福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

中論観三相品第七

2022-01-20 | 諸経

中論観三相品第七・三十五偈

「問て曰く、経に説かく、有為法に三相あり、生住滅なり。萬物は生法を以て生じ住法を以て住し、滅法を以て滅す、と。この故に諸法あり。答て曰く、爾らず、何となれば三相は決定なきがゆえに。この三相は是れ有為にして能く有為の相を為すとやせむ。是れ無為にして能く有為の法を作すとやせむ。二俱に然らず。何となれば

「若し生これ有為ならば則ち應に三相を有すべし。若し生がこれ無為ならば何ぞ有為の相と名けん。」(第一偈)(もし生がさらに生住滅の特質を有しており、 住もまた生住滅の特質を有し、滅もまた生住滅の特質を有しているならば共通 それぞれに区別がないことになるから、「生」「住」「滅」はどこに存在し得るや)

 

若し生が是れ有爲ならば應に三相を有して生住滅すべきも是の事然らず。何以故。共に相違するが故なり。相違とは生相は應さに生法、住相は應さに住法、滅相は應さに滅法なり。若し法の生ずる時は住滅相違の法はあるべからず。

一時なるも則ち然らず。明闇は倶ならざるが如し。是の故を以て生は應に是れ有爲法なるべからず。住滅相も亦た應さに如是なり。問曰、若し生は有爲にあらずとせば、若し是れ無爲は何の咎あらんや。答曰、若し生は是れ無爲ならば云何んが能く有爲法の為に相と作らむ。何以故。無爲法は無性なるが故なり。有爲を滅する因って無爲と名く。是の故に「不生不滅を無爲相と名け、更に自相無し」と説く。是の故に無法は能く法の為に相と作る能はず。兎角・龜毛等の法の為に相と作る能はざるが如し。是の故に生は無爲に非ず。住滅も亦た如是なり。

復次に、

「三相、若し聚散せば所相有ること能はず。云何んが一處に於いて 一時に三相有らむや」(第二偈)(生住滅の三相が別ならば有為の相をなすに不十分であり、一ならば本来拒否すべき相互がなぜ同時に同一所にあることを得るのか。)

是の生住滅の相、若しくは一一にして能く有爲法の為に相となるや。若しくは和合して能く有爲法のために相となるや。二倶に然らず。何以故。若し一一と謂はば一處中に於いて或は有相あり、或は無相あり、生の時に住滅なく、住の時に生滅無く、滅の時に生住無し。若し和合ならば共に相違の法なり。云何んが一時に倶ならんや。若し三相更に三相有りと謂はば是れ亦た然らず。何以故、

「若し生住滅に更に有爲の相が有と謂はば、是れ即ち無窮ならむ。 無は即ち有爲に非ず」(第三偈)(もし生住滅に更に有爲の相が有ればこれは無窮となる。もし他の有為相がなければ生住滅は有為ではない。)

若し生住滅に更に有爲相有と謂はば生は更に生有り、住・滅有り。如是に三相復た應に更に有相なるべし。若し爾らば則ち無窮なり。若し更に無相ならば、是の三相は則ち有爲法と名けず。亦た能く有爲法の為に相と作る能はず。問曰、汝、三相を説きて無窮と為す。是の事然らず。生住滅は是れ有爲なりと雖も而も無窮に非ず。何以故、

 「生生(生じつつあるもの)の生ずる所、 彼の本生(根本の生)を生じ、本生の生ずる所、還た生生を生ず」(第四偈)

法の生ずる時、自體を通じて七法共に生ず。一には法、二には生、三には住、四には滅、五には生生、六には住住、七には滅滅。是の七法中、本生は自體を除きて能く六法を生ず。生生は能く本生を生じ、本生は能く生生を生ず。是の故に三相は是れ有爲なりと雖も而も無窮に非ず。答曰、

「若し是の生生は能く本生を生ずと謂はば、生生は本生従り 何ぞ能く本生を生ぜんや。」(第五偈)

