「古今著聞集 能書第八」
「大内十二門の額、南面三門は弘法大師、西面三門は大内記小野美材、北面三門は但馬守橘逸勢をのをの勅をうけ給て垂露の点をくたしけり。東面三門は嵯峨天皇かかせをはしましける也(注1)。実にや道風朝臣、大師のかかせ給たる額をみて難していひける、美福門は田広し、朱雀門は米雀門と略頌につくりてあさけり侍ける程に、やかて中風して手わななきて手跡も異様に成にけり。かかるためしをそれられけるにや、寛弘年中に行成卿、美福門の額の字を修飾すへきよし宣旨をかうふりける時は弘法大師の尊像の御前に香花の具をささけて驚覚して祭文をよまれけり。件文は江以言(大江以言)そ書たりける。
今蒙明詔而欲下墨則疑有黷聖跡之冥譴更
憚聖跡而将閣筆亦恐拘辞明詔之朝章
晋退漸心胡尾失歩伏乞尊像示以許否
若可許可請者尋痕跡而添粉墨若不
許不請者随形勢而廻思慮王事靡盬
蓋鍳於此尚饗(注2)
とそかかれて侍ける。この門とも或は焼失し或は顛倒して今はわつかに安嘉待賢門のみそ侍める。実にやこの安嘉門の額そむかし人を捕りけるおそろしかりける事かな。
注1、)夜鶴庭訓抄(藤原伊行)に「内裏門額書たる人々。十二門額 南、美福・朱雀・皇嘉門 已上弘法大師。西、談天・藻壁・殷富門 已上野美材。北 安嘉・偉鑒・達智門 已上橘速勢。東 陽明・待賢・郁芳門 已上嵯峨天皇。・・・能書の人々 弘法大師、嵯峨天王、敏行、美材、兼明、道風、時文、文正、佐理、具平、行成、延幹君、文時、定額、恒柯、橘速勢、関雄、素性法師、兼行、伊房、長季、定実、定信、伊行。
弘法大師、天神、道風、三聖の由、世事要略(政事要略)に見ゆ。
注2)「本朝文粋・員外藤大納言が為に、美福門院の額を修餝せむことを請ひて弘法大師に告す文。大江以言」
「維れ、寛弘四年歳丁未に次る、正月朔、参議正三位行兵部卿、兼左大辨侍従、播磨権守、藤原朝臣行成、一心に弘法大師が尊像に請日奉る。敬みて香花の奠を擎げて驚覚して言さく「某は去ぬる月の某日の宣旨を蒙るにいはく『美福門院の額の字を修飾すべし』といヘリ。今件の門の額は、是れ弘法大師が手書なり。題書の後、載祀久し。制草の上、露點消えたりと雖も、入木の中に風勢盡くることなし。存する所の筋骨、精靈有るに似たり。今明詔を蒙りて墨を下さむとすれば、則ち聖跡を黷すことの冥譴有らむかと疑ひ、更に聖跡を憚りて将に筆を閣かむとすれば、亦明詔を辭ぶることの朝章に拘らむかと恐る。晋退心に非ず、胡尾(顎鬚、尾)歩みを失ふ。凌雲の忽ちに梳雪の首に變るよりも危く、五徳の九包の翎に及ばざるよりも甚だし。然れども猶、晉右軍(晉の王義之)が南門に署せしは、後に隋代の花飾を加へ、魏庶子(唐の人、魏華)が西省に題せしは本是唐帝が草真なりき。其の舊跡に就きて更に新功を施すは中心の望む所、前聞斯に在り。伏して乞ふ、尊像示すに許否を以ちてしたまへ。若し請ふ所を許すべくは痕跡を尋ねて粉墨を添へむ。若し請ふ所を許さずば形勢に随ひて思慮を廻らさむ。王事監きこと(王室の仕事は厳しい)靡し。蓋ぞ此に鑑みざらむ。尚ひねがはくは饗けたまへ」とまうす。