福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

「覚海上人天狗になる事・谷崎潤一郎」(解説付き)

2021-08-17 | 法話

「覚海上人天狗になる事・谷崎潤一郎」(解説付き)
南勝房法語(「覚海法橋法語」)にいう、「南が云はく十界に於て執心なきが故に九界の間にあそびありくほどに念々の改変に依て依身を受くる也、さようになりぬれば十界住不住自在也、………密号名字を知れば鬼畜修羅の棲めるも密厳浄土也、ふたり枕をならべてねたるに一人は悪夢を見、一人は善夢を見るが如し、………凡心を転ぜば、業縛の依身即ち所依住の正報の浄土なり。その住所もまたこの如し。三阿僧祇の間は、此の理を知らんがために修行して時節を送るなり。」と。此の南勝房という坊さんが覚海上人のことであって、順徳院の建保五年1217(鎌倉幕府は源実朝、執権は北条義時)に高野山第三十七世執行検校法橋上人位に擢んでられたというから、ざっと今から七百年前、鎌倉時代の実朝の頃の人である。但馬の国朝来郡の生れで、始めは同国健屋の与光寺の学頭であったが、後に高野山へ登って学侶の華王院に住した。この与光寺という寺は現存していて、土地の人は今も上人の遺徳を慕っているという。(現在も與光寺として但馬青年教師会が毎年「 覚海大徳 報恩謝徳法会」を開催しているようです)。
華王院の方は今日では増福院と称し、前掲の南勝房法語、並びに覚海伝、上人自筆の消息文等を伝えている。一日私は此の寺を訪れ住職鷲峰師の好意に依って悉くそれらの古文書を筆録し得た。(令和の現在も増福院のご住職は鷲峰性の方です。)

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紀伊続風土記所載高野山の天狗の項に「是は鬼魅の類にして魔族の異獣なり」とあるが、「然れども感業の軽重に随って自ら善悪の二種あり、よりて佛塔神壇を寄衛して修禅の客を冥護するあり、又一向邪慢高にして悪逆に与し正路に趣ざるあり、当山に栖止するもの佛道を擁護し悪事を罰するの善天狗なり」ともあるから、魔界の種族ではあるが、必ずしも佛法の敵でないことが分る。兎に角「人体は吉し、雑類異形は悪し、と偏執するは悟り無き故也、相続の依身はいかなりとも苦しからず、臨終に何なる印を結ぶとも思ハはず、思ふように四威儀に住す可し、動作何れか三昧に非ざらん、念念声声は悉地の観念真言也」(さきの「南勝房法語(「覚海法橋法語」)」にあり)と云うのが南勝房法語の建て前であって、上人が天狗になったことは、上人自身としてはその信念を実行に移した迄である。

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増福院に蔵する所の上人の消息文は「蓮華谷御庵室」へ宛てたもので、鷲峰師の説明に依ると、此の宛て名の主は所謂「高野非事吏ひじり」の祖明遍上人(少納言入道信西末子)のことであるという。「近日十津川郷人当寺領大滝村に来り、札を懸け申云、当村并花園村等吉野領十津川の内也、仍ち此を示の札懸らる。自今以後は十津川の公事を勤むべし云々。此条自由之次第不思議之事候」という書き出しで、全文を掲げるのは煩わしいから省略するが、要するに吉野僧の暴状を見て憤懣の思いを明遍上人に訴えたものである。覚海伝に拠れば此の事のあったのは建保六年1219正月より承久元年1220八月に至る間で、吉野の春賢僧正が郷民を引率して、高野山の所領に闖入し、花園の庄大滝の郷に吉野領と云う札を立て、「並びに御廟橋下に於いて芳野領と標す」とある(「高野山荒廃記」の「高野山吉野堺と相論の事」にあり)から、今の奥の院の大師霊廟の前にある無明の橋のことであろう、あの辺にも亦高札を立てた。伝には「爾来、精進法界之霊場を以て殺生汚穢之猟地と為す。幾許の狼藉不道は枚挙に遑あらざる也」と記し、消息の方には「剰あまつさへ数十鹿を殺し皮を剥ぐ」と記し、「寺家之歎何事か之に過ざらん候哉。人、忍辱之地を守り弓箭無しの間、十津川之住人、此の如きの子細を知り動も狼藉に及び候者也」とも云っている。然らば当時高野山には僧兵というものがなかったのであろうか。紀伊続風土記は曰く、「古老伝に吉野悪僧等の企にて此の山の領地を劫奪し大師の霊跡を涜さんとす、時に覚海検校深重の悲誓を発て修羅即遮那の観門を凝し魔即法海の行解を務め其の類に同じて山家を鎮護し、大師佛法の運を龍花の春に達せんとして大勢勇猛の羽翼と化し、白日に飛去すという」と。覚海伝
(南山第三十七世執行検校法橋上人位覚海傳  金剛峰寺沙門 維寶 編輯)には、此の時(承久元年八月五日)三千の衆徒が大秘伝法の絶滅を悲しみ山を下ろうとしたのを、上人が強いておしとどめ、自分が炎魔の庁へ行って訴えるからもう一日待てと云ったと記してあって、示寂したのはそれより更に六年の後、貞応二年1223癸未八月十七日春秋八十二歳の時ということになっている。しかし上人が魔族を使嗾したために吉野の悪僧春賢僧正は同年十二月に俄かに夭滅し、吉野方へ加勢して非理に組みした公卿たちは悉く「三地両所の冥罰を蒙った」とあるから、これに依って一山の危機は救われた訳である。すると覚海上人が天狗になったのは既に在世中からであって、時々魔界へ飛行したのであろうか。金剛三昧院の毘張房も同じく天狗であるが(注1.に出す、谷崎潤一郎「天狗の骨」にある)、これは元来天狗であったものが人間に化けて寺に住み込んでいたので、上人の場合はこれと反対である。

