妙法蓮華経秘略要妙・観世音菩薩普門品第二十五(浄厳)・・36
二には正しく第二の水漂の難を頌す。
「或漂流巨海 龍魚諸鬼難 念彼觀音力 波浪不能沒」
上の長行の中には唯大水とのみ云。今は龍幷に鰐鮫等の魚及び諸鬼等を加へて至極切なる難を表す。
「漂流」とは船筏に離れて浮漂るるなり。漂は浮の義なり。
「巨海」等(巨海 龍魚諸鬼難)は、巨は大なり、小水に非ずして大海なり。而も船筏を離れ龍と大魚と鬼神との難あり。
「念彼」等の二句(念彼觀音力 波浪不能沒)は、上の如く難の中の最難なれども観音大悲の神力を以て能く救ひ玉ふと云意なり。若し理に就いて釈せば観音は水に即して法界なりと云事を知(しろしめ)すが故に、水をして地の如くならしめ玉ふ。故に没溺の畏れなし。若し密宗の六大周遍の義に約せば、観音は如実に水地無碍の理を覚悟し玉ふが故に、水をして地の如くならしめ玉ふなり。
問、水地無碍とは其の義如何。
答、凡そ地大は能く一切の物を載る徳あり。是地は本来堅物なる故なり。然るに地の堅きは水を以て能く摂収する故なり。其の故は若し水の潤なき時は地も又砕きて塵と成りて風に随って揚がる。此の時は堅性を失ふ。此の理を推尋するに、地の堅きは水の故なり。又水の能く船筏等の一切の物を浮ぶるは、地の堅くして載る徳を水に具せる故なり。乃至世界の下に厚さ八億八万由旬なる水輪あり、此の水輪の上に厚さ三億三万由旬の金輪を載せたり。是豈水に地大の能く載る徳を具するに非ずや。又世界初めて成ずる時、光音天より車輪の如くなる滴を雨ふらして邊際もなく湛へたり。而るを大風吹いて水沫を起こして、須弥山・七金山・鐵圍山・香酔山等の諸の大山を造り乃至山河大地一切の世界を成就す。是豈水即地なるに非ずや。日本の始めも水凝って島と成るといへり。又胎生の有情は父母の精水、骨(父の精)肉(母の精)と成る。圓覚經の意。骨肉は身中の地大なり。是又水即地なり。かくの如く、六大無碍の理を推究る時、水即地なるが故に水に入て没さざる理分明なり。
三には加えて、須弥より堕する難を頌す。
「或在須彌峯 爲人所推墮 念彼觀音力 如日虚空住」
「須彌」具なる梵語には須彌廬、新譯には蘇迷廬、此には妙高と云。金(北面)銀(東面)瑠璃(南面)紅頗梨(西面)の四の寶を以て成せる山なれば妙と云。其の高さ大海より上、八万四千由旬なれば高と云。
「峯」とは毗婆沙論には須弥の四角に各の一の峯あり、其の高さ五百由旬、金剛手の所在なりといへり(阿毘達磨大毘婆沙論卷第一百三十三大種蘊第五中縁納息第二之三「山頂四角各有一峯。其高廣量各有五百。有藥叉神名金剛手。」)。
「如日虚空住」とは日の虚空に行くことは五の風ありて日の宮殿を持するが故なり。起世經第十最勝品に曰く、日天の宮殿は縦廣正当にして五十一由旬、上下も又爾なり乃至、五種の風有て吹き、轉而て行く。何等をか五とする。一をば名けて持と為し、二をば名けて住と為す。三をば随順轉と名く。四をば波羅訶伽(はらかきゃ)と名く。五には将行と名く。已上。此れ等の説相に依るに日は常に虚空に在るが故に「如日虚空住」と云なり。言はたとひ須弥の峯より推墜さるるとも其の人心に念じて誠を盡さば、虚空の中に畱(とどまっ)て地に落ちざること日の如くならんとなり。是観音の神力を以て拘へて落としめ玉はざる故なり。
四には加て金剛山より堕する難を頌す。
「或被惡人逐 墮落金剛山 念彼觀音力 不能損一毛」
「金剛山」とは文句記二の二には、南洲の南にありといへり。鐵圍山を指して云なり。
五には第七の怨賊難を頌す。(七難とは順番に、第一火難・第二水難・第三羅刹難 ・第四刀杖難・第五鬼難(死霊による難)・第六枷鎖難(投獄による難)・第七怨賊難(悪人による難))
「或値怨賊繞 各執刀加害 念彼觀音力 咸即起慈心」
「怨賊」とは怨は命を奪んとし、賊は財を奪んとす、
「繞」とは唯一面に居るには非ず、四方に取り巻くを繞と云なり。
「各執刀加害」とは一一に刀を持せるなり。
「咸即起慈心」とは怨賊の心を翻して慈心を起こすなり。
「咸」とは悉の義なり。一一に皆と云義なり。
「即」とは速やかなる義なり。應の遍く速やかなるを「咸即」とは云り。
次に総じて解せば、怨賊の殺害の業は貪欲・瞋恚甚だしきが故にかくの如く怖ろしき動を作す。観音の一心三智(万物は個々別々であると差別的に見て実体を知る道種智、万物は平等であると共通の立場から見て実体を知る一切智、差別にも平等にもとらわれずどちらにもかたよらずに差別と平等とを同時に生かしてものを見て実体を知る一切種智の三智を同時一心に証得すること)を以て彼の怨賊の心を照らし玉ふに本有性徳の慈心あり。今平等普遍の不可思議の力を以て彼の性具の慈の種子を加持し玉ふに慈、速やかに生じること、喩へば木の中に火の性ありと云ことを了了に覚知して力を盡して是を鑽(もむ)時は決定して火出るが如し(観音の加持に由りて慈心あらはるるに合す)。此の加持に由りて慈心生ずれば慈と瞋とは相克の法なるが故に、瞋害の心は自ら去るなり。大なるかな唯行者の現世の苦を救ひて無畏の樂を與へ玉ふのみにあらず、亦復怨賊の害心を滅して當来の大苦を免れしめ玉ふこと、菩薩の平等の大悲と云は此等を云なり。