妙法蓮華経秘略要妙・観世音菩薩普門品第二十五(浄厳)・・38
九には追って羅刹の難を頌ず。
「或遇惡羅刹 毒龍諸鬼等 念彼觀音力 時悉不敢害」
長行の羅刹の難(「飄墮羅刹鬼國。其中若有乃至一人。稱觀世音菩薩名者。是諸人等。皆得解脱羅刹之難」)に加て毒龍諸鬼を出す。唯羅刹のみにても大難なり、況や毒龍及び諸の鬼神、其の上に輻湊せば厄難ならんこと云にたらず。
「時悉不敢害」とは得益なり。此の中に「時」とは即時の義なり。「悉」の字は羅刹諸鬼に普く罹るなり。
十に加て、惡獸圍遶の難を頌す。
「若惡獸圍遶 利牙爪可怖 念彼觀音力 疾走無邊方」
「惡獸」とは獅子・酔象・虎狼・熊羆(ゆうひ)乃至悪狗等の如き一切人を損悩する類なり。
「利牙爪可怖」とは如上の獣或は角を以て触突、或は牙を以て齧み、或は爪を以て爴裂(つかみさき)、或は蹄を以て蹈等の怖畏あらんとなり。
「念彼」等(念彼觀音力 疾走無邊方)は、如上の怖あらんにも観音の大悲力の故に或は火焔を起こし、或は大力の夜叉金剛等を現じて追ひ、或は獅子を現じて吼怒せしむ。縦使眼には見ざれども彼の獣の目に如上の大威奮怒の相を見るが故に、即時に逃散るなり。
十一には蚖蛇蝮蠍の難を加ふ。
「蚖蛇及蝮蠍 氣毒煙火燃 念彼觀音力 尋聲自迴去」
「蚖蛇」とは文句五の二に曰く、蚖蛇は毒盛んにして触れざれども而も吸ふ(已上)。韻會(『古今韻会挙要』(こきんいんかいきょよう)は、元代に編纂された韻書の一)に曰く、蚖は吾官の切、毒蛇なり(已上)。若し音元時は守宮(いもり)也といへり。
「蝮」とは韻會に曰く、蝮は芳六の切(音は福なり)。爾雅(漢代に成立されたとされる辞書。書名は「雅(タダ)シキニ爾(チカ)ヅク」、つまりこの書によって古典を正しく読解できる、との意)に曰、蝮虺(ぶくき)は博(ひろ)さ三寸、首の大さ擘(おほゆび)の如し(史記の正義に曰、擘は歩歴の切、手の大指なり)。註に曰く、身の廣さ三寸、頭の大きさ人の擘指の如し、此自一種の蛇なり。名けて蝮虺となす。今蛇あり、細頸大頭なり、色艾綬(かいしょう。綠綬)の文の如し。文の間に毛有り猪の鬣(たてがみ)に似たり鼻の上に針あり、大なる者は長さ七八寸、一の名は反鼻、虺(き・まむし)の如き類なり。牙有り、最も毒なり。人の手を螫(さ)す時は則ち断る。土の色の如し。所在(ところどころ)に之有り。俗に土虺(どき)と呼ぶ。其の蝮は特に南方に出。埤雅(ひが・北宋の陸佃によって編集された辞典)に曰、衆蛇の中に蝮は胎より産生す。輒(すなわ)ち母胎を坼裂(たくれつ)す(已上「韻會」)。博物志(六朝時代、張華)に曰、蝮蛇は秋月に毒盛んなり。艸木を齧んで以て其の気を泄す。草木即ち死(か)る。人樵採(さいし)て設(もし)此の艸木の為に傷刺さるる所者、亦人を殺す。廣志(4世紀・郭義恭。南北朝時代の朱波国史料)に曰、蝮蛇は土の色と相ひ亂る。長さ三四尺、其の人を中(やぶ)るには牙を以て裁(わずか)に皮を断ちて血を出すには則ち身盡く痛み、九竅より血を出して死す。史記の田儋(でんたん、 紀元前208年)は、秦末期の斉の国王。『史記』に列伝あり。陳勝・呉広の乱に乗じて、斉王を名乗って自立したが、秦との戦いで戦死した)が傳に曰、蝮手を螫は則ち手を斬る。足を螫時は則ち足を斬る。