・十三佛は自己曼荼羅を導く究極の密教曼荼羅であること・・26
第七章
第八節、 観音菩薩、
わが国で最も広く行われている信仰は観音信仰である。歴史的にも奈良時代から今日まで、地域的にも西国・秩父・坂東三つの三十三観音霊場がある。而して阿弥陀如来の信仰には観音・勢至の両脇侍としての観音信仰が付随している。
胎蔵曼荼羅の観音院には三十七尊いましてその他の院にも千手観音等はある。観音様の異像も多い。観世音とは観音経にいう「百千満億衆生あって諸の苦悩を受くるに、この観世音菩薩の名を聞き一心に称名すれば即時にその音声を観じて皆解脱を得る、とある。(妙法蓮華経観世音菩薩普門品第二十五「・・若有無量百千萬億衆生受諸苦惱,聞是觀世音菩薩,一心稱名,觀世音菩薩即時觀其音聲,皆得解脫・・」)。新訳の方では観自在菩薩というが苦を自在に除くということである(玄奘三蔵以降の新訳では観自在菩薩と訳す。般若心経等)。観音様は左手に蓮華を持ち右手を開いてござるが我々は迷うておるが迷うておってもその心は正しいものである、丁度蓮華が泥の中なら出ても清い花を開くようなものであるとの標示である。自己は四囲の事情の為に狭められたり迷わせられたりしておるが一度自己を自覚する時、自己は無限の光明を発しうるとの意である。この観音菩薩が三十三身その形を現して吾人をお救いくださるというのもこの真正の自己の開発に他ならぬのである。法華経は大聖釈尊が出世の本懐(衆生再度)を説いた経であるが、観音経といわれる法華経の二十八品も亦観音菩薩の功徳を讃嘆したにすぎぬということもできる。