福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

「皇室と日本精神/辻善之助」より(註釈付)

2025-03-03 | 法話

「皇室と日本精神/辻善之助」より

「・・あらゆる外国の文化は我が固有の文化に融合せられ海外より輸入した一切の事物は皆我が国体に融合すべく同化せられたのである。・・茲に云ところの国体、即ち換言すれば我が国家組織の根本主義のもとにすべての文化は融合せられて独自の発展をとげたのであるが、この文化の発展は・・いふまでもなくわれわれ国民の努力によってできたものである。・・而して其の活動の中心即ち文化発展の中心といふものは・・・それは即ち我が皇室にましますのである。皇室を中心として総ての国民が渾一体として活動した結果今日の文化の発展ができたのある。学問・芸術・教育・宗教等あらゆる文化事象は皇室を中心としてその保護奨励の下に発展したことは著しい事実である。

先ず学問について見るに、列聖の御学問に対する御事績は甚だ多く、一一茲に申し述べる事は出来ないが御歴代の御製の歌集詩文又は御著作の書籍の今日傳はるもののみを以てしても夥しい数に上っている。御製の歌にあっては神武天皇を初め奉り御歴代いずれも是を善くし玉はざるはなく「万葉集」以来歌集に収められれてあるもののみでも幾萬を数へるであろう。醍醐天皇の御代に「古今和歌集」の勅撰あり、爾来御列聖相次いで其の例を逐ひ玉ひ以て「二十一代集」

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を重ねられた。

漢詩にあっては弘文天皇をはじめとし奉って文武天皇(懐風藻に「述懐」として「年は冕(かんむり)を戴くに足れりと雖も、智は敢て裳を垂れず。朕常に夙夜に念へらく、何を以てか拙心を匡さん。猶往古を師とせずば、何ぞ元首の望みを救はむと。然すがに三絶の務毋(な)し、且は短章に臨まんと欲す。(韋編三絶ほどは出来ないが一時しのぎでも漢詩を作り心を磨こう))・孝謙天皇(「そらみつ 大和の国は 水の上は 地(つち) 行くごとく

 船の上は 床(とこ)に 居るごと 大神の 斎(いは)へる国ぞ 船の舳(へ)並べ 平けく 早渡り来て 返り言  奏(まを)さむ日に 相飲まむ酒(き)ぞ この豊神酒(とよみき)は 」万葉集巻19-4264 孝謙天皇)・平城天皇([ふるさととなりにし奈良の都にも色はかはらず花は咲きけり(古今90)]・

嵯峨天皇(「神泉苑花宴賦落花篇」「凌雲集」「過半の青春 何の催ほす所ぞ

和風数(しばしば)重(しき)りて 百花 開く。芳菲(ほうひ)歇盡(けつじん)するに

駐むるに由し無し。爰(ここ)に文雄を唱(よば)ひて賞宴に来たる。見取す 花光 林表に出づることを、造化寧(なに)ぞ仮らん丹靑(たんせい)の筆。紅英(こうえい)落つる処 鶯(うぐいす)乱れて鳴き、紫萼(しがく)散る時、蝶 群れて驚く、借問す 濃香 いづこより独り飛ぶかと、飛び来たりて坐に満ち 衣に襲(つ)くことに堪へたり。

春園遥かに望めば、佳人あり。乱雑繁花、相映じて輝き、点珠顏綴、駘鬟(たいかん)として吹く。人懐の中、嬌態閑(しず)かなり。朝に花を攀(よ)じり、暮に花を折る。花を攀じる力尽き、衣帶ゆるく、未だ芬芳(ふんぽう)を厭はず、徒らに徙倚(しい)す。林表に流連し、晩光斜なり。妖姫一たび翫(もてあそ)び、已に楽となす。畏れず、春風総て吹落することを。

この年美に対し、絶えて何をか憐れまん。一時の風景、あに空しく捐(す)てんや。」)

