十三佛は自己曼荼羅を導く究極の密教曼荼羅であること・・28
第七章
第十節、 阿弥陀如来。
我が国民で「南無阿弥陀仏」を口にしない人は一人もいないと断言してもよい。阿弥陀如来は浄土門から見たら四十八願をたてた極楽浄土の教主で唯一絶対であろう。しかし密教の見地から見れば金胎両部曼荼羅で各の西方に位されて蓮華部の教主で衆生の無量無辺なるを救済したまうのである。(胎蔵曼荼羅では中台八葉院で西方に無量寿如来としておられ、金剛界曼荼羅では成身会で大日如来を囲む四佛のお一人として西方に位置されています)阿弥陀如来は梵語であり、翻訳して無量寿または無量光というが大日経疏には西方において無量寿佛を観ぜよ、これは是如来の方便智なり、衆生の無量なるを以ての故に諸仏大悲方便また終尽なし、ゆえに無量寿と名ずく、とある。(入漫荼羅具縁眞言品第二之餘「・・・次於西
方觀無量壽佛。此是如來方便智。以衆生界無盡故。諸佛大悲方便亦無終盡。故名無量壽。梵音爾爾名爲仁者。又以降四魔故名爲勝者。故偈具翻其義。謂之仁勝者。・・・」)阿弥陀如来は普通は蓮華部の定印、乃ち弥陀定印に住してござる。弥陀定印とは両手に大指と頭指との頭を合わせて円形を造り、膝の上に左手を下にして掌を重ね、中指以下三指を組み合わせたのである。この円形は転法輪の形で,即ち説法の印であるが、この弥陀定印を引き離して右手を胸の前に立て、左手を腰の辺に垂れてござる阿弥陀様もある。膝の上に重ねたのは静止の形で、引き離したのは活動の意である。この弥陀定印と、密教の現象即実在を顕す最極秘印の無所不至印とは同一で只無所不至印は胸の辺に立て、弥陀定印は膝の上に置いたのとの差があるだけである。阿弥陀如来が密教から出て大日如来と同じ意味の唯一絶対の位置を得たのはこの消息に依る(さらにいえば求聞持法のご本尊虚空蔵菩薩の印も是に似ています、が秘印ですのでこれ以上の解説は控えます)。
第七章
第十節、 阿弥陀如来。
我が国民で「南無阿弥陀仏」を口にしない人は一人もいないと断言してもよい。阿弥陀如来は浄土門から見たら四十八願をたてた極楽浄土の教主で唯一絶対であろう。しかし密教の見地から見れば金胎両部曼荼羅で各の西方に位されて蓮華部の教主で衆生の無量無辺なるを救済したまうのである。(胎蔵曼荼羅では中台八葉院で西方に無量寿如来としておられ、金剛界曼荼羅では成身会で大日如来を囲む四佛のお一人として西方に位置されています)阿弥陀如来は梵語であり、翻訳して無量寿または無量光というが大日経疏には西方において無量寿佛を観ぜよ、これは是如来の方便智なり、衆生の無量なるを以ての故に諸仏大悲方便また終尽なし、ゆえに無量寿と名ずく、とある。(入漫荼羅具縁眞言品第二之餘「・・・次於西
方觀無量壽佛。此是如來方便智。以衆生界無盡故。諸佛大悲方便亦無終盡。故名無量壽。梵音爾爾名爲仁者。又以降四魔故名爲勝者。故偈具翻其義。謂之仁勝者。・・・」)阿弥陀如来は普通は蓮華部の定印、乃ち弥陀定印に住してござる。弥陀定印とは両手に大指と頭指との頭を合わせて円形を造り、膝の上に左手を下にして掌を重ね、中指以下三指を組み合わせたのである。この円形は転法輪の形で,即ち説法の印であるが、この弥陀定印を引き離して右手を胸の前に立て、左手を腰の辺に垂れてござる阿弥陀様もある。膝の上に重ねたのは静止の形で、引き離したのは活動の意である。この弥陀定印と、密教の現象即実在を顕す最極秘印の無所不至印とは同一で只無所不至印は胸の辺に立て、弥陀定印は膝の上に置いたのとの差があるだけである。阿弥陀如来が密教から出て大日如来と同じ意味の唯一絶対の位置を得たのはこの消息に依る(さらにいえば求聞持法のご本尊虚空蔵菩薩の印も是に似ています、が秘印ですのでこれ以上の解説は控えます)。