山 岡 瑞 円 上 人 の 略 伝(三 井 英 光)・・6
四、 性 格 の 一 面
瑞円上人の興された子安講や三密学園等の宗教事業は、宗制上では既成の真実教団 に属 してはいるが、どちらかと云えば真実密教を現代に生かせる新興宗教の先鞭 をつけたも のと云うべきである。 その教旨、 行軌、 儀式、 教育、 布教等すべては既成の真言教団には見られぬ新軌軸を打出している。併し上人自からは飽くまで大師の教風を宣布する態度を堅持され、 三密学園も真言宗の補助教育機関の一つとして公認を受けると共に、 自 からも昭和四年より宗会議員として既成真言宗団に出仕され、 此の年の秋 には高野山 に登 って学修潅頂に入坦受法されて伝灯大阿闊梨耶の位を取得され、 又愛媛県仏教会長 にも就任さ れた。 戦後真言宗団は解体して各派独立せる時も、 香園寺は 一本山とし て堂々と独歩出来る教格 と実力を有しながら、 伝統の本山を重んぜられて、御室派大本山仁和寺末に帰属し、 敢えて同派末の別格本山として留まった。 昭和廿一年、上人六十 五才の時、大僧正に補任され たのも、 もとより当然であった。 上人は面色着くして浅黒く、痩せ型の中丈で、 一見俳優 を思わせるような楚々たる風貌あ り、額 には深く水波 の鍛を刻み、眼もとにはい つも微笑を たたえて三才の童子も懐しかと思われつつも、 内心毅然として犯すべからざ る威厳を具えて居られ、 一度怒る時 は悪鬼をもひしぐ勢 いであ った。殊 に座談 に巧みにして信 心上 の問 題に就 いて質疑を発すれば快 刀乱麻を断 つが如く実に明快 に、而かも諄々と説 いて倦 むことを知らな かった。
密教の教理 に就 いても、深 い思索と透徹せる識見をもって届られ、 それが確固 たる体験に裏づけられていたから か言々句々に一種の迫力があり、人心 や時勢 の病根を突いて余す所なかった。 殊 に三密学園生のためにいつも「菩提心論」(「金剛頂瑜伽中発阿耨多羅三藐三菩提心論」大師の「即身成仏」の典拠とされた)を講 ぜられたが、 その講義 には上人独特 の体解が織り込まれていて、実生活に触れ る所多く、 聴くものを して深く感銘せ しめた。・・・
四、 性 格 の 一 面
瑞円上人の興された子安講や三密学園等の宗教事業は、宗制上では既成の真実教団 に属 してはいるが、どちらかと云えば真実密教を現代に生かせる新興宗教の先鞭 をつけたも のと云うべきである。 その教旨、 行軌、 儀式、 教育、 布教等すべては既成の真言教団には見られぬ新軌軸を打出している。併し上人自からは飽くまで大師の教風を宣布する態度を堅持され、 三密学園も真言宗の補助教育機関の一つとして公認を受けると共に、 自 からも昭和四年より宗会議員として既成真言宗団に出仕され、 此の年の秋 には高野山 に登 って学修潅頂に入坦受法されて伝灯大阿闊梨耶の位を取得され、 又愛媛県仏教会長 にも就任さ れた。 戦後真言宗団は解体して各派独立せる時も、 香園寺は 一本山とし て堂々と独歩出来る教格 と実力を有しながら、 伝統の本山を重んぜられて、御室派大本山仁和寺末に帰属し、 敢えて同派末の別格本山として留まった。 昭和廿一年、上人六十 五才の時、大僧正に補任され たのも、 もとより当然であった。 上人は面色着くして浅黒く、痩せ型の中丈で、 一見俳優 を思わせるような楚々たる風貌あ り、額 には深く水波 の鍛を刻み、眼もとにはい つも微笑を たたえて三才の童子も懐しかと思われつつも、 内心毅然として犯すべからざ る威厳を具えて居られ、 一度怒る時 は悪鬼をもひしぐ勢 いであ った。殊 に座談 に巧みにして信 心上 の問 題に就 いて質疑を発すれば快 刀乱麻を断 つが如く実に明快 に、而かも諄々と説 いて倦 むことを知らな かった。
密教の教理 に就 いても、深 い思索と透徹せる識見をもって届られ、 それが確固 たる体験に裏づけられていたから か言々句々に一種の迫力があり、人心 や時勢 の病根を突いて余す所なかった。 殊 に三密学園生のためにいつも「菩提心論」(「金剛頂瑜伽中発阿耨多羅三藐三菩提心論」大師の「即身成仏」の典拠とされた)を講 ぜられたが、 その講義 には上人独特 の体解が織り込まれていて、実生活に触れ る所多く、 聴くものを して深く感銘せ しめた。・・・