何者(なんとなれば)身に害を為すが為也(已上)。陸魯望(名は亀蒙。唐の人。)の離別の詩に曰、蝮蛇一たび手を螫さば壮士疾く腕を解(おと)すといへり(「離別」に「丈夫涙無きに非ず,灑がず離別の間に。劍を 杖つきて尊酒に 對し,游子の顏を爲すを恥づ。蝮蛇一たび 手を螫せば,壯士 即ち腕を解く。思ふ所は功名に 在り,離別何ぞ 歎くに足らん。」)。右の諸文を検(かんがふ)るに日本のくちはみに似たり。倭國の俗説に、くちはみは胎生すといへり。今の説に能合せり。
「蠍」とは蝎に作るは誤れり。蝎は何が葛の切(かへし)、桑蟲。一に曰、蝤蠐(しゅうせい・カミキリムシの幼虫)(已上)。今の毒蟲の義にあらず。蠍は韻會に曰、蠍は許竭の切。毒蟲を詩。巻髪蠆(はち)の如し。註に長き尾あるを蠆(たい)と為し、短尾あるを蠍と為すと。爾雅翼説文に、以為(おもへらく)鼠負(そふ、わらじ虫)の大なる者多く化して蠍と為ると。或は云、江南に之有り、俗に主薄蟲と呼ぶ。蜥蜴(せきえき。いもり)能く之を食ふ。故に蠍虎と名く。又蝸牛の為に食はる。先ず跡を以て之を規すれば復去らず。今の人或は蠍の為に螫さるときは蝸牛の涎を以て之を塗れば立ちどころに止む(已上)。蠍虎は和名に左曽利(さそり)と曰(已上)。日本に土の中に穴を作て棲む、小く短き蜂あり、百千万一處に集まり居る。若し人触れば則ち螫す。倭俗是をささり蜂と云ふ、此の事なるべし。文句五の二に曰、蝮蝎は則ち螫す(已上)。能く相応するなり。
「氣毒煙火燃」とは「氣毒」とは気息をしかくるに人を損悩するを云ふ。僧護經には、龍に四の毒あり。一には聲毒(聲を出せば人を害する毒あり)、二には見毒(形をあらはせば見る人損す)、三には気毒(気を嘘く時は人を害す)、四には觸毒(身に觸る時人を害す)。(佛説因縁僧護經「龍有四毒。不得如法受持讀誦。何以故。默然受者。以聲毒故。不得如法。若出聲者。必害師命。是故默然而受。眠目受者。以見毒故。不得如法。若見師者。必害師命。是故閉目。迴顧受者。以氣毒故。不得如法。若氣嘘師必當害命。是以迴顧。遠住受者。以觸毒故。不得如法。若身觸師。必害師命。是以遠住」)又齧毒(けつどく)あり(かめば人を損するなり)此の気毒も龍の気毒の類なるべし。「煙火燃」とは毒を吐くこと煙を起こるが如く、火の然るが如くなる義を説いて毒の甚だしきことを云なり。
「尋聲自迴去」とは観音の名號を唱ふる聲に相継で頓(やが)て帰り去るべしとなり。
問、今の十二の難(龍魚諸鬼難、須彌峯所推墮の難、墮落金剛山の難、怨賊刀加害の難、王難、禁枷鎖難、呪詛諸毒藥難、惡羅刹毒龍諸鬼等難、惡獸圍遶難、蚖蛇及蝮蠍難、雲雷鼓掣電 降雹澍大雨難。)は皆意業に就いて念彼と云ふ。何ぞ口業の称名を交ふるや(ここでははじめて「尋聲自迴去」と聲をだすことを前提とした表現になっている)。
答、十二の難は皆意業に約すと云は長行に七難(火難、水難、羅刹難、刀杖難、鬼難、伽鎖難、怨賊難)を口業に約するに対して(長行では七難の所は皆「稱觀世音菩薩名者」となっている)今の頌は意業を云て影略互顕(一方で略した語を他方で述べ、他方で略した語を一方で述べて、各事項が相互に説明を補完していること)すと云までなり。今の頌文強ちに意業に局るべきにはあらず。又此に「尋聲」と云は、餘の難にも亦口業の称名ありといふことを顕はすなり。又意は本なり。戯言なれども思ふより出る也。戯動なれども謀より起こる也。故に身に禮拝するも口に称名するも皆意業より起こると云ことを彰はすを以て通じて念彼と云なり。故に此の念彼の二字に身口の二業をも含ずるなり。文に封ぜられて義を誤ることなかれ。