若し是の生生が能く本生を生ぜば是の生生は則ち本生より生ずと名けず。何以故。是の生生は本生より生ず。云何んが能く本生を生ぜんや。復次に

 「若し是の本生は能く生生を生ずと謂はば、本生は彼より生ず。何ぞ能く生生を生ぜん。」(第六偈)(本生が生生を生ずることは無い、の意)

若し本生が能く生生を生ずと謂はば、是の本生は生生より生ずと名けず。何以故。是の本生は生生より生ず、云何んが能く生生を生ぜん。生生の法は應に本生を生ずべきも而も今、生生は本生を生ずる能はず。生生が未だ自體あらざるに何ぞ能く本生を生ぜんや。是の故に、本生は生生を生ずる能はず。問曰、是の生生の生ずる時、先に非ず、後に非ずして能く本生を生ず。但、生生の生ずる時、能く本生を生ずる。答曰、然らず。何以故、

「若し生生の生ずる時、 能く本生を生ずれば生生は尚ほ未だ有らざるに 何ぞ能く本生を生ぜんや。」(第七偈)

若し、生生の生ずる時、能く本生を生ずること爾るべし、と謂はんに、而も實に未だ有らず。是の故に生生の生ずる時、本生を生ずる能はず。復次に、

「若し本生の生ずる時、能く生生を生ぜば本生すら尚ほ未だ有らざるに 何ぞ能く生生を生ぜんや。」(第八偈)

若し是の本生の生ずる時、能く生生を生ずること爾るべし、と謂はば、而も實は未だ有らざるなり。是の故に本生の生ずる時、生生を生ずること能はず。問曰、

「燈の能く自ら照らし 亦た能く彼を照らすが如く、生法も亦如是なり。自ら生じ亦た彼を生ず」(第九偈)

燈が闇室に入りて諸物を照了し亦た能く自照するが如く、生も亦た如是なり。能く彼を生じ亦た能く自ら生ず。答曰、然らず。何以故。

「燈中に自ら闇無く 住處も亦た闇無し。闇を破するを乃ち照と名く。闇無くば則ち照無し」(第十偈)

燈の體は自ら闇無し。明の及ぶ所の處にも亦た闇無し。明闇相違するが故なり。闇を破するが故に照と名く。闇無くば則ち照無し。何ぞ燈が自ら照し亦た彼を照すと言ふを得んや。問曰、是の燈、未だ生ぜずして照有るに非ず、亦た生じ已りて照有るに非ず。但、燈生ずる時、能く自ら照し亦た彼を照す。答曰、

「云何んが燈の生ずる時 而も能く闇を破せむ。 此の燈、初めて生ずる時、闇に及ぶ能はず。」(第十一偈)(生じつつある燈によって闇が破られることはない。生じつつある燈は闇に達せないから)

燈の生ずる時を半生半未生と名く。燈體が未だ成就せざるに云何んが能く闇を破せん。又燈は闇に及ぶ能はず。人の賊を得たるを乃ち名けて破と為すが如し。若し燈が闇に到らずと雖も而も能く闇を破すると謂はば是れ亦た然らず。何以故、

「燈、若し未だ闇に及ばずして 而も能く闇を破せば、燈は此間に在りて 則ち一切の闇を破せん。」(第十二偈)

若し燈の力が有りて闇に到らずして而も能く破せば此處に燃燈せば應に一切處の闇を破すべし。倶に及ばざるが故に。復次に自ら照らし彼を照すべからず。何以故、

「若し燈の能く自ら照し 亦た能く彼を照さば、闇も亦た應に自ら闇にして 亦た能く彼を闇すべし。」(第十三偈)

若し燈は闇と相違するが故に能く自ら照し亦た彼を照らすとせば、闇と燈と

相違するが故に亦た應に自ら蔽ひ彼を蔽ふべし。若し闇と燈と相違し自ら蔽ひ彼を蔽ふこと能はずんば、燈と闇と相違するも亦た自ら照し彼を照すべからず。是故に燈の喩は非也。生の因縁を破すること未だ盡きざるが故に今當に更に説くべし、

 

