海印三昧
2020-10-09 | 法話
「この世もあの世も衆生の業によってつくられた無限の因果の集積体で海のようなものであると見るのを海印三昧という。(かくのごとく因果縁起の挙体、理實法界の無自性の理である。即ち因果即実相、有即空、事即理にして、無二唯一なるがゆえに、事々無礙の玄旨を成ずるのである。この無尽法界の実相を證見せるを海印三昧といふ。金山穆韶師「仏教における個体の観念」)」
「衆生の形相、各同じからず 行業音声また無量なり かくの如く一切皆、能く現ずるは
海印三昧の威神力なり 『華厳経』「賢首品第十二」
「正法眼蔵・第十三 海印三昧
佛とあるに、かならず海印三昧なり。この三昧の游泳に、時あり、證時あり、行時あり。海上行の功、その徹底行あり。これを深深海底行なりと海上行するなり。流浪生死を還源せしめんと願求する、是什麼心行にはあらず。從來の透關破節、もとより佛の面面なりといへども、これ海印三昧の朝宗なり。
佛言、但以衆法、合成此身。起時唯法起、滅時唯法滅。此法起時、不言我起。此法滅時、不言我滅。
前念後念、念念不相待。前法後法、法法不相對。是名爲海印三昧。
(佛言はく、但衆法を以て此身を合成す。起時は唯法の起なり、滅時は唯法の滅なり。此の法起る時、我起ると言はず。此の法滅する時、我滅すと言はず。
前念後念、念念不相待なり。前法後法、法法不相對なり。是れをち名づけて海印三昧とす。)
この佛道を、くはしく參學功夫すべし。得道入證はかならずしも多聞によらず、多語によらざるなり。多聞の廣學はさらに四句に得道し、恆沙の學、つひに一句偈に證入するなり。いはんやいまの道は、本覺を前途にもとむるにあらず、始覺を證中に拈來するにあらず。おほよそ本覺等を現成せしむるは佛の功なりといへども、始覺本覺等の覺を佛とせるにはあらざるなり。
いはゆる海印三昧の時節は、すなはち但以衆法の時節なり、但以衆法の道得なり。このときを合成此身といふ。衆法を合成せる一合相、すなはち此身なり。此身を一合相とせるにあらず、衆法合成なり。合成此身を此身と道得せるなり。
起時唯法起。この法起、かつて起をのこすにあらず。このゆゑに、起は知覺にあらず、知見にあらず、これを不言我起といふ。我起を不言するに、別人は此法起と見聞覺知し、思量分別するにはあらず。さらに向上の相見のとき、まさに相見の落便宜あるなり。起はかならず時節到來なり、時は起なるがゆゑに。いかならんかこれ起なる、起也なるべし。
すでにこれ時なる起なり。皮肉骨髓を獨露せしめずといふことなし。起すなはち合成の起なるがゆゑに、起の此身なる、起の我起なる、但以衆法なり。聲色と見聞するのみにあらず、我起なる衆法なり、不言なる我起なり。不言は不道にはあらず、道得は言得にあらざるがゆゑに、起時は此法なり、十二時にあらず。此法は起時なり、三界の競起にあらず。
古佛いはく、忽然火起。この起の相待にあらざるを、火起と道取するなり。
古佛いはく、起滅不停時如何(起滅不停の時如何)。
しかあれば、起滅は我我起、我我滅なるに不停なり。この不停の道取、かれに一任して辨肯すべし。この起滅不停時を佛の命脈として斷續せしむ。起滅不停時は是誰起滅(是れ誰が起滅ぞ)なり。是誰起滅は、應以此身得度者なり、現此身なり、而爲法なり。過去心不可得なり、汝得吾髓なり、汝得吾骨なり。是誰起滅なるゆゑに。
此法滅時、不言我滅。まさしく不言我滅のときは、これ此法滅時なり。滅は法の滅なり。滅なりといへども法なるべし。法なるゆゑに客塵にあらず、客塵にあらざるゆゑに不染汚なり。ただこの不染汚、すなはち佛なり。汝もかくのごとしといふ、たれか汝にあらざらん。前念後念あるはみな汝なるべし。吾もかくのごとしといふ、たれか吾にあらざらん。前念後念はみな吾なるがゆゑに。この滅に多般の手眼を莊嚴せり。いはゆる無上大涅槃なり、いはゆる謂之死(之を死と謂ふ)なり、いはゆる執爲斷(執して斷と爲す)なり、いはゆる爲所住(所住と爲す)なり。いはゆるかくのごとくの許多手眼、しかしながら滅の功なり。滅の我なる時節に不言なると、起の我なる時節に不言なるとは、不言の同生ありとも、同死の不言にはあらざるべし。すでに前法の滅なり、後法の滅なり。法の前念なり、法の後念なり。爲法の前後法なり、爲法の前後念なり。不相待は爲法なり、不相待は法爲なり。不相對ならしめ、不相待ならしむるは八九成の道得なり。滅の四大五蘊を手眼とせる、拈あり收あり。滅の四大五蘊を行程とせる、進歩あり相見あり。このとき、通身是手眼、還是不足なり。遍身是手眼、還是不足なり。
