福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

5・6日参拝の諏訪大社の本地について

2017-02-28 | おすすめ情報

諏訪大社の本地について

上社本宮 ご祭神は建御名方神 (たけみなかたのかみ、古事記では、国譲りに際して、大国主神と建御名方神の兄の事代主神(コトシロヌシ)は建御雷神に対し恭順の意を示したが建御名方神は建御雷神と戦ったが負けて諏訪に逃げた)本地は普賢菩薩
上社前宮 ご祭神は八坂刀売神 やさかとめのみこと(建御名方神の妃)本地は如意輪観音
下社秋宮 ご祭神は八坂刀売神・建御名方神、本地は千手観音
[配祀] 事代主神
下社春宮 ご祭神は八坂刀売神・建御名方神本。本地薬師如来
[配祀] 事代主神





「神道集」巻第四に
「信濃国鎮守諏方大明神秋山祭事。そもそも信濃国の一宮をは諏方の上宮と申す。 本地は普賢菩薩これなり。
[中略]
二宮を諏方の下宮と申す。 本地は千手観音なり。 または大悲観世音と名づく。・・

「諏訪大明神絵詞」(13世紀、諏訪円忠作)

爰に信州諏方大明神は、本地を訪へば普賢大士ノ応作。 恒順衆生の願 余聖にこえ、懺懈滅罪の益諸凡にかうぶらしむ。 垂迹に付て異説あり。 或は他国応生の霊、或我朝根本の神。 旧記の異端凡慮はかりがたし云へども、旧事本記の説によらば、素盞烏尊の御孫大己貴神の第二の御子建御名方の神是也。 父兄の御心に随て孝順の道を顕し給ふ。 持統天皇は勅使を遣して祭礼を始められ(日本書紀持統5年にある)、弘仁聖主は霊夢を感じて本地を覚りましましき。 下宮は大慈大悲の薩埵千手千眼の示現也。 泥梨には極り元にはかり、娑婆には無畏を施す。 垂迹は又南天の国母、北極の帝妃。 月氏の雲を出で、日域の塵に交り給ふ。 この上下両社は、世俗に准て陰陽の儀を表す。 また是定慧の法門なり。・・」
「仏像図彙」にも「三十番神」の2日目に「諏訪大明神(二日)信濃国諏訪郡に鎮座本地普賢」とある。

「下諏訪町誌」には
 「諏訪の宮寺は、上社に神宮寺、如法院、蓮池院、法華寺の四ヵ寺があり、下社に神宮寺、三精寺、観照寺の三ヵ寺があつた。 うち法華寺だけは臨済宗であつたが、他はみな真言宗であつた。・・
上社の本地仏が普賢菩薩であり、下社の本地仏が春宮薬師如来・秋宮千手観音であるのは、皆この本地垂跡説により生まれたものである。 下社の本地仏が千手観音であることは、既に鎌倉時代の「宴曲拾菓集」に見え、また「諏訪大明神絵詞」にも説かれているから、その成立はやはり平安朝末期と思われる。 この本地仏の尊像を安置するのが本地堂である。 秋宮の千手堂は即ち本地堂で、それは秋宮入口の右手にあり、神宮寺の管掌するところであつた。 「起立書」(下諏訪年中行事條)によると、江戸時代にあつては、毎朝千手堂において千手秘法を修し、また節分に当つては、この堂で追儺の式を挙げている。
[中略]
 和光山観照寺は下の原和田峠登り口右手にあつた寺である。 宗旨は真言宗、春宮の別当寺で、神宮寺の勢力下にあつたが門徒九坊を有する大寺であつた。」

「下諏訪寺社年中行事」には、
「春宮本地長日毎朝薬師秘法修行、同じく護摩堂長日の修法観照寺之を勤め、天下泰平国土豊穣を祈り奉る也。 長日毎朝の護摩は東光坊之を勤むる也。
とある。 東光坊は観照寺の門徒である。 春宮の本地堂には薬師如来が安置されていた。 その遺跡は春宮裏手の薬師平である。」 とあり、
「諏訪神社上宮神宮寺世代」には
 「上宮に、神宮寺(普賢堂・鐘楼・大般若堂・二王門等 )、如法院(如法堂・奉納堂・護摩堂等)、蓮池院(護摩堂等)、法華寺(五重塔・薬師堂・釈迦堂・二王門等)の四ヶ寺が、
下宮には神宮寺・三精寺(千手堂・護摩堂・三重塔・鐘楼・二王門・経堂・法納堂・十六善神堂等)、観照寺(護摩堂・萩原薬師堂・子安堂・役行者堂等)の三ヶ寺があった。」と書かれているという。
 
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 神道の新しい方向、折口信夫... | トップ | 福聚講・今日の言葉 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

おすすめ情報」カテゴリの最新記事