「此の生、若し未だ生ぜずんば 云何んが能く自ら生ぜんや。若し生じ已って自ら生ぜば 生じ已れるに何ぞ生を用ひんや。」(第十四偈)

是の生、自ら生ずる時、生じ已りて生ずとやせむ、未だ生ぜざるに生ずとやせむ。若し未だ生ぜざるに生ずとやせむ、則ち是れ無法。無法ならば何ぞ能く自ら生ぜん。若し生じ已りて生ずと謂はば則ち已成なり。復び生ずることをもちひず。已に作して應に更に作すべからざるが如し。若しは已生、若しは未生、是の二は倶に生ぜざるが故に生無し。汝、先に、生は燈の如く能く自ら生じ亦た彼を生ずと謂ふ。是事然らず。(生住滅のうちの残りの)住・滅も亦た如是なり。復次に、

「生は生じ已りて生ずるに非ず、 亦た未だ生ぜざるに生ずるに非ず。生ずる時も亦た生ぜず、去來の中に已に答ふ。」(第十五偈)

生は衆縁和合して生有るに名く。已生の中には作無きが故に生無し。未生の中にも作無きが故に生無し。生時も亦た然らず。生法を離れて生時不可得なり。生時を離れて生法も亦た不可得なり。云何んが生時に生ぜんや。是事、去來中に已に答へり。已生の法は生ずべからず。何以故。生じ已りて復た生ず。如是に展轉せば則ち無窮と為す。作し已りて復た作すが如し。復次に、若し生じ已りて更に生ぜば、何の生法を以って生ぜんや。是の生相は未だ生ぜずして而も生じ已りて生ずと言はば則ち自ら所説に違ふ。何以故。生相未だ生ぜずして而も汝は生と謂ふ、若し未だ生ぜずして生と謂はば法或は生じ已りて生ずべく、或は未だ生ぜずして生ずべし。汝、先に生じおわりて生ずと説く。是れ則ち不定なり。復次に、燒き已りて應に復た燒くべからず、去り已りて應に復た去るべからざるが如く、如是等の因縁の故に、生じ已りて應に生ずべからず。未生の法も亦た生ぜず。何以故。法若し未だ生ぜずんば則ち生の縁と和合すべからず。若し生の縁と和合せずんば則ち法の生ずる無し。若し法、未だ生縁と和合せずして而も生ぜば應に作法無くして而も作し、去法無くして而も去し、染

法無くして而も染し、恚法無くして而も恚り、癡法無くして而も癡なるべし。如是ならば則ち皆な世間の法を破る。是の故に未生の法は生ぜず。復次に若し

未生の法生ぜば世間の未生の法は皆な應に生ずべし。一切凡夫の未生の菩提、今應に菩提不壞法を生ずべし。阿羅漢は煩惱あることなきが今應に煩惱を生ずべし。兎等は無角なるに今皆な應に生ずべし。但是の事は然らず。是の故に未生法は亦た生ぜず。問曰、未生法が生ぜざれば未だ縁あらざるを以て作無く作

者無く、時無く、方等無きが故に生ぜざるなり。若し縁あらば作あり作者あり時あり方等ありて和合するが故に未生の法が生ず。是故に若し一切未生の法、皆な生ぜずと説かば是事爾らず。答曰、若し法縁有り、時有り、方等有りて和合して則ち生ぜば先に有なるも亦た生ぜず。先に無なるも亦た生ぜず。有無も亦た生ぜず。三種先に已に破す。是故に生じ已るも生ぜず。未生も亦た生ぜず。生時にも亦た生ぜず。何以故。已生の分は生ぜず。未生の分も亦た生ぜず。先の答の如し。復次に、若し生を離れて生時有らば應に生時に生ずべし。但だ生を離れて生時無し。是故に生時にも亦た生ぜず。復次に、若し生時に生ずと言はば則ち二生の過有り。一は生を以ての故に生時と名け、二は生時中に生ずるを以てなり。二は皆な然らず。二法有ること無し。云何んが二生有らんや。是故に生時も亦た生ぜず。復次に生法の未だ發せざるは則ち生時無し。生時無きが故に生は何の所依ぞ。是故に生時に生ずと言ふを得ず。如是に推求するに生じ已りて生無し。未生にも生無し。生時に生無し。生無きが故に生は成ぜず。生の成ぜざるが故に住滅も亦た成ぜず。生住滅の不成なるが故に有爲法は不