十二には雲雷雹雨の難を加ふ。
「雲雷鼓掣電 降雹澍大雨 念彼觀音力 應時得消散」
「雲」とは黒雲なり。已下は皆文の如し。箇様の悪雲雹雨等は衆生の悪業力増上なるが故に、悪龍力を得て悪雹悪雨を降らす者なり。而るに今一心に観音を念ずる時、善増上なるを以て悪龍力を失ふが故に、雹雨自散すべきなり。又観音、迦樓羅(かるら)の身を現じて悪龍の前に出玉ふべきが故に、悪龍自ら退散すべきなり。止雨陀羅尼經には、大身の金翅鳥王を畫て法を修せば風雨速かに除べしと見へたり(金剛光焔止風雨陀羅尼經「又加持欝金香泥。劍兩面上畫大身蘖嚕荼王(金翅鳥)。便加持劍一千八十遍。右手執劍左手結龍坐印。面向八方方別輪劍。奮怒大聲誦心眞言一百八遍。彼諸惡龍自宮殿中。皆見大身蘖嚕荼王。搏逐於身。出自宮殿一時馳走。更不非時起諸惡風雷雹暴雨。」)。又古来師師相伝の止雨法にも金翅鳥の印言等を修することあり、此の意なるべし。此の十二の中に加へて頌ずる堕須弥山等呪詛悪獣毒蟲雷雨等をも已前の如く一一に煩悩業果の三道に約し四教等に約して釈すべし。且く堕山の難を果報に約せば、金剛山須弥山より堕るは文の如し、乃至岸より墜ち、坑に陥り、穽(おとしあな)に入り、或は樹より落ち、屋上より落る等は人間の堕落の難なり。地獄には獄卒に遂(をはれ)て岸より墜、或は熱鐵の地の上に投げらるる等あり。餓鬼にも大力の夜叉等に遂(をはれ)て山巌等より墜る苦あり。畜生は人に遂(をはれ)或は同類の強力の者、或は異類の猛獣等に遂(をはれ)て堕落すること目前なり。修羅は天帝との戦に負けて須弥山より堕ることあり。天人も果報盡て死して下界に堕落することを知らば大に憂悩す。是亦堕落の類なり。次に業に約せば假令不殺生の善を作すに或は外縁逼迫し、或は内心の煩悩盛んに起て殺生の業を造るは是不殺生業の故に人天の高山に上るべきを、殺生の悪に推堕されて不殺の命を失ふなり。不盗不婬等の十善乃至施戒等の六度までも皆例して知るべし。次に煩悩に約せば、五百の仙人は甄陀羅女が歌舞を聞きて忽ちに婬心を發して空より堕落す(大智度論十七「如五百仙人在山中住,甄陀羅女,於雪山池中浴。聞其歌聲,即失禪定,心醉狂逸」)。舎利弗は乞眼婆羅門に眼を施ししに剜(えぐり)出して與へしかば、婆羅門則ち此に唾吐きて蹂躙しき、時に舎利弗かくの如き愚人を度すること能はじと怯弱の思を起こして第六住より退堕して聲聞と成れり(大智度論巻十二)。又来世にも大小乗の出家の人、或は怯弱の心を起こして不活命(命を失ふ)の畏れをなし、或は婬貧の煩悩を起こして俗に還る。此等は皆煩悩に因って堕落するなり。今且く堕落の一を辨ず。其の餘の呪詛等も皆準じて解すべし。
