「日本三大實録」「曲水の宴 (同日(三月三日のこと)
「是は昔王卿など参て御前にて詩を作りて講ぜられけるにや(注1)。御溝水(みかはみず・御所を流れた水)に盃をうかべて文人以下是をのむよし康保の御記にのせられたり(注2)。又顕宗天皇元年487三月上の巳の日後苑に幸して、めぐり水の豊のあがりきこしめすと、日本紀にあり(注3)。曲水の宴は周の世より始まりけるにや。文人ども水の岸になみゐて、水上より盃を流して我が身を過ぎざるさきに詩を作りて其の盃を取りて飲みけるなり。羽觴を飛ばすなどいふも此の事なるべし。」
(注1)(有名な「蘭亭序」にも三月三日に曲水の宴が催されたことを書いています。東晋の永和九年(353年)3月3日、王羲之は名士41人を蘭亭に招き、曲水の宴を開きました。その時に作られた詩集の序文の草稿が蘭亭序です。書道を学ぶ者すべてがその模写をお手本にします。本物は唐の太宗が自分の墓陵に副葬品として埋めてしまいました。)
「永和九年、歳は癸丑に在り。暮春の初め、会稽山陰の蘭亭に会す。禊事を脩むるなり。群賢畢く至り、少長咸な集まる。此の地に、崇山峻領、茂林脩竹有り。又、清流激湍有りて、左右に暎帯す。引きて以て流觴の曲水と為し、其の次に列坐す。糸竹管弦の盛無しと雖も、一觴一詠、亦以て幽情を暢叙するに足る。是の日や、天朗らかに気清く、恵風和暢せり。仰いでは宇宙の大を観、俯しては品類の盛んなるを察す。目を遊ばしめ懐ひを騁する所以にして、以て視聴の娯しみを極むるに足れり。信に楽しむべきなり。夫れ人の相与に一世に俯仰するや、或いは諸を懐抱に取りて一室の内に悟言し、或いは託する所に因寄して、形骸の外に放浪す。趣舎万殊にして、静躁同じからずと雖も、其の遇ふ所を欣び、蹔く己に得るに当たりては、怏然として自ら足り、老の将に至らんとするを知らず。其の之く所既に惓み、情事に随ひて遷るに及んでは、感慨之に係れり。向の欣ぶ所は、俛仰の閒に、以に陳迹と為る。猶ほ之を以て懐ひを興さざる能はず。況んや脩短化に随ひ、終に尽くるに期するをや。古人云へり、死生も亦大なりと。豈に痛ましからずや。毎に昔人感を興すの由を攬るに、一契を合せたるが若し。未だ甞て文に臨んで嗟悼せずんばあらず。之を懐に喩ること能はず。固に死生を一にするは虚誕たり、彭殤を斉しくするは妄作たるを知る。後の今を視るも、亦由ほ今の昔を視るがごとくならん。悲しいかな。故に時人を列叙し、其の述ぶる所を録す。世殊に事異なりと雖も、懐ひを興す所以は、其の致一なり。後の攬る者も、亦将に斯の文に感ずる有らんとす。」
(注2)「村上天皇御記」に「御釣殿、泛觴流水令侍臣飲、公卿侍臣献詩云々」
(注3)日本書紀巻五顕宗天皇紀に「元年三月上巳, 後苑に幸して曲 水 宴」