おほよそ滅は佛の功なり。いま不相對と道取あり、不相待と道取あるは、しるべし、起は初中後起なり。官不容針、私通車馬(官には針を容れず、私に車馬を通ず)なり。滅を初中後に相待するにあらず、相對するにあらず。從來の滅處に忽然として起法すとも、滅の起にはあらず、法の起なり。法の起なるゆゑに不對待相なり。また滅と滅と相待するにあらず、相對するにあらず。滅も初中後滅なり、相逢不拈出、擧意便知有(相逢ふては拈出せず、意を擧すれば便ち有ることを知る)なり。從來の起處に忽然として滅すとも、起の滅にあらず、法の滅なり。法の滅なるがゆゑに不相對待なり。たとひ滅の是にもあれ、たとひ起の是にもあれ、但以海印三昧、名爲衆法なり。是の修證はなきにあらず、只此不染汚、名爲海印三昧なり。
三昧は現成なり、道得なり。背手摸枕子の夜間なり。夜間のかくのごとく背手摸枕子なる、摸枕子は億億萬劫のみにあらず、我於海中、唯常宣妙法華經なり。不言我起なるがゆゑに我於海中なり。前面も一波纔動萬波隨なる常宣なり、後面も萬波纔動一波隨の妙法華經なり。たとひ千尺萬尺の絲綸を卷舒せしむとも、うらむらくはこれ直下垂なることを。いはゆるの前面後面は我於海面なり。前頭後頭といはんがごとし。前頭後頭といふは頭上安頭なり。海中は有人にあらず、我於海は世人の住處にあらず、聖人の愛處にあらず。我於ひとり海中にあり。これ唯常の宣なり。この海中は中間に屬せず、内外に屬せず、鎭常在法華經なり。東西南北に不居なりといへども、滿船空載月明歸(滿船空しく月明を載せて歸る)なり。この實歸は便歸來なり。たれかこれを滯水の行履なりといはん。ただ佛道の劑限に現成するのみなり。これを印水の印とす。さらに道取す、印空の印なり。さらに道取す、印泥の印なり。印水の印、かならずしも印海の印にはあらず、向上さらに印海の印なるべし。これを海印といひ、水印といひ、泥印といひ、心印といふなり。心印を單傳して印水し、印泥し、印空するなり。
曹山元證大師、因問、承有言、大海不宿死屍、如何是海(承るに言へること有り、大海死屍を宿せずと。如何なるか是れ海)。
師云、包含萬有。
云、爲什麼不宿死屍(什麼と爲てか死屍を宿せざる)。
師云く、絶氣者不著。
曰く、是包含萬有、爲什麼絶氣者不著(に是れ包含萬有、什麼と爲てか絶氣の者不著なる)。
師云く、萬有非其功絶氣(萬有、その功、絶氣に非ず)。
この曹山は、雲居の兄弟なり。洞山の宗旨、このところに正的なり。いま承有言といふは、佛の正なり。凡聖のにあらず、附佛法の小にあらず。
大海不宿死屍。いはゆる大海は、内海外海等にあらず、八海等にはあらざるべし。これらは學人のうたがふところにあらず。海にあらざるを海と認ずるのみにあらず、海なるを海と認ずるなり。たとひ海と強爲すとも、大海といふべからざるなり。大海はかならずしも八功水の重淵にあらず、大海はかならずしも鹹水等の九淵にあらず。衆法は合成なるべし。大海かならずしも深水のみにてあらんや。このゆゑに、いかなるか海と問著するは、大海のいまだ人天にしられざるゆゑに、大海を道著するなり。これを問著せん人は、海執を動著せんとするなり。
不宿死屍といふは、不宿は明頭來明頭打、暗頭來暗頭打なるべし。死屍は死灰なり、幾度逢春不變心(幾度か春に逢ふも心を變ぜず)なり。死屍といふは、すべて人人いまだみざるものなり。このゆゑにしらざるなり。
