十三佛は自己曼荼羅を導く究極の密教曼荼羅であること・・27
第七章
第九節、 勢至菩薩。勢至菩薩は観音菩薩と共に阿弥陀如来の両脇侍である。観音菩薩の蓮華は開いているが勢至菩薩の蓮華は蕾である。勢至菩薩は我々に菩提心を発せよう発せようという誓願であるから左手に蕾の蓮華をもって右手でその蓮華を開かせようという姿勢をしてござる。勢至菩薩は「因」で観音菩薩が「果」である。勢至菩薩の名について観無量寿経では,智慧の光を以て普く一切を照らし、三途を離れて無上力を付与するのはこの菩薩の徳である、とある。(仏説観無量寿経に「次にまた大勢至菩薩を観ずべし。この菩薩の身量の大小は、また観世音のごとし。円光の面は、おのおの百二十五由旬なり。二百五十由旬を照らす。 挙身の光明は十方国を照らし、紫金色をなす。有縁の衆生は、みなことごとく見ることを得。ただこの菩薩の一毛孔の光を見れば、すなはち十方無量の諸仏の浄妙の光明を見る。このゆゑにこの菩薩を号けて無辺光と名づく。智慧の光をもつてあまねく一切を照らして、三塗を離れしむるに無上力を得たり。このゆゑにこの菩薩を号けて大勢至と名づく。この菩薩の天冠に五百の宝華あり。一々の宝華に五百の宝台あり。一々の台のうちに十方諸仏の浄妙の国土の広長の相、みななかにおいて現ず。頂上の肉髻は鉢頭摩華のごとし。肉髻の上において一つの宝瓶あり。もろもろの光明を盛れて、あまねく仏事を現ず。余のもろもろの身相は、観世音のごとく、等しくして異あることなし。この菩薩行きたまふとき、十方世界は一切震動す。地の動く処に当りて五百億の宝華あり。一々の宝華の荘厳、高く顕れて極楽世界のごとし。この菩薩、坐したまふとき、七宝の国土一時に動揺し、下方の金光仏の刹より乃至上方の光明王仏の刹まで〔及び〕、その中間において無量塵数の分身の無量寿仏、分身の観世音・大勢至、みなことごとく極楽国土に雲集す。空中に側塞して蓮華座に坐し、妙法を演説して苦の衆生を度す。この観をなすをば名づけて正観とし、もし他観するをば、名づけて邪観とす。大勢至菩薩を見る。これを大勢至の色身を観ずる想とし、第十一の観と名づく。この菩薩を観ずるものは、無数劫阿僧祇の生死の罪を除く。この観をなすものは胞胎に処せず、つねに諸仏の浄妙の国土に遊ぶ。この観成じをはるをば、名づけて具足して観世音・大勢至を観ずとす。」とある)。努力主義とか精力主義とかいうのはこの菩薩の活現というべきである。いまでは開運の仏とされているが、勢至菩薩の本誓を現実的にしたのにすぎない。或は勢至菩薩を二十三夜様(旧暦23日の夜,に講員が集まって飲食をともにしながら月の出を待つことをいう。月待行事のなかでも最も盛んに行われた。月待のマチは,神のかたわらに待座する意味らしく,この夜には神の示現があると信じられていた、いまでも二十三夜という地名も多く残る)として崇めている。
第七章
第九節、 勢至菩薩。勢至菩薩は観音菩薩と共に阿弥陀如来の両脇侍である。観音菩薩の蓮華は開いているが勢至菩薩の蓮華は蕾である。勢至菩薩は我々に菩提心を発せよう発せようという誓願であるから左手に蕾の蓮華をもって右手でその蓮華を開かせようという姿勢をしてござる。勢至菩薩は「因」で観音菩薩が「果」である。勢至菩薩の名について観無量寿経では,智慧の光を以て普く一切を照らし、三途を離れて無上力を付与するのはこの菩薩の徳である、とある。(仏説観無量寿経に「次にまた大勢至菩薩を観ずべし。この菩薩の身量の大小は、また観世音のごとし。円光の面は、おのおの百二十五由旬なり。二百五十由旬を照らす。 挙身の光明は十方国を照らし、紫金色をなす。有縁の衆生は、みなことごとく見ることを得。ただこの菩薩の一毛孔の光を見れば、すなはち十方無量の諸仏の浄妙の光明を見る。このゆゑにこの菩薩を号けて無辺光と名づく。智慧の光をもつてあまねく一切を照らして、三塗を離れしむるに無上力を得たり。このゆゑにこの菩薩を号けて大勢至と名づく。この菩薩の天冠に五百の宝華あり。一々の宝華に五百の宝台あり。一々の台のうちに十方諸仏の浄妙の国土の広長の相、みななかにおいて現ず。頂上の肉髻は鉢頭摩華のごとし。肉髻の上において一つの宝瓶あり。もろもろの光明を盛れて、あまねく仏事を現ず。余のもろもろの身相は、観世音のごとく、等しくして異あることなし。この菩薩行きたまふとき、十方世界は一切震動す。地の動く処に当りて五百億の宝華あり。一々の宝華の荘厳、高く顕れて極楽世界のごとし。この菩薩、坐したまふとき、七宝の国土一時に動揺し、下方の金光仏の刹より乃至上方の光明王仏の刹まで〔及び〕、その中間において無量塵数の分身の無量寿仏、分身の観世音・大勢至、みなことごとく極楽国土に雲集す。空中に側塞して蓮華座に坐し、妙法を演説して苦の衆生を度す。この観をなすをば名づけて正観とし、もし他観するをば、名づけて邪観とす。大勢至菩薩を見る。これを大勢至の色身を観ずる想とし、第十一の観と名づく。この菩薩を観ずるものは、無数劫阿僧祇の生死の罪を除く。この観をなすものは胞胎に処せず、つねに諸仏の浄妙の国土に遊ぶ。この観成じをはるをば、名づけて具足して観世音・大勢至を観ずとす。」とある)。努力主義とか精力主義とかいうのはこの菩薩の活現というべきである。いまでは開運の仏とされているが、勢至菩薩の本誓を現実的にしたのにすぎない。或は勢至菩薩を二十三夜様(旧暦23日の夜,に講員が集まって飲食をともにしながら月の出を待つことをいう。月待行事のなかでも最も盛んに行われた。月待のマチは,神のかたわらに待座する意味らしく,この夜には神の示現があると信じられていた、いまでも二十三夜という地名も多く残る)として崇めている。