・淳和天皇(経國集の編纂)・仁明天皇(能筆家で唐の文化にも造詣が深かった父親に似て、中国の古典に詳しく、漢音と書に秀で、さらに弓射、楽器の演奏にもすぐれ、薬学に詳しく、多彩であられた)・宇多天皇(「寛平御集」あり)・醍醐天皇(『古今集』撰集を宣下。)・村上天皇(「漸薫臘雪新封裏、偸綻春風未扇先。」村上天皇御製『和漢朗詠集』)・一条天皇(「野辺までに心ひとつはかよへども我がみゆきとは知らずやあるらむ」一条天皇 『後拾遺和歌集』)・後一条天皇(「露の身の 草の宿りに 君を置きて 塵を出でぬる ことをこそ思へ」(『御堂関白記』)・後朱雀天皇(『後朱雀天皇御記』)・後冷泉天皇(後拾遺集・金葉集・新古今集・新撰朗詠集等に御製。『後冷泉院御記』も。)・後三条天皇(「住吉の神はあはれとおもふらむむなしき船をさしてきたれば」『後拾遺集』)・白河天皇(後拾遺集・金葉集・新古今集・詩花集・続新古今集・新後撰集・玉葉集・新千載集・風雅集等に二十八首。「しづかなるけしきぞしるき月かげのやほ万代を照すべければ」玉葉集)・崇徳天皇(『崇徳天皇御製集』『詞花集・』『百人一首』に「瀬を早(はや)み 岩にせかるる 滝川(たきがは)の われても末(すゑ)に 逢はむとぞ思ふ」)・高倉天皇(新古今集「うすきりのたちまふ山のもみちはゝさやかならねとそれとみえけり」)・土御門天皇(『土御門院御集』)・後土御門天皇(「うれへなき民の心と聞くからにいまぞ我が身のたのしみとせむ」)

順徳天皇(続後撰和歌集「ももしきや古き軒端のしのぶにもなほあまりある昔なりけり」)・後堀河天皇(「新勅撰和歌集」編纂)・後嵯峨天皇(「続古今和歌集」を編纂。「続拾遺和歌集」に「新玉のとしをかさねてかへつれど猶ひとへなる夏衣かな」)・亀山天皇(「世のために身をば惜しまぬ心ともあらぶる神は照し見ゆらむ」「すべらぎの神のみことをうけきつるいやつぎつぎに世を思ふかな」「ゆくすゑもさぞなさかえむ誓あれば神の國なる我が國ぞかし」「今朝もまた祈る心のあと見えて頼みをかくる雪のしらゆふ」)・後宇多天皇(「時しあらば谷より出づる鶯に.世をたすくべき人を問はは”や」)・伏見天皇(「伏見天皇御製集」)

・花園天皇(「『花園天皇宸記』」)・後花園天皇(「『後花園院御製』」『新撰長禄寛正記』に

「 無題

残民争採首陽薇(残民 争ひ採る首陽の薇。死に瀕した民が争って首陽山の薇を採っている)

處處閉廬鎖竹扉(處處 廬を閉じ竹扉を鎖ざす。到る処で、牆を閉ざして、竹の門扉を閉ざしてしまっている)

詩興吟酸春二月(詩興し吟は酸なり春二月。詩を作ろうにも春を傷み悲しむことしかできないのである)

満城紅緑為誰肥(満城の紅緑 誰が為にか肥ゆ。京に満ちる紅緑は誰が為に咲いているのであろうか。春の花は将軍の為のみでなく万民に隔てなく咲いているのである。将軍も謙虚に万民の為を思うべきである。)」「よろづ民うれへなかれと朝ごとにいのるこころを神やうくらむ」)

・後柏原原天皇(宸翰「般若心経御奥書」宸翰「無間普門像御賛」宸翰「観無量壽経」宸翰「真如堂縁起絵詞」等)・後奈良天皇(宸筆「般若心経」「阿弥陀経」)等・後陽成天皇(宸筆「法華経御奥書」「仮名文字遣」「源氏物語御奥書」

)・後水尾天皇(和歌や書道、華道など学問・芸術に通じた文化人。伊勢物語や源氏物語などの古典の注釈書も執筆、歴代天皇で最多の著作を残した。「後水尾院御集」は江戸時代において典範と仰がれた。「いかて身のさとりひらくる花もみむまよはぬ年の春は来にけり」等)・後光明天皇(「後光明天皇御製」「思ひしる花やなからむあくがれて知らぬ山路に迷ふこころを」)・霊元天皇(『人麿御奉納百首和歌』「この道の光もそひてのどけさを世にしきしまの春はきにけり」)・光格天皇(「身のかひは何を祈らず朝な夕な民安かれと思うばかりぞ」)