師いはく包含萬有は、海を道著するなり。宗旨の道得するところは、阿誰なる一物の萬有を包含するといはず、包含、萬有なり。大海の萬有を包含するといふにあらず。包含萬有を道著するは、大海なるのみなり。なにものとしれるにあらざれども、しばらく萬有なり。佛面面と相見することも、しばらく萬有を錯認するなり。包含のときは、たとひ山なりとも高高峰頭立のみにあらず。たとひ水なりとも深深海底行のみにあらず。收はかくのごとくなるべし、放はかくのごとくなるべし。佛性海といひ、毘盧藏海といふ、ただこれ萬有なり。海面みえざれども、游泳の行履に疑著する事なし。
たとへば、多一叢竹を道取するに、一莖兩莖曲なり。三莖四莖斜なるも、萬有を錯失せしむる行履なりとも、なにとしてかいまだいはざる、千曲萬曲なりと。なにとしてかいはざる、千叢萬叢なりと。一叢の竹、かくのごとくある道理、わすれざるべし。曹山の包含萬有の道著、すなはちなほこれ萬有なり。
のいはく爲什麼絶氣者不著は、あやまりて疑著の面目なりといふとも、是什麼心行なるべし。從來疑著這漢なるときは、從來疑著這漢に相見するのみなり。什麼處在に爲什麼絶氣者不著なり。爲什麼不宿死屍なり。這頭にすなはち是包含萬有、爲什麼絶氣者不著なり。しるべし、包含は著にあらず、包含は不宿なり。萬有たとひ死屍なりとも、不宿の直須萬年なるべし。不著の這老一著子なるべし。
曹山の道すらく萬有非其功絶氣。いはゆるは、萬有はたとひ絶氣なりとも、たとひ不絶氣なりとも、不著なるべし。死屍たとひ死屍なりとも、萬有に同參する行履あらんがごときは包含すべし、包含なるべし。萬有なる前程後程、その功あり、これ絶氣にあらず。いはゆる一盲引衆盲なり。一盲引衆盲の道理は、さらに一盲引一盲なり、衆盲引衆盲なり。衆盲引衆盲なるとき、包含萬有、包含于包含萬有なり。さらにいく大道にも萬有にあらざる、いまだその功夫現成せず、海印三昧なり。
正法眼藏海印三昧第十三」
「衆生の形相、各同じからず 行業音声また無量なり かくの如く一切皆、能く現ずるは
海印三昧の威神力なり 『華厳経』「賢首品第十二」
「正法眼蔵・第十三 海印三昧
佛とあるに、かならず海印三昧なり。この三昧の游泳に、時あり、證時あり、行時あり。海上行の功、その徹底行あり。これを深深海底行なりと海上行するなり。流浪生死を還源せしめんと願求する、是什麼心行にはあらず。從來の透關破節、もとより佛の面面なりといへども、これ海印三昧の朝宗なり。
佛言、但以衆法、合成此身。起時唯法起、滅時唯法滅。此法起時、不言我起。此法滅時、不言我滅。
前念後念、念念不相待。前法後法、法法不相對。是名爲海印三昧。
(佛言はく、但衆法を以て此身を合成す。起時は唯法の起なり、滅時は唯法の滅なり。此の法起る時、我起ると言はず。此の法滅する時、我滅すと言はず。
前念後念、念念不相待なり。前法後法、法法不相對なり。是れをち名づけて海印三昧とす。)
この佛道を、くはしく參學功夫すべし。得道入證はかならずしも多聞によらず、多語によらざるなり。多聞の廣學はさらに四句に得道し、恆沙の學、つひに一句偈に證入するなり。いはんやいまの道は、本覺を前途にもとむるにあらず、始覺を證中に拈來するにあらず。おほよそ本覺等を現成せしむるは佛の功なりといへども、始覺本覺等の覺を佛とせるにはあらざるなり。
いはゆる海印三昧の時節は、すなはち但以衆法の時節なり、但以衆法の道得なり。このときを合成此身といふ。衆法を合成せる一合相、すなはち此身なり。此身を一合相とせるにあらず、衆法合成なり。合成此身を此身と道得せるなり。
起時唯法起。この法起、かつて起をのこすにあらず。このゆゑに、起は知覺にあらず、知見にあらず、これを不言我起といふ。我起を不言するに、別人は此法起と見聞覺知し、思量分別するにはあらず。さらに向上の相見のとき、まさに相見の落便宜あるなり。起はかならず時節到來なり、時は起なるがゆゑに。いかならんかこれ起なる、起也なるべし。
すでにこれ時なる起なり。皮肉骨髓を獨露せしめずといふことなし。起すなはち合成の起なるがゆゑに、起の此身なる、起の我起なる、但以衆法なり。聲色と見聞するのみにあらず、我起なる衆法なり、不言なる我起なり。不言は不道にはあらず、道得は言得にあらざるがゆゑに、起時は此法なり、十二時にあらず。此法は起時なり、三界の競起にあらず。
