29、大師四十二歳、弘仁六年(815)安養寺開創・・・立木観音安養寺(石山寺からさらに瀬田川を下った立木山に当寺があります。大師が、急な流れの瀬田川を渡りあぐねておられたところ、突然白鹿が大師を乗せ、対岸の霊木まで導き、そこで観世音菩薩に変化し、消え去ったということです。そこでこの霊木に観世音菩薩を刻まれたのが立木観音の始まりだということです。)
30、大師四十三歳、弘仁七年(816)高野山開創・・・金剛峰寺(大師は「紀伊の国伊都郡高野の峯にして入定の処を請け乞はせらるる表」で「・・上は国家のため下は諸の修行者の為・・修禅の一院を建立せん・・・」とおっしゃり高野山を下賜されます。また「高野山萬燈会の願文」では「・・虚空盡き衆生盡き涅槃盡きなば我が願ひも盡きむ・・」とおっしゃっています。
31、大師三十七歳から五十歳(弘仁年間)慈尊院創建・・・慈尊院(大師は高野山参詣の要所に当たるこの九度山雨引山麓に、高野への表玄関として伽藍を創建し、高野山の庶務を司る政所を置き、宿所ならびに冬期避寒修行の場とされました。
またご母堂玉依御前は寺内の三宝院に滞在され大師はひと月に九度訪ねられたので、「九度山」という地名が付けられたともいいます。ご母堂はこ弥勒菩薩を信仰されておりまた大師も此処のご本尊を弥勒菩薩とされたので「慈尊院」といわれます。のち三宝院は高野山内に移築されています。
30、大師四十三歳、弘仁七年(816)高野山開創・・・金剛峰寺(大師は「紀伊の国伊都郡高野の峯にして入定の処を請け乞はせらるる表」で「・・上は国家のため下は諸の修行者の為・・修禅の一院を建立せん・・・」とおっしゃり高野山を下賜されます。また「高野山萬燈会の願文」では「・・虚空盡き衆生盡き涅槃盡きなば我が願ひも盡きむ・・」とおっしゃっています。
31、大師三十七歳から五十歳(弘仁年間)慈尊院創建・・・慈尊院(大師は高野山参詣の要所に当たるこの九度山雨引山麓に、高野への表玄関として伽藍を創建し、高野山の庶務を司る政所を置き、宿所ならびに冬期避寒修行の場とされました。
またご母堂玉依御前は寺内の三宝院に滞在され大師はひと月に九度訪ねられたので、「九度山」という地名が付けられたともいいます。ご母堂はこ弥勒菩薩を信仰されておりまた大師も此処のご本尊を弥勒菩薩とされたので「慈尊院」といわれます。のち三宝院は高野山内に移築されています。