昨日、一昨日と遠い親戚の葬儀に参列してきました。その折、僧侶の修行の程度は隠しようも無く現れると思い知りました。そこはある宗派の僧が5人ほどきて御通夜、葬儀、初7日と大きな声で一生懸命延々と長いお経を何度も唱えられたのですが、なぜか心に全く響かないのです。
僧侶のお経より故人のデスマスクのほうがはるかに荘厳でお釈迦様のとかれた人生の真実を深く訴えかけていました。
俗世の頃も葬儀にはよく参列しましたが故人が成仏したと思わせられた覚えはありません。
今回改めてなぜなのか考えてみました。
以前は故人をどこに導くのかということを参列者に知らせないから満足できないのだと思っていました。
しかし今回、よくよく考えてみると僧侶の修行が足りということに尽きるのではないかと思い至りました。
僧侶の方々は人柄もいいし、真剣に故人を成仏させるべくさまざまに宗派ごとに読経し所作をされますがどうしても毎日の暮らしぶりの片鱗が出てしまいます。これは隠しようがないのです。
導師の修行の程度によりその場の雰囲気が出来上がりますし、故人の魂が導かれるのですが
相当修行しないと集団の醸し出す俗世の雰囲気を引き上げる力は出ないし、同時にレベルの高い諸天善神等諸霊をお迎えし故人を所縁の浄土に導いて頂くこともできないのです。
帰宅してからもこの葬儀に参列して相当自分のレベルが下がったように感じました。また、この程度で影響される自分の未熟さも分かり、これからは毎日相当密教修行に励まなければならないと改めて思ったところです。この親戚の人の霊魂は改めて自宅で供養しています。
僧侶のお経より故人のデスマスクのほうがはるかに荘厳でお釈迦様のとかれた人生の真実を深く訴えかけていました。
俗世の頃も葬儀にはよく参列しましたが故人が成仏したと思わせられた覚えはありません。
今回改めてなぜなのか考えてみました。
以前は故人をどこに導くのかということを参列者に知らせないから満足できないのだと思っていました。
しかし今回、よくよく考えてみると僧侶の修行が足りということに尽きるのではないかと思い至りました。
僧侶の方々は人柄もいいし、真剣に故人を成仏させるべくさまざまに宗派ごとに読経し所作をされますがどうしても毎日の暮らしぶりの片鱗が出てしまいます。これは隠しようがないのです。
導師の修行の程度によりその場の雰囲気が出来上がりますし、故人の魂が導かれるのですが
相当修行しないと集団の醸し出す俗世の雰囲気を引き上げる力は出ないし、同時にレベルの高い諸天善神等諸霊をお迎えし故人を所縁の浄土に導いて頂くこともできないのです。
帰宅してからもこの葬儀に参列して相当自分のレベルが下がったように感じました。また、この程度で影響される自分の未熟さも分かり、これからは毎日相当密教修行に励まなければならないと改めて思ったところです。この親戚の人の霊魂は改めて自宅で供養しています。