・大正天皇(「大正天皇御製詩集」「『禁園所見』「禁園何ノ見ル所ゾ、樹湿(ウルオ)ヒテ雨、痕アリ。林間幽石横タハリ、苔生ジテ風漸(ヨウヤ)ク温カナリ。長松何ゾ磊落(ライラク)ナル。径辺盤根(バンコン)ヲ認ム。竹林晴日ヲ帯ビ、幾処カ龍孫(リョウソン)ヲ長ズ。逍遥自ラ意ニ適(カナ)ヒ、一笑労煩(ロウハン)ヲ解ク。黄鴬時に宛転(エンデン)、行(ユクユク)草花ノ繁キヲ看ル」)

の御三十五代の天皇は其の御製を傳へられてある。嵯峨天皇は殊に斯道の達者にましました。天皇の御代は我が国漢文学史上の全盛の時代であり「凌雲集」「文華秀麗集」等の詩集が勅撰せられ、和歌に於ける勅撰集の先駆を成した。

 

次に御歴代の今日に知られて居るものは、嵯峨天皇以後大正天皇にいたる迄第五十六代の御方にましまし、御著作の数は三百十餘部に及んでいる。其の種類は、御日記・御製・有職故実・古典の研究等各方面に亙る。

 

芸術界について見るに古より今に至り、全ての時代を通じて芸術は常に皇室の庇護奨励の厚きに依りて其の発展を示し、それぞれの時代特殊の様相を呈して居る。古く飛鳥時代にあっては推古天皇幷聖徳太子の力に依って仏教美術の粋を傳へ、天平時代には聖武天皇を中心に仰いで一般芸術の振興殊に著しきものあり、東大寺はいふに及ばずその他奈良の旧都の近くに存せる佛像の如き、或は正倉院御物の如き、その制作の優秀、意匠の豊富當に驚嘆に値する。此の後列聖が芸術に於いて豊かなる趣味を有したまひ、また芸術家に対して優遇奨励の道を講じ玉ひし事跡は茲に一一述べ盡すべくもないことである。

 

御歴代の中に於て著しく絵画の技を能くし玉ひしと傳へらるる御方は凡そ御二十五代を数へ奉る。即ち平城天皇・宇多天皇・冷泉天皇・花山天皇・一條天皇・堀河天皇・鳥羽天皇・後白河天皇・高倉天皇・後鳥羽天皇・土御門天皇・順徳天皇・後嵯峨天皇・後深草天皇・後宇多天皇・伏見天皇・花園天皇・後花園天皇・後奈良天皇・後陽成天皇・後水尾天皇・明正天皇・後光明天皇・霊元天皇・桜町天皇の御代代にまします。花園天皇の音楽に関する絵図は伏見宮に蔵せられ、後花園天皇の画きたまひし「ことはら絵巻」と称する絵巻物は京都御所東山御文庫にあり、霊元天皇の「孔子像」も亦東山御文庫に蔵せられてある。

 

 

書道に於いては列聖の之に秀でたまひしことは誠に御天稟のしからしむる所、御歴代いずれも書をよくせざれざるはなしと申すべきである。中について嵯峨天皇がその道の聖者にましましたことは今更申すまでもなく

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、宇多天皇の雅にして健やかにましませる

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、醍醐天皇の雄勁とも申すべく御筆勢の盛んなる、後鳥羽天皇の流麗

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、後宇多天皇の渾厚にして弘法大師の書風に酷似したまへる

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、何れも入神の技とも申すべきであろう。伏見天皇は和漢の筆法に通じたまひ

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皇子尊圓新王はその系統を承け次いで更に深意を創め後の御家流の基を開かれ其の書風は数百年の長きに亙て今に傳て居る。

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次に花園天皇が円満にして而も闊達なる

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後醍醐天皇が剛健にして頸抜なるなるは

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何れも御気象の現はれたるを拝することができる。

後花園天皇が仮名絵詞の妙を得たまへる

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後奈良天皇の豊潤にして雄渾にましませる

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後陽成天皇の剛柔兼ね併せたまへる

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後水尾天皇の枯淡にして脱塵の風を具へたまへる

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霊元天皇が温和にして雅淳にましませる

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中御門天皇の風格高邁、気韻清秀にましませる

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光格天皇の謹厳剛正にましませる

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等御歴代の書道に勝れましますことは実に景仰に堪へざるものがある。

