらず。真寶を求めんがために龍宮にいるゆへに真珠等寶といふなり、文の如し。両巻の疏にいはく、外国に百余人師子國より海に流て扶桑國の南に向かふ。たちまちに悪風にあふて鬼國に飄堕す。すなはちことごとく食せんとす。一の舩人恐怖して皆観音の名号を称す。中に一人の沙門ありて観音を信ぜず、称名を肯はず。鬼沙門を索す。沙門狼狽てすなはち称を學ぶにまた解脱することをえたりといへり。是は事相の風難をのがれたる相なり。観の解に約するときは煩悩の悪風に放なたれて牛頭馬頭阿防羅刹の國におもむくとも観音を念ぜばたちまちに此の難をのがるべきなり。

「若復有人。臨當被害。稱觀世音菩薩名者。彼所執刀杖。尋段段壞。而得解脱」此の文は刀杖を遁るる文なり。「刀杖尋段段壞」とは一刀を以てきるに其の太刀をるるゆへに又別の太刀にて切り又折るゆへに刀尋段段壞とはいふなり。両巻の疏に見へたり。太刀折れる事大唐の晋の太元年中(376年 - 396年)に彭城といふ都(現在の江蘇省徐州市。紀元前205年に項羽率いる楚軍と劉邦率いる漢連合軍との間で彭城の戦があった)に観音を信仰する人あり、金を以て小き観音を造り我が髪中に入れて常に供養し奉るなり。或時彼の人王命に背きて死罪に行れんと欲す。太刀を以て頭を切るに髪の中に聲ありて、あらいたやといへば即ち太刀折れたり。又別の刀にて三度まで打つに皆折れたり。不思議の事なりとて其の過を許されたるなり。かの人家にかへり髪中より観音を取り出して見れば三つきずあり。彼の人涙を流しいふやう、設ひ我が身命は失せたりともくるしからざるに観音に疵をつけたてまつること深重の罪業なりとてそれよりいよいよ精進して供養し奉るなり。又同年中に高旬栄と云ふ人あり。是も王命に背き死罪に行るとき観音を念じて刀三つに折る。是もやがてたすけらるるなり。此の事を殊勝に思ひ身を売りて塔を立てて観音を供養したてまつるなり云々。ある伝記の中に見へたり。昔大唐の有る国に一人の臣家あり。一人の姫をもちたり。此の姫三歳の時母におくれてやがて継母に添ふなり。月日もすぎゆくほどに年十三になるなり。天下無双の美人なれば帝王是をきこしめし及ばれて太子の后に備へらるべきよしさたせらるるなり。継母此の姫いよいよにくむゆへに或時父にいふやうは、是の姫には忍び妻ありといふなり。父之を聞きて不実に思ふ處にかの継母この男を頼みて其の暁、姫の寝屋よりいたして是を父に見せたり。父之を見てさては誠なりと心得てやがて人に云付けて害させたり。山のをくへつれてゆきていはをの上にて害して頭を切りて父の方へわたすなり。父頭を見てやがて埋むなり。折節帝王かの山へ御狩りにいで玉ふに、岩尾の上を見玉へば十二三計(ばかり)の形美しき女人一人居たり。何物ぞと尋ね玉へば上件の事を語るなり。頭を切りたりと思へども死なずといふ。帝これをきこしめして不思議に思召連れて王宮に御帰りありて、やがて帝より勅使を下して臣家に尋ね玉へば姫は死して無しと申し上ぐるなり。さては其の死骸を参ぜよとありければ、土をほりて見れば頭は無く観音經の切たるが半分あるなり。是を帝へ上るなり。又姫も観音經半分切りたるを持ちたり。其れを引き合わせて見れば中より切れたる經なり。そのとき何事に是の如くあるぞと問玉へば、姫のいはく我は六の年より観音を信仰申して朝夕此の經をよみ申すなり、といふ。帝此の由を聞し召して殊勝に思召し、やがて太子の后に備玉へり云々。

又我が朝には平の盛久なり。(「盛久の頚座〔鎌倉にある碑文〕」主馬盛久ハ主馬入道盛国ノ子ニシテ平家累代ノ家人ナリ、然ルニ平家滅亡ノ後京都ニ潜ミ年来ノ宿願トテ清水寺ニ参詣ノ帰途北条時政人ヲシテ召捕ヘシメ鎌倉ニ護送シ文治二年六月此地ニ於テ斬罪ニ処セラレントセシニ奇瑞アリ宥免セラレ剰ヘ頼朝其所帯安堵ノ下文ヲ給ヒシト言ウ。昭和十年三月   鎌倉町青年団建)(盛久の話は此の外能「盛久」や観音靈験記にもあり)これ等は皆観音を念じて刀杖の難をのがるる証拠なり。両巻の疏にいはく、罪業の衆能く善業の身命を傷る。煩悩の六塵三毒を皆刀箭と名くといへり。(觀音義疏卷上「惡業亦能傷善業身命。煩惱六塵三毒等皆名刀箭」)。事相の刀杖の難といふはわずかに一世の身を殺害するなり。さて煩悩悪業の刀は生々世々の佛身を殺す也。されば三毒強盛にして悪心の起こるとき、観音を念じたてまつれば煩悩悪業の刀杖を免れ二世安楽の寿命をたもつべきなり。ある人の歌に「思ひきる こころの劔 一つだに有らば 浮世の緤(つな)は ものかは」已上。

我一心の刀を以て妄執の緤を切るべきなり。

「若三千大千國土滿中夜叉羅刹。欲來惱人。聞其稱觀世音菩薩名者。是諸惡鬼。尚不能以惡眼視之。況復加害。」此の文は鬼難なり。甫にいはく、羅刹は是人を喰ふ鬼なり。人の屍若し臭きをよく脱して喰なり。舍鮮復精気を噉ふ鬼なり。人の心中にも七の滞あり、尽くれば即死すといふ。羅刹は鬼の惣名なり。此の羅刹に付いて食人鬼奪精鬼といふて二つあり。人には三魂七魄(三魂は天魂、人魂、地魂。 天魂は死んだら天に帰る気、人魂は墓に残る気、地魂は地に帰る気。 七魄は喜、怒、哀、懼、愛、惡、欲。 怒、哀、おそれ、愛情、憎、欲望)とて七の魄あるなり。若し人悪事を好まば彼の奪精鬼が来て七魄を一月に一つ゛つ奪ふなり。若し善根を修せば魄を奪事之無き故に壽命長遠なり。さて七つある魂を六つ奪はれて終に一つ残る時に頓死するなり。此の如く鬼ども国土に充満して多き事客塵の如しといへり。此の如く多き鬼ども観音を念ずる人をば障碍すること能はず。あまつさへ悪眼を以て見ること能はず。況や害を加へにゃといふなり。この奪精鬼と云は人の身中に入って鬼病となり、人をなやますなり。之に付きて天竺毘舎離國に五種の温病はやるなり。その五種といふは眼に物を見ず、耳に物を聞かず、鼻に物をかがず、舌に物の味を受けず、身にも人をふるるを覚へざるなり。

 

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