成なり。是故に偈中に説く、去未去・去時中に已に答へぬ、と。問曰、我、定んで生じ已りて生じ、未生にして生じ、生時に生ずと言はず。但だ衆縁和

合するが故に生有り、といふ。答曰、汝、是説有りと雖も此れ則ち然らず。何

以故、

「若し生時に生ずと謂はば 是事已に成ぜず。云何んが衆縁合して 爾時而も生ずるを得ん」(第十六偈)

生時の生は已に種種の因縁もて破す。汝今何を以って更に「衆縁和合の故に生有り」と説くや。若し衆縁の具足も不具足も皆な生と同じく破すべし。復次に、

「若し法、衆縁より生ぜば 即ち是れ寂滅性なり。是の故に生と生時と是の二は倶に寂滅なり。」(第十七偈)(縁によって生じるものも生じつつあるものも皆寂静である。)

衆縁所生の法は無自性なるが故に寂滅なり。寂滅を名けて無と為す。此の無、彼の無相、言語道を斷じ、諸の戲論を滅す。衆縁の名は、縷に因りて布有り蒲に因りて蓆有るが如し。若し縷自ら定相有らば應に麻從り出ずべからず。若し布自ら定相有らば應に縷從り出ずべからず。而かも實に縷従り布有り、麻從り縷有り。是の故に縷も亦た定性無く、布にも亦た定性無し。燃と可燃とが因縁和合して成じて自性有ること無きが如く、可燃無なるが故に燃も亦た無なり。燃無なるが故に可燃も亦た無なり。一切法も亦た如是なり。是の故に衆縁從り生ずる法には自性無し。自性無きが故に空なること野馬の實無きが如し。是の故に偈中に説く、生と生時と二倶に寂滅なり、と。應に生時の生を説くべからず。汝、種種の因縁を以て生相を成ぜんと欲するも皆な是れ戲論にして寂滅相に非ず。問曰、定んで三世の別異あり。未來世の法は生を得る。因縁即ち生ず。何が故に生無しと言ふや。答曰、

「若し未生の法有りて 説きて生者有りと言ふ、此の法、先に已に有らば 更に復た何ぞ生を用ひん。」(第十八偈)

若し未來世の中に未生法有りて生ぜば是の法、先に已に有り。何ぞ更に生ずることを用ゐんや。法あらば應に更に生ずべからず。問曰、未來に有りと雖ども現在相の如くには非ず。現在相となるを以ての故に生と説く。答曰、現在相は未來中には無し。若し無くんば云何んが未來生法の生を言はん。若し有らば未來と名けず。應に現在と名くべし。現在は應に更に生ずべからず。二は倶に生無きが故に生ぜず。復次に、汝、生時に生じ亦た能く彼を生ずと謂はば、今當に更に説くべし。

「若し生時生ずと言はば、是れ能く所生あるなり。何ぞ更に生有りて 而に能く是の生を生ずるを得む。」(第十九偈)

若し生の生時に能く彼を生ぜば是の生は誰か復た能く生ぜん。

「若し更に生の生ずること有りと謂はば生は則ち無窮なり。生を離れて生の生ずる有れば 法は皆な能く自ら生ぜん。」(第二十偈)

若し生、更に生有らば生は則ち無窮なり。若し是の生の更に生無くして而も自ら生ぜば一切法も亦た皆の能く自ら生ずべし。而して實には爾らず。復次に、

「有法は應に生ずべからず 無も亦た應に生ずべからず。有無も亦た生ぜず。 此の義、先に已に説きたり。」(第二十一偈)(有の生も無の生も有無の生もない、つまり生は無い。)