 

音楽も亦皇室の保護に依って其の発達を見たのであって、古代音楽の保護せられて今日に傳はるのも偏に皇室の保護に依るものである。(荀子の楽論篇第二十に「夫れ聲樂(せいがく)の人に入るや深く、其の人を化するや速(すみやか)なり。故に先王謹んで之が文を爲す。樂(がく)中平なれば、則ち民和して流せず、樂肅莊なれば、則ち民齊して亂せず。民和齊なれば、則ち兵勁(つよ)く城固く、敵國敢て嬰(ふ)れざるなり。是の如くなれば、則ち百姓其の處(ところ)に安んじ、其の鄉(きょう)を樂んで、以て其の上に至足せざること莫し。」孝経に「風を移し俗を易るは、楽より善きは莫し」。守覚法親皇の「右記・管弦音曲等事」に「管弦左右に在れば君臣治乱を知る。風を移し俗を易るは、楽より善きは莫し」)

 

御歴代の中、音楽の道に達したまひし事の史籍に見ゆる方々は、文武天皇・聖武天皇・嵯峨天皇・仁明天皇・清和天皇・光孝天皇・宇多天皇・醍醐天皇・村上天皇・一條天皇・後三条天皇・堀河天皇・鳥羽天皇・後白河天皇・二條天皇・高倉天皇・後鳥羽天皇・後深草天皇・亀山天皇・花園天皇・後醍醐天皇・後花園天皇・後陽成天皇・光格天皇の御二十四代にまします。中にも嵯峨天皇のその道の妙手にましまし、和琴・簫・琵琶・笛を善く遊ばされた。

仁明天皇も亦斯道に秀でたまひ、宸作にかかる舞楽の曲も数々あり何れも巧妙を極められた。之に依りて其の御代における舞楽の発達は著しいものがある。奈良時代にその以前に輸入せられた外国の音楽が漸く日本化して、我が国民性に融和せられたのは此の時代であって、舞楽の再興幷に改作の事が屡々見える。堀河天皇も亦亦斯道の奥義を極めたまひ、殊に笛の達者にましまし、當時その妙に及ぶものなしと言われた。又神楽を善くしたまひ、その秘曲を伶人多近方(おおの ちかかた)に授けてその絶へたるを継がしめた。後世神楽の説は天皇より傳はると申している。鳥羽天皇は善く催馬楽を歌ひたまひ、音律に詳しく又笛に長ぜられた。後白河法皇は多芸にましましたが中にも今様を好ませたまひ「梁塵秘抄」等の御著作がある。花園天皇も琵琶その他の楽に通じたまひ、親しく宸筆を以て楽書を写したまひしものが今に傳へられてある。後花園天皇も亦笙・筝等に秀でたまひ、後陽成五天皇は琵琶を善くし玉ひ、親しく宸筆を以て記したまへる琵琶の寸法遺書が保存せられてある。光格天皇が音楽に長じたまひしことは御手なれし楽器が多く、京都御御所、東山御文庫に載せられてあるに依りても知ることができる。其の頃、紫野栗山(寛政の三博士の一人)が京都在住の時、或る夜月明に乗じて皆川淇園(江戸時代中期の儒学者)と加茂川邊を逍遥し御苑の東門より入りて南門前に出た。時に笛聲嚠喨人の耳を掠む。その音は當に御所の常御殿より洩れ来るものの如くであった。栗山忽ち詩の句を得て淇園に次句を附けんことを求めた。其の句は「上苑西風桂香動く、承明門外月霜の如し」といふのであった。淇園が次の句を案ずる間に又笛の音が聞こえた。栗山忽ち句を得て淇園の之に附けるまでもなく、後を続けた、曰く「何人今夜廣寒殿、一曲霓裳御觴勧む」と。禁裏の南門の前、月の光の冴ゆる中に西風が桂の香りを送ってくる。今夜清涼殿においては何人が一曲霓裳羽衣の曲(霓裳羽衣曲(げいしょうういのきょく)は、唐の玄宗皇帝が夢の中で見た天上の月宮殿での天人の舞楽にならって作ったと伝えられる楽曲)を奏して御上に盃を勧めまつって居るのであろうかといふやうな意味と思はれる。この一篇の詩話の如き又以て光格天皇の音楽に於けるご趣味の豊かにましましたことを反映する一佳話であろうと思ふ。