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上人が死後に於いて魔界に生れたことは、或いは魔界に生れるという信念を以て死んだことは確かと見ていい。此の間の事情に就いては、少しく長くなるけれども覚海伝の一節を仮名交り文に書き改めて大方諸賢の一粲に供しよう。
「有る時師自ら誓ひ懇ろに祷って曰く、吾既に産を鄙北に受け、遮那の法を南山(註、南山は高野のこと、比叡山の北嶺に対していう。)に習ひ、現今山頭に在って務職に任ず、奇縁不可思不可測なり、唯願はくは三世の勃駄ぶつだ、十界の索多さつた、及び吾が大師、吾に我が前生を示告せよ、いかなれば此の如く得難きの人身を得、遇ひ難きの密法に逢ひたる乎と、五体を地に擲ち、目に血涙を流し、身の所在を忘れ、誠を盡して命根尚絶へんとするに至る。時に大師爾として真影を現ず。和柔類ひ稀にして容顔霊威、和雅の梵音を挙げて幽声を耳に徹せしむ。汝は始め是れ摂州の南海に産し、形を小蛤に現じて蚌の海族と与に波に漂ひ、砂石に交糅して四海に流るること千歳。唄音風に順って碧波に入るに逢ひ、蛤聞熏の力に因って海浪に激揚せられて自ら天王寺の西の浜畔に着きたるとき、童僕戯れに抛って天王寺堂前の床に置きたるに、(註、大阪の天王寺が昔いかに海に近かったかということが、此の記事に依って想像される。)誦経読呪の声を聴くに因って第二生に牛身を受く。重きを負うて遠きに至り、牧童鞭を加へ、蚊蚋肉を齧みたれども、餘縁尚朽ちずして一日大乗般若を書するの料紙を荷ひ負ふが故に、転生して第三生に赭馬の肉身を受く。唯縁熏発して幸ひに信輩の熊野に詣るものを乗せたるが為めに、更に転生して第四生には柴燈を燃やすの人身となることを得たり。常に火光を以て道路を照らすが故に智度の浄業漸々に熏増して、第五生には吾が廟前密法修法の承仕給者となる。晨天に閼伽を汲んで運び、昏暮に浄花を採って摘み、香を抹んで熏煙を凝らし、飯を炊いて滋味を調へ、耳には常に三密の理趣を聴き、目には自から五観の妙相を見る。是くの如きの冥熏加持の力用に依って現今第六生には法門の棟梁南山検校の鴻職を感受したり。第七生には必ず秘密法を護るの威猛依身を受け、身体に羽翼を生じて飛行自在に、修鼻突出して彎笋(わんじゅん・曲がった筍)の如く、遍身赤黒にして毛髪銅針に類せん。是れ乃ち吾が末弟慢放逸にして酒色に耽り、佛法王法を軽んじて佗の財宝を貪り、汚穢不浄の身を以て伽藍に渉登し、高歌狂乱して信者の機嫌を毀ち、引いて吾が密法を壊り、猥りに狂族を夥しくするが故に、此くの如きの異容に非ざれば争でか治罰賞正の誘進をなさんや。魔佛一如、生佛不二、修羅即遮那は、汝常に是レれ臆念する所也。言ひ訖って麗々たる遺韻山谷に伝はり、馥々たる異香野外に熏じ、感涙胆に銘じて身心汒昧なり焉。故に世人称して南山の碩学七生を悟るの人と云ふ矣。」
此れに類似の本生譚は今昔物語等にも多く見受けられるけれども(今昔物語巻十三「女子死受蛇身聞説法花得脱語 第四十三」巻十四「令誦方広経知父成牛語 第卅七」巻二十「延興寺僧恵勝依悪業受牛身語 第二十」巻二十「武蔵国大伴赤麿依悪業受牛身語 第廿一」巻二十「紀伊国名草郡人造悪業受牛身語 第廿二」巻二十第23話「比叡山横川僧受小蛇身語 第廿三」巻二十第「奈良馬庭山寺僧依邪見受蛇身語 第廿四」等)、天王寺海浜の蛤と云い、熊野参詣の馬と云い、いかにも高野の上人の前生にふさわしい。即ち上人は大師のお告げに依って自分の来世を豫知していたのである。しかし豫知していたが故に南勝房法語の如き信仰を建立したのか、此の信仰の故に天狗に生れるべく運命づけられたか。何れが因で、何れが果か。伝に依れば後者のように思われる。