凡そ所有る生は有法にして生有りとするか、無法にして生有りとするか、有

無法にして生有りとなすかなれども、是れ皆な然らず。是の事、先に已に説きたり。此の三事を離れて更に生は有ることなし。是の故に生は無し。復次に、

「若し諸法の滅する時、 是の時應に生ずべからず。 法、若し不滅ならば終に是の事あることなし。」(第二十二偈)

若し法、滅相ならば是の法、應に生ずべからず。何以故。二相は相違するが故なり。一には是れ滅相、法は是れ滅なりと知る。二は是れ生相、法は是れ生なりと知る。二相相違の法、一時なるは則ち然らず。是の故に滅相の法は應に生ずべからず。問曰、若し滅相の法が應に生ずべからずは不滅相の法は應に生ずべし。答曰、一切有爲の法は念念に滅するが故に、不滅の法無し。有爲を離れて決定して無爲法あることなし。無爲法は但だ名字のみ有り。是の故に「不滅の法は終に是事あることなし」と説く。問曰、若し法、生ずること無くも應に住あるべし。答曰、

「不住法も住せず 住法も亦た住せず。住時も亦た住せず。 無生云何んが住せんや」(第二十三偈)(三時に住はない)

不住法も住せず住相無きが故に。住法も亦た住せず。何以故。已に住有るが故なり。去に因るが故に住有り。若し住法先に有らば應に更に住すべからず。住時も亦た住せず。住・不住を離れて更に住時無し。是の故に亦た住せず。如是に一切處に住を求むるに不可得なるが故に即ち是れ生無し。若し生無くんば云何んが住有らんや。復次に、

「若し諸法滅する時は 是れ則ち應に住すべからず。法若し滅せざれば 終に是事あることなし。」(第二十四偈)

若し法滅相ならば是の法、住相あるべからず。何以故。一法の中に二相の相違あるが故なり。一には是れ滅相。二には是れ住相なり。一時一處に住・滅の相有るは是の事然らず。是の故に滅相の法に住有りと言ふを得ず。問曰、若し法不滅ならば應に住有るべし。答曰、不滅の法は有ること無し。何以故。

「所有る一切法は 皆な是れ老死の相なり。終に法有りて老死を離れて住有るを見ず。」(第二十五偈)

一切法の生ずる時は無常なり。常に無常に隨逐するもの二有り。老及び死と名く。如是に一切法は常に老死有るが故に住時無し。復次に、

「住は自相住ならず、 亦た異相住ならず。生の自生ならず亦た異相生ならざるが如し」(第二十六偈)

若し住法有らば自相住と為んや他相住と為んや。二倶に然らず。若し自相住ならば則ち是れ常たり。一切有爲法は衆縁より生ず。若し住法が自ら住せば則ち有爲と名けず。住、若し自相住ならば法も亦た應さに自相住なるべし。眼の自ら見ること能はざるが如く住も亦た如是なり。若し異相住ならば則ち住に更に住有り是れ則ち無窮なり。復次に異法の異相を生ずるを見る。異法に因らずして而も異相有るを得ず。異相不定なるが故に異相に因りて而も住するは是事然らず。問曰、若し住無くも應に滅有るべし。答曰、無し。何以故、

「法已に滅せば不滅なり、未だ滅せざるも亦た不滅なり。滅時にも亦た滅せず 。無生何ぞ滅有んや」(第二十七偈)

若し法已に滅せば則ち滅せず。先に滅せしを以ての故なり。未だ滅せざれば亦た滅せず。滅相を離るるが故に。滅時にも亦た滅せず。二を離れて更に滅時無し。如是に推求するに滅法は即ち是れ無生なり。無生何んぞ滅有んや。復次に、

「法若し住有らば 是れ則ち應に滅すべからず。法若し不住なるも 是れ亦た應に滅すべからず」(第二十八偈)

若し法定んで住ならば則ち滅有ること無し。何以故。住相有るが由なり。若し住法滅せば則ち二相有り。住相と滅相なり。是故に住の中に滅有りと言ふを得ず。生死の一時に有るを得ざるが如し。若し法不住なるも亦た滅有ること無し。何以故。住相を離るるが故なり。若し住相を離るれば則ち法無し。法無くんば云何んぞ滅せん。復次に、