 

 

宗教界について見るに、佛教の渡来以来以後凡そ千四百年に及びその間九十六代の御代に亙て何れも多生佛教に関係ない御方はない。宗教は元より帝王の外護に依りて弘まるものではあるが、我が国の如く皇室と仏教の密接なるは他にその例を見ざるものである。御歴代の中には法皇として御落飾の上佛門に帰依されて猶ほ政を視たまひし例も少なくない。又法名を御称になった方は、聖武天皇の勝満を初め奉り霊元天皇の素浄に至るまで凡そ三十代を数へ奉る

https://blog.goo.ne.jp/fukujukai/e/a4bbf4ffe06d39e51d44da7d30c935b1

その間に御信仰の厚薄もあるが何れも健全なる御信仰を維持したまひ、寺院の建立・造像・写経・佛経の講説・法会・祈祷等に依りて国民を善導し精神的救済を図り、人民の幸福を進め、国家の安寧を祈り、又御自身も聖徳涵養に資せられたことが多い。

さて仏教伝来の當初より、その揺籃時代に於いて之を保護しその発育を図られたのは全く皇室の力に依ったのである。即ち蘇我物部の奉佛排佛の争に當り、佛教を庇護して物部氏に対抗したまひしは池邊皇子即ち後の用明天皇、及び豊御食炊屋姫(とよみけかしきやひめ)即ち推古天皇にましましたのである。其の後聖徳太子の出たまふに及び佛教興隆に一段を劃くし、之に依りて日本文化の水準を高めた。聖徳太子の御出世は佛教の日本化の為には最も幸な事であった。太子が早く佛教を研究し、よく之を咀嚼し、之を消化し、之を御自分のものとして喧伝せられたが為に佛教は日本国民精神と融合し、日本人自らがよく之を扱ふことを得たのである。ついで奈良時代に至り聖武天皇の御代には、佛教の隆盛は前後に其の比を見ず。諸國寺塔の建立多かりしが中に、東大寺の建立と国分寺の創設は国民文化の催進のために大なる刺戟を與へた。既にして其の勢の極まる處、政教関係において弊を醸すに至った。桓武天皇即ち大英断を以て平安遷都の事を起こしたまひ、革新の業を創めて奈良に於ける佛教文化の腐敗を清めたまひ、最澄を起用して精神界に新気運を起さしめ、之が為に天台宗の開立を許したまひ、ついで嵯峨天皇は先帝の遺業を継承して天台宗の興隆に力を致し、更に空海を助けて、新宗教真言宗を樹立せしめられ、之より両宗益々栄へて日本文化の独立に貢献する所多く、思想界に潤いを與へた。この後、平安時代を通じて密教全盛時代の世を現出し、其の後弊漸く生ずるに至って、遂に新佛教興起の機運を促した。皇室と新佛教との関係については浄土宗及び日蓮宗は初めは比較的その関係浅かったが室町時代に入って両宗とも多少皇室との関係を結ぶようになった。(

https://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=&ved=2ahUKEwiWseuN3eyLAxWYbPUHHRM5CKUQFnoECBQQAQ&url=http%3A%2F%2Fshinden.boo.jp%2Fwiki%2F%25E6%25B5%2584%25E5%259C%259F%25E5%25AE%2597%25E3%2581%25AE%25E7%259A%2587%25E5%25AE%25A4%25E9%2596%25A2%25E9%2580%25A3%25E5%25AF%25BA%25E9%2599%25A2&usg=AOvVaw0qqanisvNq9qe6YfJlbstH&opi=89978449

禅宗は稍早くより皇室の庇護を受けた。(亀山上皇は臨済宗に帰依し、祈祷を命じて国難に対処しました。出家後に法皇となり、離宮を禅寺として臨済宗南禅寺を建立。)

以上は学問・芸術・宗教等文化の各部門に亙て皇室が常にその発展の中心にましますことを申したのである。之に依りてすべての文化は我が國體に融合せられ同化されたのである。

 

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