今昔物語集・巻十六「伊予国越智の直(あたひ)、観音の助によりて震旦より返り来れる語 第二」
今昔、□□天皇の御代に、伊予の国、越智の郡の大領が先祖に、越智の直と言ふ者有けり。
百済国の破ける時、彼の国を助けむが為に、公け、あまたの軍を遣す(斉明七年661ころ)。中に此の直を遣しけり。直、彼の国に至りて、助けむとするに、堪へずして、唐の方の軍に取られて、唐にゐて行きぬ。此の国の人、八人同く或あり。一の洲(しま)に籠め置たれば、同じ所に八人有て、泣き悲む事限無し。今は本朝に返らむ事、望み絶へたる事なれば、各父母・妻子を恋ふる程に、其の所にして、観音の像一躯を見付奉たり。
八人、同く此れを喜びて、心を発して念じ奉るやう、「観音は一切の衆生の願を満て給ふ事、祖(おや)の子を哀ぶが如し。而るに、此れ(帰朝することは)有難き事也と云ふとも、慈悲を垂給て、我等を助て本国に至らしめ給へ」と泣々く申して日ごろを過る程に、此の所は余の方は皆逃ぐべき様無く、皆人有る方也。只後ろの方、深き海にして、辺りに多くの木有り。八人、同じく議して、構へ謀る様、「密に此の後ろの海の辺に有る大なる松の木を伐て、此れを船の形に刻て、其れに乗りて、密に此を出でて、人通わぬ海也と云ふとも、只海の中にて死なむ。此にて死なむよりは」と議して、八人して此の木を伐て、忽に刻りつ。
此れに乗りて、此の観音の像を船の内に安置し奉て、各願を発して、泣々く難じ奉る事限無し。国の人、後ろを疑ふ事無くして、此れを知らず。
しかる間、おのずから西の風出来て、船を箭を射るが如く、直しく筑紫に吹き着けたり。「此れ、偏に観音の助け給ふ也」と思ひて、喜びながら岸に下て、おのおの家に返りぬれば、妻子、此れを見て、喜び合へる事限無し。事の有様を語て貴びけり。
其の後、公(おほやけ)、此れを聞しめして、事の有様を召し問はるるに、有し事を落さず具に申す。公、聞しめして、哀び貴び給て、申さむ所の事を恩(ゆる)し給はむとするに、越智の直、申して云く、「当国に一の郡を立て、堂を造て此の観音の像を安置し奉らむ」と。而るに、公、「申すに随ふべし」と仰せ下されぬれば、直、思の如く、郡を立て堂を造て、其の観音の像を安置し奉けり。
其より後、今に至るまで、其の子孫、相伝へつつ、此の観音を恭敬し奉る事絶えず。亦、其の国の越智の郡、此より始りけりとなむ語り伝へたるとや。
(684年(天武13年)、猪使連子首(いつかいのむらじこびと)・筑紫三宅連得許(つくしのみやけのむらじとくこ)が、遣唐留学生であった土師宿禰甥(はじのすくねおい)・白猪史宝然(しらいのふびとほね)らとともに、新羅経由で帰国したのが、記録に現れる最初の白村江の戦いにおける捕虜帰還である、とされます。)