「是の法、是の時に於いては是の時に於いて滅せず。是の法、異時に於いては 異時に於いて滅せず」(第二十九偈)

若し法の滅相有らば是の法は自相滅為るや異相滅為るや。二は倶に然らず。何以故。乳は乳時に於いて滅せず。乳時あるに随って乳相定んで住するが故に。非乳時にも亦た滅せず。若し非乳ならば乳滅と言ふを得ざるが如し。復次に、

「一切諸法は 生相不可得なるが如く生相無きを以ての故に即ち亦た滅相無し」(第三十偈)

先の推求の如く一切法は生相不可得なり。爾時、即ち滅相無し。生を破るが故に生無し。生無くんば云何んが滅有らん。若し汝の意、猶ほ未だ已まずんば今當に更に滅を破する因縁を説くべし。

「若し法、是れ有ならば 是れ即ち滅有ること無し。應に一法に於いて 而も

有無の相あるべからず。」(第三十一偈)(「有る」とか「無い」とかを否定する)

諸法有る時、滅相を推求するに不可得なり。何以故。云何んが一法中に亦は有亦は無相ならん。光と影は同處せざるが如し。復次に、

「若し法、是れ無ならば 是れ即ち滅有ること無し。譬ば第二頭の無なるが故に 斷ずべからざるが如し。」(第三十二偈)

法若し無ならば則ち滅相無し。第二頭第三手は無の故に斷ずべからざるが如し。復次に、

「法、自相によりて滅せず、他相にも亦た滅せず。自相によりて生ぜず、 他相も亦た生ぜざるが如し。」(第三十三偈)(生が自生とも他生とも言えないように、滅も同じ。)

先に生相を説きしが如く、生は自ら生ぜず、亦た他よりも生ぜず。若し自體を以て生ぜば是ち則れ然らず。一切の物は皆な衆縁より生ず。指端の自ら觸るること能はざるが如く、如是に生も自ら生ずること能はず。他より生ずることも亦た然らず。何以故。生は未だ有らざるが故に應に他より生ずべからず。是の生、無なるが故に自體無し。自體無なるが故に他も亦た無なり。是の故に他より生ずるも亦た然らず。滅法も亦た如是なり。自相に滅せず他相に滅せず。復次に、

「生・住・滅、成ぜざるが故に有爲有ること無し。有爲法の無なるが故に何ぞ無爲有ることを得んや」(三十四偈)

汝先に説く、生・住・滅の相は有るが故に有爲有り。有爲あるを以ての故に無爲有りと。今、理を以て推求するに三相は不可得なり。云何んが有爲あることを得んや。先に説くが如く、無相の法はあることなし。有爲法は無なるが故に何んぞ無爲あることを得んや。無爲相は不生不住不滅と名く。有爲相を止むるが故に無爲相と名く。無爲は自ら別相なし。是の三相に因りて無爲相あり、火の熱相爲り、地の堅相為り、水の冷相為るが如し。無爲は則ち然らず。問曰、若し是の生・住・滅は畢竟無ならば云何んが論中に名字を説くことを得んや。答曰、

「幻の如く亦た夢の如く乾闥婆城の如く、所説の生・住・滅も其相亦た如是なり。」(第三十五偈)

生住滅相は有ること無きこと決定す。凡人は貪著して有決定と謂ふ。諸賢聖は憐愍して其の顛倒を止めんと欲し還って其の所著の名字を以て説と為す。語言は同じと雖も其の心は則ち異なり。如是に生住滅相を説けば應に難あるべからず。幻化の所作の如く應に其の所由を責むべからず。中に於いて憂喜の想あるべからず。但だ應に眼見すべき而已。夢中の所見は應に實を求むるべからざるが如く乾闥婆城は日出時に現じて而も實あることなし。但假に名字を為し久しからずして則ち滅すが如く、生住滅も亦た如是なり。凡夫は分別して有と為す。智者は推求して則ち不可得と為す。(已上)

 

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