又十二の難(偈文にある龍魚諸鬼難、須彌峯所推墮の難、墮落金剛山の難、怨賊刀加害の難、王難、禁枷鎖難、呪詛諸毒藥難、惡羅刹毒龍諸鬼等難、惡獸圍遶難、蚖蛇及蝮蠍難、雲雷鼓掣電 降雹澍大雨難。)は総束するに六種を出ず(六種とは地水火風空識なり。此の六は諸法の種子なるが故に、亦六界とも云。界差別の故に密宗には是を六大と名く。此の六法は一一に法界に周遍して廣大無辺なるが故に。然も復一切諸法の本體實性なり。不生不滅常恒真實にして而も互相に異類無碍に同類無碍にして擧一全収し一多相入せり。是密宗の實義なり。)謂く須弥山と金剛山と刀杖と枷鎖と毒藥とは地に属す。皆堅性にして形あるが故に。雷電は陰陽水火の相激するより起こる物なれば水火に二つ属すべし。火焼は火なり。長行の中の風難を取って風と為す。又三千大千國土を取って虚空とす。龍魚と怨賊と呪詛と羅刹毒龍諸鬼と悪獣と毒蟲とは心識あるが故に識に属す(已上天台幷に知禮の意)。若し秘密趣に約せば此の地水火風空識の六大は周遍法界の體性なれば、是則ち衆生の色心なり(色とは身なり。地水火風空の五大和合して成ぜり。心とは識なり。無量の心法あれども了別の義(唯識)に約して総じて識と名くるなり)。亦即ち観音の色身なり。衆生は迷するが故に我が色身と外の諸法と一體なることを知らずして、我が身心(外の六大即ち我が身心なり)を以て苦とし難として自ら憂悩す。観音は妙観察智の體なるが故に諸法平等の如實の性を覚悟して、是等の難の法體即ち自の色心なりと體達し玉ふを以て一切の難に於て自在の神力を得て、能く苦を轉じて樂とし玉ふ。是を以て新訳には観自在と翻ず。今日の我等も深くこの六大平等の理を體悟する時は諸法に自在にして苦を轉じて樂と為すること観音の如くにして無二無別なり。縦使未だ達悟に及ばずとも深く此の理を信解して或は名号を唱へ、或は真言を誦し、或は三密具足して修練せば無疑惑の行なるが故に速に成就を得ることあるべし。其の軌則をば如意輪陀羅尼經(菩提流支譯如意輪観音の印明、護摩法等を説く)、如意輪瑜伽法要(観自在如意輪瑜伽法要)同念誦儀軌、十一面儀軌、聖観自在心真言観行儀軌(此処には「即ち観ぜよ、本尊の心上に円満寂静の月輪有り。月中に於いて右に廻りて陀羅尼の字を安布せよ。其の字皆白色の光を放ち法界を遍周す。其の光還り来たりて行者の頂に入る。瑜伽を修する者の心月輪に中に於いて、前に准じて右に巡りて布列し了了分明にせよ。・・」とあり)。瑜伽蓮華部念誦法、観自在大悲成就瑜伽蓮華部念誦法門、観自在最勝心明王經、阿嚕力経(観世音菩薩の画像法やその供養儀式説く)、降三世大儀軌、千手瑜伽葉衣観自在菩薩經、観自在授記經、多羅念誦法、一髻尊陀羅尼經、不空羂索陀羅尼經、不空羂索神變真言經等の五十餘巻の經に具に明かせり。若し行ぜんと要せん者は先ず灌頂道場に入りて諸佛の加持を被って、次に明師に遇ひて一一に面授し委細の口訣を得て而して后に行ずべし。凡そ密宗の正意は一切の身業は地水火の三大なり(色あり形あるが故に)。一切の語業は風空二大なり(言語は息風の轉變なり。風は虚空に於いて自在に旋轉するが故に)。一切の意業は即是識大なり。然るときは内の身の印契、口の真言、意の観想、即ち外の十二難にして内外自他無二平等なり。能く此の理趣を覚りぬれば自の三業本来法界に周遍せるが故に一切の外難即ち我が身中にして自ら手足を運動するが如く、諸難に於いて自在を得るなり。此の六大無碍の理は是佛親(まのあたり)證し玉ふ所の法なるが故に、唯諸難を免るるのみに非ず、一念も此の観をなす時は、分に佛境界に入るなり。豈小補のみならんや。