業と非業との矛盾がそのまま自己同一であるといふと、ここに問題が出る。これは善悪を無視すること、・・道徳的無政府観である、・・佛教そのものもなくなる、即非の論理もなにもあったものではないと云ふことになるのではないか。業即非業で、善悪無記(無記とは善悪のどちらでもないもの)もが一つになると、道徳的責任者なるものもなくなるのでは、放縦不羈、社会もなにもあったものでないではないか。・・即非の論理を余り振り回すと佛教は佛教にあらずで、何の縛り付けもなくなる。これはどうしたらよいのかといふ問題が自ずからでてくる。これは畢竟するに何れも知性面に居る限り出てくる問題で、霊性的自由の立場では何にも苦にならぬ閉葛藤であるが、とにかく次の一条の話題を紹介します。(・・唐の百丈懐海が「不落因果」と云って野狐に堕した僧を、「不昧因果」(因果を昧まさず)と教えて、救ったという問答を出し)この問答の意味は次のやうです。悟った人は因果の運行に随順してその身を任せます。因果と自分を一つのものにします。因果を昧まさず、といふのは此の義です。(不落因果という場合は)自分と因果を離れ離れにしているのでその間に落/不落の問題が出てきます。人間は道徳的行為の主体であるが、それと同時に因果の法則そのものであるのです。行為の他に因果があってそれが行為の上に加わるのではない。それ故人間として生活している限り、業は人間につきものである。修行の有無,悟道の如何などによりて因果が外に離れるべき性質のものではないのです。因果は元来、落も不落もないのです。・・・霊性的自覚の上では因果はないのであるから、野狐禅の僧のように二元的観察を遣ってはいけないのです。(因果は自分自身でもあるので離れるとか昧ますとかいう問題では無いということです。俗人は「二元的」世俗の価値にしがみついたまま死んでいきますから、和泉式部の歌「くらきよりくらき道にぞ入りぬべき遥かに照らせ山の端の月 」のようにくらき世界を彷徨うことになるのでしょう。二元的観察をはなれよといっているのは、観察する人とされる現象、法則と法則を受ける客体などというように世界を分断してはいけないということです。)
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