古佛いはく、忽然火起。この起の相待にあらざるを、火起と道取するなり。
古佛いはく、起滅不停時如何(起滅不停の時如何)。
しかあれば、起滅は我我起、我我滅なるに不停なり。この不停の道取、かれに一任して辨肯すべし。この起滅不停時を佛の命脈として斷續せしむ。起滅不停時は是誰起滅(是れ誰が起滅ぞ)なり。是誰起滅は、應以此身得度者なり、現此身なり、而爲法なり。過去心不可得なり、汝得吾髓なり、汝得吾骨なり。是誰起滅なるゆゑに。
此法滅時、不言我滅。まさしく不言我滅のときは、これ此法滅時なり。滅は法の滅なり。滅なりといへども法なるべし。法なるゆゑに客塵にあらず、客塵にあらざるゆゑに不染汚なり。ただこの不染汚、すなはち佛なり。汝もかくのごとしといふ、たれか汝にあらざらん。前念後念あるはみな汝なるべし。吾もかくのごとしといふ、たれか吾にあらざらん。前念後念はみな吾なるがゆゑに。この滅に多般の手眼を莊嚴せり。いはゆる無上大涅槃なり、いはゆる謂之死(之を死と謂ふ)なり、いはゆる執爲斷(執して斷と爲す)なり、いはゆる爲所住(所住と爲す)なり。いはゆるかくのごとくの許多手眼、しかしながら滅の功なり。滅の我なる時節に不言なると、起の我なる時節に不言なるとは、不言の同生ありとも、同死の不言にはあらざるべし。すでに前法の滅なり、後法の滅なり。法の前念なり、法の後念なり。爲法の前後法なり、爲法の前後念なり。不相待は爲法なり、不相待は法爲なり。不相對ならしめ、不相待ならしむるは八九成の道得なり。滅の四大五蘊を手眼とせる、拈あり收あり。滅の四大五蘊を行程とせる、進歩あり相見あり。このとき、通身是手眼、還是不足なり。遍身是手眼、還是不足なり。
おほよそ滅は佛の功なり。いま不相對と道取あり、不相待と道取あるは、しるべし、起は初中後起なり。官不容針、私通車馬(官には針を容れず、私に車馬を通ず)なり。滅を初中後に相待するにあらず、相對するにあらず。從來の滅處に忽然として起法すとも、滅の起にはあらず、法の起なり。法の起なるゆゑに不對待相なり。また滅と滅と相待するにあらず、相對するにあらず。滅も初中後滅なり、相逢不拈出、擧意便知有(相逢ふては拈出せず、意を擧すれば便ち有ることを知る)なり。從來の起處に忽然として滅すとも、起の滅にあらず、法の滅なり。法の滅なるがゆゑに不相對待なり。たとひ滅の是にもあれ、たとひ起の是にもあれ、但以海印三昧、名爲衆法なり。是の修證はなきにあらず、只此不染汚、名爲海印三昧なり。
三昧は現成なり、道得なり。背手摸枕子の夜間なり。夜間のかくのごとく背手摸枕子なる、摸枕子は億億萬劫のみにあらず、我於海中、唯常宣妙法華經なり。不言我起なるがゆゑに我於海中なり。前面も一波纔動萬波隨なる常宣なり、後面も萬波纔動一波隨の妙法華經なり。たとひ千尺萬尺の絲綸を卷舒せしむとも、うらむらくはこれ直下垂なることを。いはゆるの前面後面は我於海面なり。前頭後頭といはんがごとし。前頭後頭といふは頭上安頭なり。海中は有人にあらず、我於海は世人の住處にあらず、聖人の愛處にあらず。我於ひとり海中にあり。これ唯常の宣なり。この海中は中間に屬せず、内外に屬せず、鎭常在法華經なり。東西南北に不居なりといへども、滿船空載月明歸(滿船空しく月明を載せて歸る)なり。この實歸は便歸來なり。たれかこれを滯水の行履なりといはん。ただ佛道の劑限に現成するのみなり。これを印水の印とす。さらに道取す、印空の印なり。さらに道取す、印泥の印なり。印水の印、かならずしも印海の印にはあらず、向上さらに印海の印なるべし。これを海印といひ、水印といひ、泥印といひ、心印といふなり。心印を單傳して印水し、印泥し、印空するなり。
曹山元證大師、因問、承有言、大海不宿死屍、如何是海(承るに言へること有り、大海死屍を宿せずと。如何なるか是れ海)。
師云、包含萬有。
云、爲什麼不宿死屍(什麼と爲てか死屍を宿せざる)。