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上人の廟は山中の遍照ヶ岡にあるが、一説には華王院境内の池辺に葬ったとも云い、その他も現に増福院の庭中に存している。覚海伝の賛の終りに曰く、「遍照岡崛の枯枝落葉毫釐も之を採るべきときは厳祟を施す、其の威其の霊信ず可く懼る可し、其の悉地を成ずる上か中か下か、都べて即身の佛か、嗚呼奇なる哉遊戯三昧」と。


(注1
谷崎潤一郎「天狗の骨」
  「高野山第三十七世執行撿校覚海上人(後堀河帝貞応二年八十二歳にて示寂)は天狗になつたと云はれるが、この上人の住んでゐた華王院といふお寺が現今は増福院と云ひ、上人に関する古文書を蔵してゐる中に、天狗の頭蓋骨といふものがある。茲に示す図は、住職鷲峰師の許可を得て妻丁未子が写生したものである。
見たところ人口で拵へたり接ぎ合はせたりしたものでないことは確かだが、どつちが正面だが前だか後ろだか手に取つてみてもよく分らない。太古の怪獣の骨ではないかとも思はれるが、その方面の専門家に見せても一向説明がつかないといふ。先年大阪の三越だか白木屋だかの展覧会に出品したことがあり、その後もずゐぶんいろいろな人が拝観に来る。西洋人などもやつて来て、丹念に写真を取つて帰るのもある。尤もこれが天狗になつた覚海上人の遺骨だといふ訳ではない。上人の伝記その他関係文書にも此の骨のことは何も記してないし、別に縁起等も残つてゐない。ただ天狗には縁の深い此のお寺の什物としていつ頃からか伝はつてゐるのである。

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その外金剛三昧院の境内の丘の上に毘張房祠といふ小さなほこらがある。紀伊続風土記に依ると、これは天狗が「此院光匠の法徳を欽伏して随仕の浄人に変じ来て護身法を授んことを願り院主憐愍して法味を授れば永く院宇の火難を防んことを誓ひて消が如く失ぬ。今に夜々寄投する大杉樹ありて毘張杉と呼り、又此院及び来迎院に小祠を構て祀る近頃は鎮火の誓約ありとて小田原の町人等月並に毘張講を営み法供を擎く」とあるから、人間に化けてこのお寺に住み込んでゐたのである。西院谷の骨董屋の爺さんの話に、先年毘張さんの書いた書といふものを手に入れたが、西南院の院主さんに一円五十銭で売つたといふ。ほかにも高林房妙音房などといふ天狗があり、天狗の書とか画とかいふものも往々寺に伝はつてゐる。毘張は蓋し鼻長であらう、もとはさう書いたといふ説もある。

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天狗の迷信は、私の幼年時分までは東京近在にもあつた。羽後の三山は云ふ迄もないが、相州道了権現の山中などは本場のやうに思はれてゐた。高野山でもさすがに今日は天狗の怪異を聞かなくなつたが、しかし天狗にさらはれたとか、いたづらをされたとかいふ経験のある人は少くない。金剛峰寺に勤めてをられる梶原氏の話に、幼年の頃伯父につれられて田を見廻りに行つた折にクワシヤンボの通るおとを聞いた。クワシヤンボといふのはまだ行を積まない天狗のことで、これが通る時は非常に大きな響きをたてて峰より峰の樹木をふるはせ、姿は見えないがその飛行する方向が明瞭に分つたといふ。梶原氏の故郷は高野の南三四里の花園村といふ所で、朝は天狗が高野から此の村へ飛んで来て夕方になると又高野へ帰つて行つたさうである。

       ○

山中ところどころに相撲の土俵場よりも少し広いくらゐな、不思議に木も草も生えない空地があつて、これを「天狗のをどり場」と云つた。雪など降つたときに、盛んに蹴ちらした痕がついてゐて、「ああ又天狗がおりてゐたな」とよく猟師がさう云つたものだといふ。たしかに爪の生えている怪物の足痕らしく見えて、獣の足痕とも勿論人間のものとも思へなかつたが、近年山へ殖林するやうになつてからいつしか跡を絶つたさうである。
以上、この雑誌には少し不向きの話だが、他に適当な持ち合はせがないから、これでも猟奇の一端になるかと思つて責めを塞ぐ次第である。

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