第三章 さとりの心
第一節 清らかな心
五、ここに講堂があって太陽が出て明るくなり、太陽が隠れて暗くなるとする。明るさは太陽に返し、暗さは夜に返すこともできよう。しかしその明るさや暗さを知る力はどこにもかえすことはできない。それは心の本性、本体に返すよりほかに道はない。
太陽が現れて、明るいとみるのもひとときの心であり、太陽が隠れて暗いとみるのもひとときの心である。
このように、明暗という外の縁に引かれて、明暗を知る心が起こるが、明暗を知る心は、ひとときの心であって、心の本体ではなく、その明暗を知る力の根本は心の本体である。
外の因縁にひかれて生じたり滅したりする善悪、愛憎の念は人の心に積まれたよごれによって起こるひとときの心なのである。
煩悩のちりに包まれて、しかもそまることも汚れることもない、本来清浄な心がある。
丸い器に水を入れると丸くなり、四角な器に水をいれると四角になる。しかし本来、水に丸や四角があるのではない。ところがすべての人々はこのことを忘れて、水の形にとらわれている。
善し悪しと見、好む好まぬと考え、有り無しと思い、その考えに使われ、その見方に縛られて、ほかのものを追って苦しんでいる。
縛られた見方を外の縁に返し、縛られることのない自己の本性にたちかえると、身も心もなにものにもさえぎられることのない、自由な境地がえられるであろう。
第一節 清らかな心
五、ここに講堂があって太陽が出て明るくなり、太陽が隠れて暗くなるとする。明るさは太陽に返し、暗さは夜に返すこともできよう。しかしその明るさや暗さを知る力はどこにもかえすことはできない。それは心の本性、本体に返すよりほかに道はない。
太陽が現れて、明るいとみるのもひとときの心であり、太陽が隠れて暗いとみるのもひとときの心である。
このように、明暗という外の縁に引かれて、明暗を知る心が起こるが、明暗を知る心は、ひとときの心であって、心の本体ではなく、その明暗を知る力の根本は心の本体である。
外の因縁にひかれて生じたり滅したりする善悪、愛憎の念は人の心に積まれたよごれによって起こるひとときの心なのである。
煩悩のちりに包まれて、しかもそまることも汚れることもない、本来清浄な心がある。
丸い器に水を入れると丸くなり、四角な器に水をいれると四角になる。しかし本来、水に丸や四角があるのではない。ところがすべての人々はこのことを忘れて、水の形にとらわれている。
善し悪しと見、好む好まぬと考え、有り無しと思い、その考えに使われ、その見方に縛られて、ほかのものを追って苦しんでいる。
縛られた見方を外の縁に返し、縛られることのない自己の本性にたちかえると、身も心もなにものにもさえぎられることのない、自由な境地がえられるであろう。