師云く、絶氣者不著。
曰く、是包含萬有、爲什麼絶氣者不著(に是れ包含萬有、什麼と爲てか絶氣の者不著なる)。
師云く、萬有非其功絶氣(萬有、その功、絶氣に非ず)。
この曹山は、雲居の兄弟なり。洞山の宗旨、このところに正的なり。いま承有言といふは、佛の正なり。凡聖のにあらず、附佛法の小にあらず。
大海不宿死屍。いはゆる大海は、内海外海等にあらず、八海等にはあらざるべし。これらは學人のうたがふところにあらず。海にあらざるを海と認ずるのみにあらず、海なるを海と認ずるなり。たとひ海と強爲すとも、大海といふべからざるなり。大海はかならずしも八功水の重淵にあらず、大海はかならずしも鹹水等の九淵にあらず。衆法は合成なるべし。大海かならずしも深水のみにてあらんや。このゆゑに、いかなるか海と問著するは、大海のいまだ人天にしられざるゆゑに、大海を道著するなり。これを問著せん人は、海執を動著せんとするなり。
不宿死屍といふは、不宿は明頭來明頭打、暗頭來暗頭打なるべし。死屍は死灰なり、幾度逢春不變心(幾度か春に逢ふも心を變ぜず)なり。死屍といふは、すべて人人いまだみざるものなり。このゆゑにしらざるなり。
師いはく包含萬有は、海を道著するなり。宗旨の道得するところは、阿誰なる一物の萬有を包含するといはず、包含、萬有なり。大海の萬有を包含するといふにあらず。包含萬有を道著するは、大海なるのみなり。なにものとしれるにあらざれども、しばらく萬有なり。佛面面と相見することも、しばらく萬有を錯認するなり。包含のときは、たとひ山なりとも高高峰頭立のみにあらず。たとひ水なりとも深深海底行のみにあらず。收はかくのごとくなるべし、放はかくのごとくなるべし。佛性海といひ、毘盧藏海といふ、ただこれ萬有なり。海面みえざれども、游泳の行履に疑著する事なし。
たとへば、多一叢竹を道取するに、一莖兩莖曲なり。三莖四莖斜なるも、萬有を錯失せしむる行履なりとも、なにとしてかいまだいはざる、千曲萬曲なりと。なにとしてかいはざる、千叢萬叢なりと。一叢の竹、かくのごとくある道理、わすれざるべし。曹山の包含萬有の道著、すなはちなほこれ萬有なり。
のいはく爲什麼絶氣者不著は、あやまりて疑著の面目なりといふとも、是什麼心行なるべし。從來疑著這漢なるときは、從來疑著這漢に相見するのみなり。什麼處在に爲什麼絶氣者不著なり。爲什麼不宿死屍なり。這頭にすなはち是包含萬有、爲什麼絶氣者不著なり。しるべし、包含は著にあらず、包含は不宿なり。萬有たとひ死屍なりとも、不宿の直須萬年なるべし。不著の這老一著子なるべし。
曹山の道すらく萬有非其功絶氣。いはゆるは、萬有はたとひ絶氣なりとも、たとひ不絶氣なりとも、不著なるべし。死屍たとひ死屍なりとも、萬有に同參する行履あらんがごときは包含すべし、包含なるべし。萬有なる前程後程、その功あり、これ絶氣にあらず。いはゆる一盲引衆盲なり。一盲引衆盲の道理は、さらに一盲引一盲なり、衆盲引衆盲なり。衆盲引衆盲なるとき、包含萬有、包含于包含萬有なり。さらにいく大道にも萬有にあらざる、いまだその功夫現成せず、海印三昧なり。
正法眼藏海印三昧第十三」
ウチの宗派の『正法眼蔵』をお取り上げいただき、ありがとうございます。ただ、かなり面白い系統のテキストを用いておられますね。拙僧、その始まり方をする系統、知りませんでした。だいたい「諸仏諸祖とあるに」だと思うのですが、勉強不足でした。
機会があれば、どの系統の本をお使いなのか、ご教示下さい。
なお、一般的には75巻本系統と60巻本系統で本文が相違しており、「佛言、但以衆法、合成此身。起時唯法起、滅時唯法滅。此法起時、不言我起。此法滅時、不言我滅。前念後念、念念不相待。前法後法、法法不相對。是名爲海印三昧」の本文登場が1回のみなのか?2回になるのか?で違っています。
拙僧は、基本、2回出てくる方を使っています。
https://blog.goo.ne.jp/tenjin95/e/39397446881840eaeed33dfcfa349c25