19、大師三十三~三十六歳、大同年間(806~809)弥谷寺ご修行・・・弥谷寺(四国71番、唐よりご帰朝後、ここの「獅子の岩屋」と呼ばれる岩窟で学問をされ求聞持法を修せられていると、空より五柄の宝剣が下ったということです。また大師は蔵王権現のお告げにより、千手観世音菩薩を刻み本尊とし、伽藍を再興されたといわれます。山号の剣五山もこれによりつけられたものです。ここの大師堂は広く奥に「獅子の岩屋」があります。遍路は靴を脱いであがります。何度もおまいりしましたがやはり独特の霊気があります。)
20、大師三十九歳、弘仁三年、高雄山灌頂・・・高雄山神護寺(大師は唐よりご帰朝後、ここに住まわれ弘仁元年には鎮護国家のため仁王経大法を修し、三年には金胎両部の灌頂を修されました。最澄、泰範等の名が記された「灌頂暦名」がのこっています。)
21、大師三十七歳、弘仁三年、東大寺別当・・・東大寺真言院(大師は弘仁元年東大寺別当に任ぜられ、同十三年真言院、灌頂堂を建立されています。)
22、大師三十七歳、弘仁元年、高貴寺留錫・・・高貴寺(河内高貴寺縁起によると、役行者が草創し、当初神下山香花寺と称したが、弘仁年間、大師留錫して求聞持修法時に高貴徳王菩薩が示現、高貴寺と改称したとされます。「閑林に独り座す草堂の暁 三宝の声一鳥に聞こゆ 一鳥声有り 人心有り 声心雲水倶に了了『性霊集』」 は、ここで作られたとの説もあるようです。江戸時代慈雲尊者はここに入寺されています。)
20、大師三十九歳、弘仁三年、高雄山灌頂・・・高雄山神護寺(大師は唐よりご帰朝後、ここに住まわれ弘仁元年には鎮護国家のため仁王経大法を修し、三年には金胎両部の灌頂を修されました。最澄、泰範等の名が記された「灌頂暦名」がのこっています。)
21、大師三十七歳、弘仁三年、東大寺別当・・・東大寺真言院(大師は弘仁元年東大寺別当に任ぜられ、同十三年真言院、灌頂堂を建立されています。)
22、大師三十七歳、弘仁元年、高貴寺留錫・・・高貴寺(河内高貴寺縁起によると、役行者が草創し、当初神下山香花寺と称したが、弘仁年間、大師留錫して求聞持修法時に高貴徳王菩薩が示現、高貴寺と改称したとされます。「閑林に独り座す草堂の暁 三宝の声一鳥に聞こゆ 一鳥声有り 人心有り 声心雲水倶に了了『性霊集』」 は、ここで作られたとの説もあるようです。江戸時代慈雲尊者はここに入寺されています。)